第七話 大晦日の夜と新年の朝①
何日寝込んでいたのか、結局わからないまま。
正確な日付も掴めず、ただ、朝と夜の境目さえ曖昧な時間を、この部屋で過ごしていた。
一人で食事が摂れるようになってからも、五条様は一日と欠かさず、私が目を覚ますたびに部屋を訪れた。
扉の開く気配、足音、落ち着いた声。
それだけで身体がこわばりかけるのに——
次の瞬間には、胸の奥のどこかが、ほっと緩んでしまう。
そんな自分が怖い。
「蕎麦は胃に負担がかかるから、すみれ用にうどんを煮てもらった」
「……そば?」
「年越し蕎麦だ」
年越し——。
そう言われて初めて、遠くから除夜の鐘の音が聞こえていることに気づいた。
静かに、厳かに、一つ、また一つ。
年越し蕎麦ということは、今日は大晦日。
まさか。
一ヶ月近くもここにお世話になっていたなんて——。
朝霞家ではどうだっただろう。
大晦日の数日前から大掃除が始まり、当日は休む間もなく、宴会で使われた『器』を延々と洗い続ける。
日が変わる頃になってやっと蔵に戻り、凍えるような寒さの中で、一人年を越していた。
祝うどころか、『早く終わってしまえ』と祈る日だった。
それが今はどうだろう。
春のように暖かいこの部屋で、私のために用意された温かな食事が、両手の中にある。
湯気が立つだけで、胸がいっぱいになるなんて、不思議で仕方ならない。
「柔らかくしてもらったから、食べられるといいんだが」
どうしよう……。
そう遠くないうちに、私はきっと、ぞんざいに捨てられる。
そう思っているのに、こんなふうに、当たり前みたいに気遣われると——
心が、勝手に揺れてしまう。
この方が何を考えているのか。
もう私には、わからなかった。
ぞんざいに扱われるなら、それで構わないはずなのに。
この絶え間ない、甘すぎるほどの優しさに慣れてしまいそうになるのが、何より怖い。
一度覚えた温かさは、奪われたとき、きっと痛い。
それを知ってしまいそうで、怖い。
「せっかくだ。一緒に年を越そう」
差し出された箸を、震える指で受け取る。
優しいお出汁の香り。温かい『器』の感触。
うどんの中には色々な具材が浮かび、私が好きだと言った赤い梅干しまで、ちょこんと乗っている。
そのすべてが、私に向けられた特別みたいで、勘違いしそうになる。
「明日からの三が日、祝賀や謁見が立て続けにあって、ここに来られないかもしれない」
三が日。謁見。
そういえば、父と継母も元旦は皇族の方々に謁見に行っていたはずだ。
その場と、ここはどれくらい離れているのだろう。
父と継母が近くに来るかもしれない——そう思っただけで、胸がひりつく。
痛いわけじゃないのに、息が少し浅くなる。
家にいたときは、慣れすぎて、こんな不安定な感覚にはならなかった。
少なくとも蔵の中にいる限り、誰とも会わないで済んだから。
孤独は寒いけれど、安心でもあった……
「……何か心配事か?」
「え……?」
「それとも、口に合わなかったか?」
「ごめんなさいっ。とても、美味しいです」
いけない。
お世話になっているだけでも感謝しなければならないのに、心配をかけてしまうなんて。
「なにかあれば女中に遠慮なく言えばいい」
「そんな……」
言いかけたところで、五条様が腕時計に目を向けた。
ほんの少しだけ、針が進むのを確かめるように。
そして、穏やかに言った。
「あけましておめでとう」
一瞬、なんのことかわからなかった。
誰かと年を越したことも。
こんな温かい言葉をかけられたことも、生まれて初めてだったから。
慈愛に満ちた柔らかな微笑みを向けられているのに、何と返せばいいのかわからない。
胸の奥が、熱く、痛く、ぐしゃぐしゃになっていく。
「あ、あの……」
何か言わなければいけないのに、喉の奥に何かが込み上げて、言葉が出てこない。
こんなとき、どうしたらいいんだろう。
誰からも——教えてもらったことがないから。
私は結局、俯くことしかできなかった。
箸を握った指先だけが、震えていた。
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