第七話 大晦日の夜と新年の朝②
新年の宮中は、白と金で塗りつぶされたようだった。
磨き込まれた黒檀の床に雪明かりが反射し、淡く、荘厳に揺れる。
高い天井には松竹梅の意匠。
柱の間には、まだ寒気を残す庭から運び込まれた見事な生け花が据えられ、凛とした香りが広間の空気を引き締めていた。
広間を埋め尽くすのは、『華族』、軍人、政府高官たち。
肩書きと家格に応じて立ち位置が細かく決められた空間で、誰もが型通りの言葉を繰り返す。
祝いの席のはずなのに、どこか乾いた、空虚な響きがする。
——五条家嫡男、五条暁臣殿下。
呼び上げられた名に、静かに一歩進み出す。
『五条家』の華紋を金糸で織り込んだ礼装の裾が、わずかに揺れる。
胸もとには皇族の証である小さな章。
周囲の視線が、重力を伴って一斉に収束するのを、もう何度も受け止めてきた。
所作は、ほとんど身体が勝手にこなす。
深く頭を垂れ、決められた祝詞を淀みなく述べ、下がる。
背筋の角度、足運び、呼吸の間。完璧であるほど、心は遠くなる。
——儀礼は、いつもと同じだ。
だが胸の内に引っかかる、熱を持つものだけが、去年と決定的に違っていた。
……すみれは。
熱はぶり返してなどいないだろうか。
咳は。息は。夜、うなされてはいないか。
ふと、昨夜、枕もとで見下ろした安らかな寝顔が脳裏をかすめる。
雪の夜に抱き上げたときは骨ばかりだった手足も、ここ数日で、わずかに血の通った柔らかな色を取り戻しつつある。
あの薄い肩に、少しでも温もりが宿るたび、胸の奥の固いものがほどけていくのが、自分でもわかった。
——すみれ。
蔵の冷気に晒され続けてきたとは思えぬ、柔らかな頬。
そして、虹彩色を帯びた紫陽花のような瞳。
あれが『無華』の印だというのなら、この国は、なぜそれを忌む。
あの瞳を恐れる者たちは、きっと本当には見たことがないのだ。
ただ『華』を持たないだけの、同じ人間であるのに。
列が動き、賀詞交換の場へ移った。
杯が回り、定型句のような『本年もよろしく』が飛び交う。
握手の手が差し出され、それを受け、流し、また受ける。
笑みは作れる。言葉も返せる。
けれど意識の底はずっと、暖かな部屋の、あの小さな寝息の方へ引かれていた。
そのとき、側近の榊原がわずかに身を寄せ、耳もとで囁いた。
「殿下、朝霞伯爵がご拝顔を賜りたき由」
聞き慣れた家名に、視線だけをわずかに動かす。
……朝霞。
喉の奥が冷える。
あの屋敷の空気。雪の中で震えていた身体。蔵の扉の軋み。
思い出すだけで、胸の奥に黒い棘が立つ。
「通せ」
短く、低く告げると、榊原が一歩退いた。
しばらくして、榊原に伴われ、一人の男が慎重に歩み寄る。
「五条殿下におかれましては、新年早々のご尊顔、恐悦至極に存じます」
床に額が付きそうなほど、卑屈なほど深く頭を下げる。
あくまで礼儀正しく、しかし必要以上に柔らかくもない声音で返した。
「顔をお上げください、朝霞伯爵。今年も変わらぬご健勝、何よりです」
「ははっ、身に余るお言葉……ありがとうございます」
持ち上げられた顔には脂汗が浮かんでいた。
緊張か、あるいは——己の家の期待か。
伯爵は一瞬、周囲を警戒するように見回すと、声の調子をわずかに落とした。
「恐れながら……先日お目通りいたしました拙家の娘のことで」
娘。
その単語に、指先がわずかに動いた。
娘とは、『赤薔薇』の『華』を持つ娘のことか。
それとも——蔵に押し込められていた娘のことか。
「……聞きましょう」
促すと、伯爵は安堵とも興奮ともつかない熱っぽい息を一つ吐き、続けた。
「はっ。実は、百合のことでございます。
『黒薔薇』の殿下の御側にあれば、いよいよその『赤薔薇』の真価を発揮するのではないかと、両親として期待しておりまして——」
その瞬間、周囲の空気がわずかにざわめいた。
『華族』たちの耳が、さりげなくこちらに傾くのがわかる。
『赤薔薇』は『宮家』の中では珍しくはない。だが『華族』の中では十分に格の高い『華』。
『黒薔薇』の妃候補という言葉の匂いだけで、群れは敏感に反応する。
赤と黒。
薔薇と薔薇。
『華』の相性と、家の格を盾にした——先日の会食からの本格的な縁談の打診。
伯爵は今、この公の場で『五条家との繋がり』を確立しようと必死なのだろう。
新年の宮中という舞台を使い、噂を意図的に広げる。
一度、既定路線の空気ができれば、周囲は勝手にそれを補強してくれるからだ。
「ご息女のことを、深くお考えなのですね」
「なにぶん、微力ではございますが……。
拙家もこの『乱世』において、いささかは皇族方のお役に立てればと、衷心より存じまして」
乱世。
言葉だけは大仰だが、実際には家計という名の戦場で溺れかけているのだろう。
娘の『華』を、沈みゆく家を救う最後の切り札のように掲げる姿が、ありありと想像できて、胸の内で小さく息を吐いた。
『赤薔薇』、発火の『異能』——。
なるほど、紙の上だけ見れば確かに扱いやすい『華』に見える。
従順に燃え、従順に灯る火。
『黒薔薇』の暴走を抑える役としては、理屈の上では悪くない。
……だが。
降りしきる雪の中、井戸の傍で震えていたすみれを思い出すと、どうしても同じ天秤に載せる気にはなれない。
すみれの周囲だけ、喧しいほど満ちた薔薇の気配が、すとんと落ちた。
『華』の強弱ではなく、在り方そのものが違う。
胸の奥の棘を、言葉一つで静かに沈めた、あの心地よい空白。
『赤薔薇』ごときが、俺の心のざわめきを鎮められるのか?
『黒薔薇』は、あまりにも強大すぎる。
必要なのは、燃え盛る炎ではない。
その炎を相殺する別の炎でもない。
——受け止めるものだ。
痛みを、恐れを、孤独を、なおそこにあるものとして受け止め、静かに保つもの。
「『華』の相性は、確かに重要です」
ゆっくりと言葉を選び、わざと間を置いた。
その沈黙を『肯定の前触れ』と勘違いしたのだろう、伯爵の目が期待に濡れて見開かれる。
「ですが、それ以上に——人となりを慎重に見極めねばなりません。
『華』は、その者の内側……魂を映す鏡だと、私は考えておりますので」
「も、もちろんでございますとも!
百合は素直で、健やかで、殿下の御心に叶う娘だと自負しております……!」
伯爵は食い下がるように言葉を重ねる。
自慢の娘。
同時に、自分の家の未来を賭けた唯一の札でもあるのだろう。
その必死さが、かえって浅ましく映る。
「春先に開かれる園遊会。その折に、再度ぜひお目にかかれればと存じます。
それから先のことは——その時の様子を見てから、ゆっくり考えましょう」
園遊会。
公的な場で娘を披露する機会を与えられたと受け取るには十分すぎる言葉だ。
案の定、伯爵の顔がぱっと明るくなった。
「はっ……!それは、まことに光栄の至りでございます……。
必ずや、殿下に恥じぬよう仕度を整えさせますゆえ……!必ずや!」
「楽しみにしております」
その一連のやり取りを、周囲の『華族』たちが密かに、しかし熱心に横目で伺っているのがわかる。
口もとを扇で隠し、視線だけで囁き合う気配。
『黒薔薇』の妃候補という言葉は、どんな献上品より甘い餌になる。
朝霞伯爵は深々と頭を下げると、勝利を確信したような表情を浮かべ、人波に紛れるように下がっていった。
その背を見送りながら、無関心を装って小さく息を吐く。
案の定、すみれの名は一度も出なかった。
長女が五条家で重病の養生をしていることを知っているだろうに。
当初はしつこく「家に戻せ」と言ってきたが、高額な治療費と、それを朝霞家が負担する可能性をちらつかせた途端、ぴたりと大人しくなった。
この男の関心は、次女と、五条家という地位だけだ。
……春までには、すみれの体力ももう少し戻るだろう。
伯爵の前に立つ伯爵家の令嬢と、俺の横に立つすみれ。
二人の姿が頭の中で並び、まだ見ぬ光景であるにもかかわらず、違いだけが痛いほど鮮明に想像できる。
飾り立てた赤と、慎ましく咲く紫。
声の大きさではなく、沈黙の重さで人を動かす目。
娘を売り込む父親と——父親に捨てられた娘、か。
『黒薔薇』の棘は相変わらず胸の奥でざわめいている。
けれど、その棘が暴れだそうとするたび、あの不思議な紫色の瞳が、無限の空白のように、その先を静かに絡め取ってしまうのだ。
脳裏に残るのは、湯冷ましを飲む際に『ごめんなさい』と呟きながら、必死に指を絡めてきた、小さな手の感触。
掴むというより、縋るように。
俺に必要なのは、燃え盛る炎ではない。
——あの、静かな空白だ。
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