第四話 救いの代償①
「ごほっ、ごほっ」
冷たい水を浴びせられたまま、どうにか蔵へ戻ってきたものの、濡れた髪を拭う余裕すらなかった。
指先はかじかみ、思うように動かない。
帯を解くのにも時間がかかり、ようやくぐしょ濡れの着物を脱ぎ捨てて、薄い寝間着に着替える。
けれど、そんなもので寒さが和らぐはずもなかった。
少しでも体温を逃がすまいと、急いで布団へ潜り込む。
布団は冷え切っていて、身体を包むというより、冷たさを押しつけてくるだけだった。
暖房など何もない蔵の中では、震えは止まらない。
むしろ、布団に入ったことで寒さがよりはっきりと意識され、骨の奥から、がたがたと揺すられるような悪寒が押し寄せてきた。
歯の根が合わず、かちかちと小さく鳴る。
肩が震え、その震えが胸へ、背へ、腹へと伝わっていく。
やがて、震えに追い立てられるように咳が出始めた。
「ごほっ……ごほ、ごほっ」
息を吸うたび、喉がひりつく。肺の奥が焼けるように痛い。
咳を堪えようとすればするほど、体の奥から無理やり突き上げられてきて、細い身体を激しく揺らした。
胸を押さえても意味はなく、喉の奥は乾ききって、掠れた呼吸音だけが耳のそばで響く。
もし、この状況で風邪などひいたら——
継母から、どんな罵倒と懲罰が待っているか。
それを思うだけで身が竦み、寒さとは別の震えが背筋を這い上がった。
『怠け者』『穢れ』『役立たず』——
言葉だけで済むはずがない。
寝込んだことを責められ、迷惑をかけたと殴られ、使えないなら食事は不要だと言われるかもしれない。
ただでさえ厄介者なのに、病など得たら、今度こそ本当に見捨てられる。
朦朧とする頭を抱えながら、せめて喉の掠れと渇きだけでも癒したくて、私はふらつきながら井戸へ向かった。
蔵の扉を開けた瞬間、外気が刃のように頬を切る。
頭に、肩に、そして素足に落ちる雪が、容赦なく体温を奪っていった。
夜の気配を含んだ空は鈍い灰色で、しんしんと降る雪だけが、静かに世界を埋めている。
こんなに静かなのに、寒さだけが異様に鋭かった。
井戸へ辿り着くまでの数歩さえ、ひどく遠い。
足裏の感覚はもう曖昧で、地面を踏んでいるのか、浮いているのかもわからない。
それでも、やっとの思いで桶を引き上げ、氷のように冷たい水を柄杓ですくって喉を潤した。
冷たすぎる水が、焼けた喉を通って落ちていく。
痛いのに、少しだけ楽になる。
——その次の瞬間だった。
糸が切れたように、私はその場に崩れ落ち、冷たい雪の上へ座り込んでしまった。
全身に力が入らない。
膝も、指先も、まるで自分のものではないみたいに感覚が遠い。
手をつこうとしても腕に力が入らず、身体を支えることさえできなかった。
息を吐けば白く霞むのに、胸の内はどこまでも黒く沈んでいく。
いけない。
こんなところを継母や百合に見つかったら、今度こそただでは済まないだろう。
井戸の前で座り込んでいるだけでも、きっと叱責される。
みっともない、穢らわしい、客のいる日に何をしているのだと、どれほど責められるかわからない。
早く逃げなければ。
立ち上がらなければ。
そう思うのに、熱のせいか、凍える寒さのせいか、身体はもう私の言うことを聞いてくれない。
足先に力を入れようとしても、何も返ってこない。
ただ雪の冷たさだけが、じわじわと寝間着を通して染み込んでくる。
——でも。
……もう、疲れた。
ただひたすらに、人目を避けるように息を潜めて、怯えながら続けるこの生活に。
息をするだけで叱られ、目を上げるだけで殴られ、存在するだけで罪になる日々に。
朝が来るたびに、今日も怒鳴られずに済むだろうかと怯える。
夜になれば、明日もまた同じ一日が始まるのだと知っている。
何一つ良くならないまま、ただ苦しさだけが積み重なっていく。
この先の人生の辛さを思うくらいなら、いっそこのまま雪の中で凍えてしまった方が、どれほど楽か。
そんな弱い考えが、ふと、頭をよぎった。
——眠ってしまえば、もう何も感じなくていい。
寒さも、痛みも、恐ろしい声も。
明日を怖がる必要もなくなる。
けれど、そのたびに、姉のように慕ったあの使用人の最後の言葉が、鋭い棘のように胸へ刺さる。
『いつか……お嬢様を大切にしてくれる方が、きっと現れますから……!』
それは心臓の奥に深く刺さったまま抜けない棘。
あるいは、この惨めな生を無理やり繋ぎ止める呪い。
痛いのに、捨てられない。
捨てた瞬間に、私が本当に終わってしまいそうで。
あの人の優しさまで裏切ってしまうようで、どうしても手放せなかった。
「……そんな人、いるはず……ないのに」
か細い声が、白い息となって空に滲み、そのまま夜の冷気に溶けて消えていく。
その刹那——
「大丈夫か?」
耳慣れない、深く落ち着いた若い男性の声。
私は反射的に顔を上げてしまった。
目の前には、見たこともないほど豪奢で洗練された洋装の制服をまとった、背の高い男性がいた。
冷たい雪の上に躊躇なく膝を折り、目線を合わせるようにしゃがんでいる。
流れるような漆黒の髪。
黒曜石のように深く、すべてを見透かすような瞳が、まっすぐこちらを見つめていた。
……私を、見つめて——くる?
いけない。
この瞳を、見られてしまった——!
胸が大きく跳ね、視界がぐらりと揺れる。
頭の中が真っ白になり、私はパニックのまま、慌てて袖で顔を覆い隠した。
『無華』の印である、左右の色の違う忌まわしい瞳を知られたら。
この朝霞家に『無華』の娘がいると、今日の大事な客人にばれてしまったら。
それを父と継母が知ったら——
今度こそ、私は殺されるかもしれない。
「ごめんなさい……大丈夫です……!何もありませんから……」
必死に、掠れた声でそう告げる。
喉は痛み、声は震え、少しも大丈夫ではないことくらい、自分でもわかっていた。
けれど、それでもそう言うしかなかった。
男性は一瞬、息を飲んだようだった。
「大丈夫には、とても見えないが」
低い声が、静かに、けれどはっきりと言い切る。
その響きに責める色はないのに、私は余計に怖くなった。
そして——私の濡れた肩へ、手が伸びてくる気配。
その瞬間、私は反射的に身をすくませた。
人に触れられるのが、酷く怖い。
叩かれる、掴まれる、引きずられる。
身体が勝手にそう思ってしまう。
怖くて、怖くて、息が詰まる。
なけなしの気力を振り絞り、よろめきながら立ち上がる。
足もとはおぼつかず、今にも転びそうになる。
それでも、ここにいてはいけないという思いだけで、どうにか身体を動かした。
顔を上げないまま彼に背を向け、雪を蹴って駆け出した。
この人が、今日、家に来ている大切なお客様ではありませんように。
そして私を見たことを、誰にも、絶対に話しませんように。
それだけを祈りながら、雪の中を、自分の居場所である蔵へ逃げ戻る。
中へ入るなり扉の鍵を閉め、誰にも聞こえぬよう気配を殺して布団へ潜り込んだ。
息を潜め、震える手を強く握りしめる。
心臓の音が、耳の裏側でどくどくと鳴っていた。
なんてことだろう。
今日が百合の『人生を決める大事な日』だと知っていたのに。
私は、一番見つかってはいけない相手に見つかったかもしれない。
どうか、気付かれないで。
どうか、この家の人間にも知られないで。
そう何度も胸の中で繰り返す。
膝も、指先も、自分のものではないみたいに感覚が遠い。
熱に浮かされた頭は重く、咳を押し殺すたび胸が痛んだ。
それでも私は、布団の中で小さく身を縮め、この嵐みたいな時間が過ぎ去るのを、暗闇の中でただ待った。
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