第八話 掴まれた腕①
「眠る前に帰宅できてよかった」
「五条様……」
三が日は宮中での行事のため、帰宅が難しいと昨夜おっしゃっていたのに。
いつも以上に豪華で格式高い衣装を身に纏い、部屋を訪れた五条様の姿に、改めて——
住む世界の違う遥か遠い方なのだと実感してしまう。
雪の気配を連れてきたような、凛とした空気。
部屋の灯りさえ、五条様の周りだけ少しだけ澄んで見える。
「雑煮は口にできたと聞いた」
「はい。御餅……生まれて初めて頂いて。あんなに柔らかいんですね」
「口に合ったなら良かった。では、これは明日食べるとよい」
そう言って渡されたのは、奇麗な漆塗りの、繊細な松竹梅の模様が描かれた大きな三段重ねのお重だった。
ずしり、と腕に重さが乗ると、手が滑りそうになり、息を呑んだ瞬間、五条様の大きな手が、迷いなく、底を支えて下さる。
触れられたわけではないのに、指先の近さだけで心臓が跳ねる。
「これは……」
「今夜の祝賀会で出されたお節を詰めてもらった」
お節……。
いつも台所の隅で、横目でしか見たことのない——遠い食べ物。
御餅以上に、どんな食べ物なのか、どんな意味があるのかすらわからない。
一生、自分には縁がないと思っていたものが、いま、この手の中にあるなんて。
「そんな……こんな恐れ多い物……いただけません」
しかも、祝賀会で出された物。
高貴な方々が口にするお節なんて、私が口にしていいはずがない。
「すみれ」
五条様は私の名を呼び、まっすぐ目を見つめられる。
逃げ癖のついた私の視線を、逃がさないように。
「お節は、今年一年の、健康を願うためのものだ」
健康を……。
その言葉が胸の奥に落ちる。
私になにかを願う一年など、誰もくれなかった。
「申しわけないと思うなら、これを食べて、早く元気になるといい」
元気に。
——そうだ。ここに置かれている私の意味を考えたら。
きっと私は、五条様のお相手をしなければならない。
そのためには、このまま病に伏した身体では——。
そう考えた途端、胃の奥が冷える。
早く使える身体になって、それが終わったら、私は一人で生きていく。
恐れ多いなど考えている場合ではないのかもしれない。
「……ごめんなさい」
口からこぼれた謝罪に、五条様の表情が、いつも少しだけ困ったように、寂しそうな顔をされる。
私が何かを酷く間違えている——そんな気がする。
何かを酷く間違えているような気がするけれど、その間違いが何なのか、私にはそれすらもわからない、察することができない。
これ以上、誰かの気を煩わ狭いと、ずっと顔を伏せ、眼を合わせないように生きてきたから、顔を上げることができない。
顔を上げられないまま、指だけが、お重の縁をぎゅっと掴む。
「気にするな。用事も済んだし、一度本宅に戻る」
そう言って、お重をテーブルに置くと、五条様はまた厚手のコートを羽織った。
その背中は温かそうで、けれど、遠い。
扉が閉まり、部屋に静けさが戻る。
暖炉の火のはぜる音だけが、やけに大きく聞こえた。
そっと、お重の縁に手を掛ける。
指先が躊躇いながら、お重の蓋を開けてみる。
ふわりと甘く、醤油のような、出汁のような。
鼻の奥をくすぐる、複雑で温かな匂いが立ちのぼった。
蓋を開けた瞬間、つややかな朱と飴色と金色が、ぎゅっと詰まって目に飛び込んできた。
真ん中には大きな海老がどん、と横たわり、殻は深い赤で濡れたように光っている。
周りには渦巻きのかまぼこや、琥珀色に煮詰められた小さな魚、黒豆の艶。
煮物もぎっしり詰められて、花に切られた人参や蓮根、ころんとした芋にまで、濃い煮汁がしっとり染みているのが見て取れた。
さらに奥からは甘い香りが立ちのぼり、栗の混ざった芋の黄金色と、厚い卵焼きのやわらかな黄が重なる。
——名前はよく分からないのに、どれも『高い匂い』だけははっきりしていて、思わず息をのんだ。
どの段も、隙間という隙間まで色とりどりの料理で埋め尽くされていて、小さな宝箱を三つ重ねたみたい。
あまりの豪華さに、手を伸ばすのが怖くなる。
私が口にしていいものではないような気がして——
しばらくお節を前に固まりながら、匂いと色だけを目に焼き付けると、音を立てないように、蓋を閉じた。
ブックマーク、★★★★★、リアクション
よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




