第一話 一番古い記憶②
「これ、洗いなさいよ!お湯なんて使ったら許しませんからね!」
継母の鋭い声で、現実に引き戻される。
畳の上へ投げつけられたのは、妹——百合の華やかな暮らしを象徴する、色とりどりの高価な着物。
絹の艶が、私の指先には眩しすぎた。
「ぷっ。『無華』のあんたには、その見窄らしい継ぎだらけの着物がお似合いよ」
笑い声が、耳の奥に刺さる。
『無華』
この国で、加護を持たない者につけられる烙印。
この国では、誰もが持って生まれるはずの『華の加護』——その『華』が呼び出す『異能』。
私は、それを持つことが叶わなかった。
『華の加護』を持たないのに、よりによって花の名——
『すみれ』と名付けられるなんて、なんと滑稽な皮肉だろう。
誰も私の名を呼ばないのだから、今さらどうでもいいのかもしれない。
この国では、人は皆、生まれたときに一度だけ——『華見』と呼ばれる厳かな儀式を受ける。
額に清らかな清水を垂らし、手の平に一輪の花を結ばせる。
その花の『形』が、その人に宿る『華』の性質を。
花弁の『色』が、その力の強さや属性、そして格式を、示しているのだという。
儀式の日、家々は香を焚き、祝いの声で満ちるらしい。私には、遠い話だ。
牡丹や菊は武家に多く、桜や藤は芸や学に秀でた者に好んで現れる。
薔薇は希少で、その中でも黒を帯びた薔薇は皇族にしか現れない——
そんな噂を、私は隅で聞いたことがある。
そして私は、その『華見』の儀式すら受ける資格がない。
『無華』の証である、左右で色が違うこげ茶と紫の瞳。
この忌まわしい瞳を持った赤子の私を、初めて抱いた母がどんな顔をしていたのか。
今でも、怖くて想像することができない。
『無華』には、家を継ぐ資格も、華やかな縁談の席も、回ってくることはない。
ただ口減らしのための厄介者として家の隅に追いやられ、息を潜めて生きるのが常だ——
と、陰で使用人たちがひそひそと囁くのを、私は何度も聞いた。
聞こえないふりを覚えるのも、上手くなった。
実の母は、武家に多い牡丹の『華』を持っていたらしい。
継母と妹の百合は、同じ『赤薔薇』の『華』だと、父は誰に対しても誇らしげに話していた。
その誇らしさの中に、私の居場所は最初からなかった。
生まれたときから、何一つ咲かすことができない。
手の平にも、胸の内にも——希望という名の花を。
それでも生きている限り、枯れないふりだけは、してしまうのだ。
咲けない花でも、踏まれながら息をする。
井戸から汲み上げる水は、身を切り裂くほど冷たい。
桶に触れた瞬間、指が『痛い』と悲鳴をあげる。
冷たさは水ではなく刃物みたいに皮膚を割り、骨へ染み込んでくる。
たった二枚の着物を洗っただけで、手はたちまち真っ赤に腫れ上がり、指先の感覚はとうのとうに消えていた。
石鹸の泡も、絹の滑らかさも、もうわからない。
ただ布を握り、叩き、絞る——その動作だけが残る。
時折、かじかむ手に「はあ、はあ」と熱い息を吹きかけ暖を取るけれど、その温もりは数秒と持たず、すぐに手がガタガタと制御できずに震えだす。
震えが肩まで伝わり、歯の根がかちかちと鳴った。
ふと、どんよりとした鉛色の空を見上げる。
粉雪のような細かな雪が、ぱらぱらと音もなく降り始めてきた。
まつ毛の先に一つ、ふわりと乗って、すぐに溶ける。
洗っている着物は上等な絹だ。袖を撫でれば、つるりと指が滑っていくはずの肌触り。
けれど私が身に纏う着物は、何度も何度も洗い晒され、ほつれを直し、無理に裄丈を伸ばした結果、せいぜい肌襦袢より幾分かましだろうという程度の薄い布切れ。
継ぎ当ての縫い目は硬く、冷えた糸が肌に刺さる。
指だけでなく、腕も足も、そして歯までが、カチカチと音を立てて冷たさを訴える。
寒さは『寒い』という感覚を越えて、体の内側から、静かに削ってくる。
すぐ隣の母屋から、暖かそうな一家の賑やかな笑い声が響いてくる。
湯気の立つ茶碗、炭火、甘い菓子の匂い——見たこともないのに、想像だけで胸がきゅっと縮んだ。
胸の奥から何かが込み上げてくる。悲痛のような、悔しさのような、羨ましさのような。
けれど私は、その感情に慣れきってしまった蓋を、静かに心に閉じた。
開けたら、もうもとには戻れない気がしたから。
思えば、あの日もこんなふうに、雪がしんしんと静かに降っていた。
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