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そして次に向かったのがあのネヴェリである。
「……やだなー」
さすがに嫌だ。もう奴らの顔も見たくない。が、仕事がある。
「おもしろいことがあるかもしれないよ」
ヴィンセントがニヤニヤと笑っている。なんでしょうね。
ネヴェリに入国したのは1年ちょっとぶりだ。国王に謁見があるという。
やだなー、やだなー。できればご遠慮したいが。ナターリャの子ども生まれただろう。自慢されるんだろうな。
「立場はこっちが上なんだよ。堂々とふんぞり返っておいで」
ヴィンセントがそう言うものだから、カトリーヌはなるべくヴィンセントの陰に隠れるようにひっそりと立っていた。
国王も王妃も以前と変わりない。1年ぽっちで変わりようもないが。そしてその隣にはすっかりデブになったアーくん。赤ん坊を抱いている。へえ、自分で抱っこするんだ。姫抱っこはできなくても赤子はできるもんな。
この場にはナターリャしかいない。子を産んだことで、ほかの3人は排除されたんだろうか。その後ろにはキツネ目。そろいもそろった、この面々。
「カトリーヌ、見てくれ。ボクの子だ。かわいいだろう?」
喜色満面にアレクセイが見せつけてきた赤子。見たとたんカトリーヌは吹き出しそうになった。
こんなところで笑っちゃいけない。王女の装備を総動員してすんっとおすましする。
その赤子は見事なキツネ目だった。
いや、どうしよう。
あれ? アーくん気づいてないの? 国王陛下の仏頂面は相変わらずでなにを考えているのかわからない。が、王妃はあきらかに顔色が悪い。扇子を握りしめた手がプルプルと震えている。
あっ、折れる折れる。扇子がメリメリ言っている。
ああ、王妃は気づいているんだ。
そっか、そっか。あれだけ大々的に懐妊を発表したから、いまさら違ったとは言えないんだ。ましてやほかの男の子どもだなんて言ってしまったら、アーくん種無し説を認めるようなものだものね。
ぷっ。かわいそ。
っていうか、気づかずに喜んでいるアーくんがみじめ。
ナターリャは能面のようににこりともしない。どういう気持ちなんだろう。
「お世継ぎのお誕生、おめでとうございます。殿下にそっくりですわね。とくに目元が」
これくらい言ってもよかろう。へんっ。国王はいよいよ仏頂面になり、王妃の手元では、扇子がバキッといった。
ちらっとゼーリンを見たら、目が合った。そしたらあいつ、かすかに笑った。
どこからが作戦だったんだー? この2人の関係はなんでしょうね。いやいや、わたしには関係ない。隣を見上げたら、ヴィンセントがにやりと笑った。
こうやって、このキツネ目がこの国を牛耳っていくわけだ。影の国王だ。おそろしやおそろしや。
「な? おもしろかっただろう?」
御前を下がりながら、ヴィンセントがしてやったりな顔でカトリーヌに言った。
「知ってたんですか」
「はは。情報を集めるのも仕事だからね」
「ありがとうございます。溜飲が下がりました」
「よかった、よかった」
カトリーヌとヴィンセントが乗った巨大な客船は、大海原を進んでいく。見渡す限りの水平線。陸地がひとつも見えない。
デッキの手すりから下をのぞけば、紺碧の海。こんな美しい青を初めて見た。透明なのに底が見えない。怖い。足がすくむ。得体のしれない何かが湧いてきそう。クラーケンとか人魚とか。
底知れぬ恐怖とはこういうことを言うのだろうか。
そして夕暮れ時。カトリーヌとヴィンセントはデッキで潮風を受けていた。沈む太陽にあたり一帯が赤く染まる。カトリーヌの知っている夕焼けはこれほど赤くなかった。海は恐ろしいほど青く、夕焼けの空は恐ろしいほど赤かった。人知を超えた大自然にカトリーヌはおのれの小ささを思い知る。
「すごいなあ」
隣でヴィンセントがつぶやく。
「すごいですねぇ」
カトリーヌもつぶやく。
これから新大陸で一仕事すませたら、南の島でバカンスを過ごすのだ。
「自立の手段は見つかりそうかい?」
「いいえ」
そう言ったわりにカトリーヌの声はからっと明るい。
「まだまだです。今はただ大自然に驚いているだけなんですよ」
カトリーヌは屈託なく笑った。
「そうか。これからもっとたくさんの国に行くんだ。もっと驚くぞー」
「はい! わたしは何も知らないということが、よーくわかりました。つれてきてくれてありがとうございます」
「うん」
「楽しみです、新大陸も南の島も」
「そうだな」
「新発見だらけです」
「そうだな」
「世界は広い!」
旅は始まったばかりだ。
夕焼けの赤い空を背景に、2人のシルエットが浮かび上がった。
おしまい