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無華の花嫁  作者: 木風
第二章:寒椿

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第六話 五条家での療養生活②

自分の名前が、誰かの口から、普通に——しかも肯定とともに呼ばれる。

それだけのことなのに、胸の奥が熱くなる。

痛いのではない。温かい。

知らなかった種類の熱に思えた。


「俺の名は暁臣(あきおみ)。五条暁臣だ」

「……五条様……」

「……まあ、今はそれでいい」


柔らかな声とともに、布団を丁寧に掛け直される。

その仕草が、当たり前のように優しくて、胸がまた勝手にきゅっとなる。


撫でられる髪の感触に、まぶたが重くなる。

怖いのに、守られているようで、安心してしまう、不思議な感覚。

けれど、抗う力はもう残っていなかった。


そうして私はまた、生まれて初めて感じるような、深く柔らかな眠りへ沈んでいった。




次に気がつくと、窓の外はすっかり夕暮れの色に染まっていた。

薄紫に滲む空の端が、雪雲の下でゆっくりと群青へ沈んでいく。


どれだけ眠っていたのだろう。

恐れることなく眠った、という事実がまず信じられなくて、胸の奥がそわりと落ち着かない。


「顔色も良さそうだな。大丈夫なら湯に入るといい」


静かな声が、あまりに近いところから降ってきた。


「寝込んでいる間は、身体を拭いてやることしかできなかったからな」


ベッドの横に座っていた五条様が、本を閉じる。

ページを撫でる指の所作まで、無駄がなくて綺麗だった。


——湯……?


私なんかが、湯に……?

蔵にはもちろん、そんな贅沢はない。

湯を沸かすことはあっても、それは継母と百合のため。

朝霞の家の湯殿に、私が足を踏み入れたことなど、物心がついてから一度もない。


それに、湯に入るということは——


「あの……そんな……恐れ多いです」

「女中を呼ぼう」


やっと絞り出した声は、自分でも情けないほど細い。

私が言い足す間もなく、五条様は立ち上がり、扉の外へ出てしまった。

どうしよう。

誰かの手を煩わせるなんて……それだけで、怒号が飛んでくる気がして、肩がすくむ。


「……私、一人で……」

「まだ本調子ではございません。ご無理はいけません、すみれ様」


現れた女中さんは、驚くほど柔らかな声でそう言った。

すみれ様——呼ばれるたびに、胸の奥がむず痒くなる。

うなずくしかできず、そのまま隣の浴室へ案内された。


扉が開いた瞬間、檜の匂いがふわりと鼻をくすぐる。

湯船は、朝霞の屋敷のそれの倍以上はあるだろうという広さで、湯が絶え間なく流れ、湯気が白く揺れていた。


大きな窓の向こうには、灯りに淡く縁取られた夜の庭園。

闇に溶けてほとんど見えないのに、広さだけははっきり伝わる。

——ここは、私の知っている世界ではない。


「……なんというところに、来てしまったんだろう」


畏怖で、背中がひやりと粟立つ。

湯に浸かりながら、思い切って問いかけた。


「あの……五条様が、私の看病を……?」

「はい。殿下が率先されて……それはもう甲斐甲斐しく、お世話なさっておられましたよ」


女中さんがさらりという、その一言で、頭の中が真っ白になった。


……やはり。

裸を、五条様に見られてしまったかもしれない。


仮にも伯爵家の人間が、皇族の血を引く殿方に裸を見られるなんて。

許されない粗相——そう教えられてきた。

なのに、私には叱る者も、守る者もいない。


だったら、この優しさの理由は一つしかない。


私はきっと、五条様が百合となのか、他の誰かとなのか。

その方と正式に婚約されるまでの、ほんの一時の慰み者として、ここに置かれたのだ。

『無華』の女など、ぞんざいに扱うのに、これほど都合のいい存在もない。


そう考えた途端、父と継母が私の滞在をあっさり許したことも腑に落ちる。

朝霞の家にとって私は、厄介で迷惑な荷物。

面倒な手続きなく消えるなら——むしろ好都合だと思われたに違いない。


婚約が整った後は、どうなるのだろう。

遊郭に売られる?

それとも、もっと酷い場所……。

価値のない私でも、物珍しがる人間がいるのかもしれない。


『無華』として生まれた人生なんて、きっと、こんなものだ。


湯から上がると、肌触りのよい新しい寝巻きが用意されていた。

女中さんが着せようとするのを必死で断って自分で袖を通すと、今度は髪の水気を丁寧に拭き取ってくれる。

暖炉の前で櫛を入れられ、乾くのを待つ間、ふわり、と出汁の優しい香りが漂った。


テーブルの上のお盆。

湯気の立つ白いお粥と、ほんの少しの赤い梅肉。

匂いだけで、飢えていた腹が『きゅう』と情けなく鳴る。


——聞こえた、だろうか。

そう思った瞬間、合図のように扉がノックもなく開いた。


「さっきより、随分よさそうだな」

「……五条様」

「食べられそうか」


五条様は椅子を引き、あまりに自然に、当たり前のように私の隣へ腰を下ろした。

そして匙ですくったお粥を、唇の前へ差し出される。


「……っ」

「遠慮は要らない。医者にも言われている。少しずつでいい、口に入れろ」

「……あの、私、自分で……できますから……」

「気にするな」


気にするな、だなんて。

そんなふうに言われて、気にしないでいられるわけがない。

高貴で、恐ろしいほど遠い方に、食事まで世話をさせている——

それだけで、罪悪感が喉を締める。


「早く。腕が疲れてくる」


叱責ではなく、困らせるような声音で言われると、反射的に口が開いてしまった。

舌の上に乗るのは、やわらかな温かさ。

米の甘みと、出汁の旨みが、じんわりと身体の奥へ沁み込む。


「……美味しい……」

「そうか。なら、もう一口だ」


意識せずこぼれた本音に、五条様の目尻が、ほんの少しだけ緩む。

せかされることはない。

私がゆっくり飲み込むのを待って、匙がまた、優しく唇に触れる。


——誰かに世話を焼かれるなんて、いったいいつ以来だろう。

痛くも怖くもない触れられ方があるなんて、知らなかった。


十口ほど飲み込んだ頃には、まぶたがまた重くなる。

身体が、ようやく許してもいい、と言っている気がした。


「……梅干しが好きなのか?」

「……え……あっ……」


恥ずかしい。

初めて食べた、ほんのり甘い梅があまりに美味しくて……。

匙に添えられた梅肉だけを、無意識に先に舐め取ってしまっていたのだろう。

まさか、そんな卑しい所作まで見られているなんて。


「……ごめんなさい」

「謝ることではない。献上品でたくさんある。次はもっと持ってこよう」


次。

その言葉が、胸の奥で小さく跳ねた。

明日も、ここにいていいのだろうか。

問いを飲み込み、喉の奥にひっそりと残る怯えを、湯気ごと胸の奥へ押し込める。

それでも——この温かさだけは、どうか嘘ではありませんように。

私はただ、匙を持つこの方を、もう一度見つめた。

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よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ

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