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予告通り、日が暮れるころにヴィンセントはやって来た。まずはデイジーに
「急なことで悪かったね」と労い、それからカトリーヌをソファに座らせると自分も並んで腰を下ろすと、そっとカトリーヌの手を取った。
「ほんとうは、もっと時間をかけてきみを口説くつもりだったんだ」
ヴィンセントはソファの背に腕を回し、カトリーヌを囲いこんでじっとその瞳をのぞき込んだ。
ち、近い。
のけぞりそうになるカトリーヌをヴィンセントは逃がさない。
「でも緊急事態だ。きみをどこかへやるなんてわたしは耐えられない。ましてやあのエロじじいの魔窟など論外だ。せっかくネヴェリから戻ってきたのに、行ってしまっては元の木阿弥だよ。わたしは許さない」
ご存じなんですね、エロじじいを。ああ、やっぱり魔窟なんだ。あんなのはもう嫌だなぁ。ゆっくりのんびりなんてしているんじゃなかった。自立の準備をするべきだった。
後悔してももう遅い。
「きみは本意じゃないかもしれない。それでもわたしを受け入れてくれないか。それから2人で旅に出よう。きみが探している物を2人で見つけに行こう。順番は逆だが、そうしてほしい。きみが苦しむことも悲しむことも絶対にしない。辛い思いはさせないと誓うから。だからわたしを受け入れておくれ。お願いだよ」
泣き落としだな。そう思ったけれど、チョロいカトリーヌはとっくに陥落していたのだ。なにしろ理想の切れ長だったので。
「もう恋人は作らないと約束してくれますか」
「ああ、もちろん。この先愛するのはきみだけだと誓うよ」
「過去の恋人たちとも会わないと約束してくれますか」
「当然。二度と会わない」
「裏切られるのは、もう嫌なんです。あんな思いはもうしたくない」
「わたしはきみを裏切らない。きみだけを愛する」
「……ヴィンセント」
カトリーヌはヴィンセントに抱き着いた。ヴィンセントはしっかりとカトリーヌを抱きしめた。
「カトリーヌ」
ヴィンセントが呼ぶと「カトリーヌ」ということばに魔法がかかる。とろりと甘いハチミツのように纏わりつき、モルフォ蝶の鱗粉が舞うように煌めく。
自分の名前とは、こんなに美しいものだっただろうか。
その後は怒涛の展開だった。
カトリーヌは息も絶え絶え。知らない知らない、こんなの知らない。アーくん、こんなじゃなかったもの。
途中から記憶がない。気がついたら朝だった。朝というよりすでに昼近い。
「おはよう、わたしの愛しい姫」
誰ぇー? わたしのベッドに全裸のまぶしい男がいるんですけどぉ。
っていうか、わたしも裸ですぅ。
カトリーヌはあわててブランケットを頭まで引き上げた。くすくすとヴィンセントが笑っている。カトリーヌはそーっと目だけをのぞかせた。
「だいじょうぶかな? 手加減できなかった」
ええー? はずかしいですぅ。ヴィンセントが愛おし気にカトリーヌの頭を撫でた。
「きみは、わたしの妻になる。陛下に文句は言わせないよ。さて」
ヴィンセントはむくりと半身を起こした。
「大帝国と縁を結ぶ利を、頭の固い義父上にプレゼンしてこよう。きみはゆっくりお休み。夜にまた来るよ」
ヴィンセントはカトリーヌのおでこに「ちゅっ」と軽くキスをすると、手早く衣服を身に着けて出て行った。
その様子まで様になっている。
「……慣れている」
圧倒的な経験値の違いに、カトリーヌは呆然とした。ごめんなさい、アレクセイごときで男を知ったつもりになっていて。
と同時に今までこんなことをされた女性がどれだけいるのだろうと思うと、もやっとする。仕方がないことなのだが。
「レベルが全然違いますよ。アーくんが1ならアーデン公は99です。カンストです。アーくんの武器が木の棒ならアーデン公のは勇者の剣ですよ。比べちゃダメです」
まったくもって、そのとおりだ。カトリーヌはうなずくしかなかった。
ヴィンセントと国王の間でどのような話し合いがされたのか、カトリーヌが知ることはなかったが、どうやら丸く収まったらしい。そもそも従属国が大帝国に逆らうなどできなかったのだ。実際ヴィンセントは、大帝国の権力を盾に半ば脅してカトリーヌを得たのだった。
「おまえはなにも心配することはない。アーデン公に頼っていればいいんだよ」
兄がしたり顔でそう言った。そうですか。なにか、ものすごい激流に呑み込まれた気がしますが。
それからまもなく、ヴィンセントは嵐のごとくカトリーヌをリスタールから連れ去った。
特使、特使夫人としての仕事と、ハネムーンを兼ねての旅だ。もちろんデイジーもいっしょだ。最初の目的地はアイリス大帝国。皇帝陛下にお目通りして結婚のあいさつを申し上げる。
カトリーヌの緊張とは裏腹に、たいそう歓迎された。このちゃらんぽらんな根無し草を、よくぞ決意させてくれたと感謝されたくらいだった。