第八話 掴まれた腕②
湯殿から戻ると、部屋の灯りは柔らかく落とされ、暖炉の火だけが静かに揺れていた。
クッションを枕代わりにし、ソファに横たわる五条様。
腕は胸もとで組まれ、長い睫毛は静かに伏せられたまま——
深く、穏やかな寝息が規則正しく続いている。
三が日は来られない、と大晦日の日におっしゃっていたのに。
それでも五条様は、元旦から毎日、この部屋まで足を運んでくださった。
きっと、私が一人だといつまでもお節に手をつけられないことに気付かれたのかもしれない。
謁見や、神経を使う行事が立て続けのはずなのに——きっと無理されてるに違いない。
こんな隅の部屋にまで気を遣っていただくなんて。
……迷惑をかけている。
看病だけでも恐れ多いのに、気まで使わせてしまっている。
毛布を手に取り、音を立てないよう静かに広げる。
眠っている五条様に近づくこと自体、本当なら許されない、不敬の極みだろう。
けれど——このまま冷えてしまっては、もっといけない気がして。
息を殺し、起こさないように、肩へ毛布を掛ける。
ふわりと、どこか懐かしい香りがした。
煙草でも香水でもない、清潔な布の匂いと、ほんの少しだけ高貴な薫物の余韻。
毛布の端を整えようと、もう少し身を乗り出した——その一瞬。
ぐい、と。
熱を帯びた指が、私の手首を唐突に掴んだ。
「っ……!」
反射的に胸の奥がぎゅっと縮こまる。
なんで毛布を掛けて差し上げようなんて考えてしまったんだろう。
殴られる。突き飛ばされる。怒鳴られる。
身体中の血の気が、音を立てて引いていくのがわかった。
けれど、落ちてきたのは——
「……どこへ行く」
低く、掠れた寝起きの声。耳の奥に直に響いて、ぞくりと背筋が粟立つ。
顔を上げると、睫毛がわずかに震え、黒曜石のような瞳がこちらを捉えていた。
起きたばかりのはずなのに、その視線だけは鋭くて、逃げ場がない。
「ご、ごめんなさい……!起こしてしまって……その、毛布を……」
言いわけにもならない言葉が、喉の奥で絡まり、うまく形にならない。
掴まれた手首に、ふっと力がこもった気がして、目をぎゅっと閉じた。
——来る。
そう思ったのに、想像した痛みはいつまで経っても訪れない。
代わりに、指先の力がほんの少し緩み、割れ物を扱うみたいに、掴まれた手首が少しだけ持ち上げられる。
その動きが、怖いのに、どこか慎重で、優しくて——余計に混乱した。
恐る恐る目を開くと、五条様は夢の続きでも見ているかのような遠い表情で、私の手首を見つめていた。
その瞳は、責める色とは程遠くて、ただ何かを確かめるように、じっと見つめられたかと思うと、自分の無意識の行動に気がついた五条様が、ハッとしたように手を引いた。
「……!!腕は……痛みはないか?」
「え?い、いえ……全然……!」
「そんなはずがない。……見せてみろ」
慌てて首を振る。
殴られるわけでも、罵られるわけでもなかった。
むしろ、酷く心配されている——ような。
どうしていいかわからず、私は手を胸の前でぎゅっと握りしめる。
五条様の瞳には驚きと強い戸惑いが残ったまま、私の腕から視線が離れない。
「そんな馬鹿な……素手で触れたはずなのに……」
素手。
その言葉に、ようやく気付く。
五条様の手には、いつもの手袋がない。
五条様の指が、もう一度こちらへ伸びかけて——
宙を掴むように躊躇し、引っ込められる。
「……すまない。突然、驚かせた」
「いえ……」
私の声は、情けないほど小さい。
五条様は一度、手を口もとに当てて深く息を整え、意を決したよう話し始める。
「……もう一度、触れてもいいか」
触れる。
その言葉が、怖いのに、なぜか胸の奥がじんと熱くなる。
拒む理由などないはずなのに、喉だけが詰まって、小さく頷くことしかできない。
「……はい」
差し出した左手の甲に、五条様は大きく息を吐いてから、指先を落としてくる。
触れた場所が、すうっと温かい。
指先は、心なしか微かに震えているように見えた。
人差し指が手の甲を滑るようになぞり、くすぐったさに肩が跳ねそうになるのを、必死に堪える。
「痛みは?」
「……?痛み……ですか?」
触れられるだけで、どうして痛みの話になるのか。
わからないまま、五条様は真剣な顔で私の様子を真剣に確認しながら、私の手を取り、大切に包み込むように触れられる。
いつもあかぎれと手荒れだらけだった私の手は、ここへ来て家事をしなかったせいか、少しだけ血の通った色を取り戻していた。
それでも、酷く頼りない手だ。
こんなふうに優しく触れられるのは、生まれて初めてのことで、どこを見たらいいのかもわからず、自分の指先をじっと見つめることしかできない。
「五条様……?」
名を呼んだ声が震えたのが自分でもわかった。
次の瞬間、五条様の顔がほんの少しだけ近づき——
「五条様!?」
徐に、五条様の柔らかな唇が、私の手の甲に降りてきて、思わず声をあげてしまう。
熱が一気に頬へ駆け上がり、視界がぐらりと揺れた気がした。
触れられた場所だけが、焼けるように熱いのに、そこには痛みがない。
ただ、胸の奥が、どうしようもなく鳴り始める。
「あぁ、すまない。……つい」
そう言いながらも、五条様の手は離れることなく、繋がれたまま。
絡め取るのではなく、逃がさないように——
指を折らないように、丁寧に、繋がれたまま。
熱を出した時よりも熱いかもしれない。
きっと、顔は真っ赤にもなっている。
心臓の音も激しくなり、このまま破裂してしまうかもしれない。
五条様は一度、私の手を見つめ、それから——自分の手を見た。
それは、信じられないものを確かめるように。
「……俺は」
言葉が途中で途切れ、代わりに小さな吐息が落ちる。
その横顔が、妙に寂しそうに見えて、胸が痛んだ。
「……そろそろ戻る。暖かくして、寝るように」
そう告げられると、やっと手が解かれる。
離れたはずなのに、私の手の甲も、指先も、彼の体温で熱いまま。
その熱を逃がすのが怖くて、無意識に手を握りしめた。
扉の向こうへ消えていく五条様の後ろ姿を、息をするのも忘れて見送る。
——あの口づけは、いったい、何だったのだろう。
答えの出ない問いを胸の奥に押し込みながら、握った手の熱だけを、抱え込んだ。
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