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「わたしのかわいいカトリーヌはなにを憂いているのかな」
ヴィンセントがするりと隣にすわった。
「あっ」
起きてもいない浮気のことを考えていたから、ちょっと後ろめたい。
「えーとね」
「うん、なんだい」
ヴィンセントはハチミツまみれのように甘い。
「自立できればいいなって思ったの」
ヴィンセントは目を見張った。
「自立? なぜ?」
この人は頭ごなしに否定しない。父ならば「バカを言うな」と一蹴したはずだ。
「ええとね、もし想定外の事態に陥った時にね、誰かの助けを借りなくても、自分で解決できるようになりたいの」
「ふーん」
ヴィンセントは首をかしげた。
「それは具体的にどういう事態?」
「え、えっと。いろいろ?」
ヴィンセントはくすくすと笑った。あ、あれ? なにかおかしかったかな。わたしは真剣なんだけれど。カトリーヌも首をかしげた。
「あなたがなにを考えているのかはなんとなく想像がつくけれど、でも女性が仕事を持つことには反対はしないよ。帝国でも増えつつあるしね」
「そうなの?」
カトリーヌはぴょんっと頭を上げた。やっぱり帝国は時代の最先端なのだ。女性の自立を理解しないリスタールはまだまだ田舎だ。
「それであなたはなにをしたいの?」
カトリーヌは「うっ」と言葉に詰まってしまった。カトリーヌには家庭教師くらいしか思いつかないのだ。
「それなら、わたしと一緒に旅をしてみないか」
ヴィンセントは意外な提案をしてきた。
「あなたの世界はせまい。城の中しか知らない。そうだろう?」
カトリーヌはこっくりとうなずいた。なんだかくやしいが。
「わたしと一緒にいろんな国を見て回ろう。世界には知らないことがたくさんある」
「ヴィンセントも知らないことがあるの?」
「うん、山ほどあるよ。南洋の国や植民地。砂漠の国や雪と氷に閉ざされた高山の国。見たことのない景色。聞いたことのない言葉。いろんなものをたくさん見たら、自分がなにをしたいのか、なにが必要なのか、わかってくるんじゃないかな。選択肢は多いほうがいい」
ヴィンセントがそう言ったときには、カトリーヌの心はすでに南の海に飛んでいた。
写真でしか見たことのない南の島。青い空、青い海、白い砂浜、ヤシの木、バナナの木、キウイパパイヤマンゴー。
「まあ」
うっとりするカトリーヌ。日に焼けないようにつば広の帽子がいるわね。
「大型客船に乗って大海へ出よう。大海原を渡って新大陸にも行ってみよう。いっしょに。ね?」
これはとんでもない誘惑だ。頭の隅っこによぎるが、それより早くカトリーヌは「はい」と返事をしてしまっていた。
「心配しなくても、あなたが自立しなくてはいけないような、想定外の事態は絶対に起きないけどね」
至近距離でにこっとされた。ずぎゅん。即死です。
その週のうちにカトリーヌは陥落していた。しかたがない。元々理想の切れ長だったんだもの。「ドンファン」は気にはなったけれど「そんなことは二度とない」と誓ってくれたし、カトリーヌはそれを信じるしかない。
2度も続けてないだろう。
デイジーも渋々ながら認めた。
その矢先のことだった。
父であるリスタール王から呼び出しが来た。
なんだろう? 帰国してから呼び出しなんか一回もなかったのに。
やだな。
向かったのは国王の執務室である。個人的な話じゃないってことだ。近づいていくと激しく言い争う声が聞こえた。父と兄だ。ますますいやだ。
「あんまりですよ、父上! カトリーヌはあの地獄からやっと帰って来て落ち着いたところなんです。もうやめてください! これ以上カトリーヌを傷つけないでください!」
ええー、まさか……。
カトリーヌが入っていくと、あいさつもすっ飛ばして父はカトリーヌに告げた。
「おまえの縁談が調った」
カトリーヌはその場に立ち尽くした。
「カトリーヌ! 聞かなくてもいい! 聞くんじゃない!」
兄が叫ぶ。
「だまりなさい」
父が冷酷に言った。
「隣国の国王の後宮に入れ。国境紛争の和解だ。異論は聞かん。わかったら下がれ」
下がれと言われて、素直に引き下がれるわけもない。
「おとうさま、わたしは……」
「聞かないぞ。帝国のスケコマシなんぞに騙されるな。いいように遊ばれて捨てられるのが関の山だ。今のうちにだまって出国しろ。出国は1週間後だ」
「おとうさま」
「下がれと言った」
兄は国王をねめつけると、震えるカトリーヌの肩を抱いてそのまま外へ出た。
「おまえをあんな所へは、絶対にやらない。少し待て。おれがなんとかするから」
なんの手立てもないカトリーヌは、やっぱり兄のいう通りにするしかなかった。情けない。悔しい。そして悲しい。
離宮へ戻り、涙を流してふさぎ込んでいたカトリーヌに1通の封筒が届いた。差出人はヴィンセント。
カトリーヌは開けることができなかった。どうしよう。もう会えないんだろうか。
「姫さま、開けますよ」
かわりにデイジーが開けて読んでくれた。
「話は聞いた。今夜行く」
めずらしく乱暴な、殴り書きのような筆跡だった。
「……今夜行くって?」
カトリーヌは濡れた頬のままデイジーに聞いた。
「い、いらっしゃるんでしょうね」
今夜って?
「たっ! たたたた!」
「た」がどうした。カトリーヌは首をひねり、デイジーは飛び上がった。
「たいへんっ! 姫さま、お支度を!」
「なんの?」
「夜這いですよ!」
「……よばい?」
しばらくぼうっとしていたカトリーヌは、ようやく理解すると飛び上がった。
「よばいって、あの夜這い?」
「もちろん! たいへんたいへん! 夕餉の支度は2人分。お酒もいるわね。それからおふろとマッサージ。オイルはローズのでいいかしら。それと寝巻。あっ、アーデン公の寝巻も用意しなくちゃ」
「どうして乗り気なの? あんなに反対していたのに」
「そりゃあエロじじいのハーレムより、誠実なドンファンの方がマシだからですよ」
誠実とドンファンが矛盾しているが。
「とにかく今の対抗手段はアーデン公なんですよ。おまかせしましょう」
そう言うと、デイジーは部屋を飛び出していった。
「なんで急に?」
残されたカトリーヌが、ひとりおろおろしていると、今度は兄からメッセージが来た。
「アーデン公のいう通りにしなさい」
……なんで。カトリーヌは呆然と立ち尽くしてしまった。