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なんてことを知ってか知らずか、ヴィンセントは夕刻にはまだ少し早い時間にやって来た。今度は淡いピンクでまとめられた小ぶりな花束を手にして。
「あなたに似合うと思って」
差し出された花束をカトリーヌは受け取った。うれしい。どうしよう。うれしくて舞い上がりたいのに、「世界各地の恋人」というワードが頭を押さえつける。
うう……、苦しい。
朝と違って、パリッとした真っ白なシャツを着たヴィンセントは、いっそう男っぷりが上がっている。髪もきっちりと整えてある。どういうわけか、あれだけ酒臭かったのに今はふんわりとウッディーでシトラスな香りがする。
こんな人ならば、たとえ一夜でも共にしたい、なんて女性もいるのかもしれない。そんなふうに考えて、カトリーヌはあわてて首を振った。いやいや、ダメダメ。長らく側妃愛妾たちに囲まれて、貞操観念がおかしくなっているのかもしれない。
「少しわたしの話を聞いてもらえるかな」
勧められるままソファにこしをおろすと、ヴィンセントはそう切り出した。思いつめたような表情である。カトリーヌが「はい」と返事をするとヴィンセントはひとつため息をついて話し始めた。
「いずれわたしの悪評は、あなたの耳に入ると思う。いや、もう入ったのかな。言い訳なんて見苦しいのはわかっているのだが、それでもあなたにはちゃんと話をしてわたしの気持ちを伝えたいと思ったんだ」
そう言うとヴィンセントは切なげにカトリーヌを見つめた。
「噂については本当のこともあるし、うそもある。半分以上はうそなんだがね。わたしは今まで割と自由に生きてきた。結婚もせず、恋人も何人もいた。もちろん仕事はちゃんとしているよ。これでも兄には重宝されているんだ。皇帝の弟というのは、なかなか便利な肩書でね。責任は兄に押し付けて、成果さえ上げれば大抵のことは大目に見てもらえる。それをいいことに好き勝手をしてきたんだ。
だからといって、決して不誠実なことはしていないよ。二股や三股なんてしていないし。期間はともあれ、恋人はいつも1人だった。過去の恋人たちもその辺は割り切っていてね、おたがいに都合が悪くなったり、真に愛する人ができたらすっぱりとさよならができるような人たちだったよ。さいわい、トラブルになったことはない」
そこまで言って、ヴィンセントは情けなく視線を落とした。
「軽蔑するかい?」
なんだか、叱られたレトリーバーのようだ。しな垂れたしっぽと耳が見える気がする。かわいい。ずいぶんと年上の、大きな男の人に対して失礼だろうか。
「いいえ。聞きますから、続けてくださいな」
「ありがとう。今朝方わたしはとてもひどい状態だったけれど、それでもあなたを見た瞬間、わたしの世界は変わったんだ。はっきりとわかったんだ。あなたがわたしの唯一の人だ。わたしにはあなたしかいない。そう思った」
お、おお。なんと情熱的。
「言っておくけれど、こんなことは今まで誰にも言ったことはないよ。信じてほしい」
理想の切れ長に見つめられて、カトリーヌは「否」とは言えなかった。後ろでデイジーがやきもきしているのがわかるけど。
カトリーヌの恋愛経験などほぼ皆無だが、こんな熱烈な告白ははじめてだ。アーくんなんて言わずもがな。それを理想の切れ長王子が言っている。カトリーヌがのぼせ上ってもしかたがない。
ヴィンセントは立ちあがるとカトリーヌのところまで歩いて手を差し出す。カトリーヌはされるがままに引き寄せられるようにヴィンセントに向き合った。
そうしたら! そうしたら、ヴィンセントはカトリーヌの前に跪いたのだ!
「どうか、わたしとの結婚を考えてはもらえないだろうか。返事はゆっくりでかまわないから」
「ちょっ、ちょっ、ちょっと待ったー!!!」
呆けたカトリーヌに代わってデイジーが飛び出した。
「ご、ご、ご無礼をおゆるしください。でも、姫さまがこの有様ですのでしかたありません」
「なにかな。侍女殿」
「わたくしは姫さまをお守りする義務がございます」
「うん、理解しているよ」
「アーデン公は今朝、姫さまとお会いしたばかりですよね。それでいきなり結婚などとおっしゃられても、お返事はできかねます」
「ゆっくり考えていいよ」
「いろいろ精査しなくては。それに、あなた様のおことばも信用していいものか判断しかねるのです」
デイジーは汗だくだ。それでも必死にカトリーヌのためにことばを繋ぐ。
「それは信用してくれと申し上げるしかないのだが、今現在女性がらみのトラブルは一切ない。誓って言う。聞きたいことがあればなんでも聞いてほしい。調査も好きなだけしてくれてかまわない。国王陛下や王妃殿下、王太子殿下にもご相談して答えをだしていただければいい。わたしは待つから」
ヴィンセントはカトリーヌの手を、きゅっと握って「ではまた」と言って部屋を出て行った。出際に「きみは主思いのいい侍女だね」とデイジーに言い残して。
「猛烈アタック」
デイジーがつぶやいた。あれ以来、ヴィンセントは朝に晩にカトリーヌの離宮を訪ねてくる。時には花、時にはお菓子、またある時にはロマンチックな詩集などを持って訪ねてくる。よく、ネタ切れにならないものだ、とデイジーは感心している。唯一の恋愛らしきものはアーくんだけのカトリーヌは、ただただ翻弄されるのみだ。
父を当てにしないカトリーヌは、ここでもやはり兄に事情を話して調査をお願いした。
「アーデン公など、おれよりもずっと年上じゃないか」
兄はぶつくさと文句を言ったが、不愉快で不名誉で不本意な結婚を強いられたカトリーヌのしあわせのためならばと、不承不承協力したのだった。
同時にデイジーはお城の使用人たちから様々な情報を仕入れてきた。噂話だからどこまで本当なのかは定かじゃない。
が、兄の情報とすり合わせてみれば自ずと真実は浮かび上がってくる。
「ねえ、デイジー」
カトリーヌがぽわんと聞いてくる。ずっとぽわんとしている。なにがあっても「うふふ」と笑う。今なら目の前に、天井からクモが下りてきても「うふふ」と笑うに違いない。「かわいい」とかいって。完全に浮かれまくっている。
「今日もお天気がいいわね?」
雨だが。
これでいいのか。デイジーは迷っている。主が呆けているのならば、自分がきちっと締めなければ。そんな使命感に燃えている。
たしかにカトリーヌに対して誠実である。真剣に愛を伝えている。飽きもせず、わき目も降らず一直線にこの離宮にやって来る。リスタールの城内で、ほかの女性と噂になっている様子もない。過去の女性遍歴はさておいて、今現在恋人がいる様子もない。むしろカトリーヌにご執心だと噂になっている。
ただ一筋にカトリーヌの元へ通ってくる。
「リスタールがいいのなら、屋敷を買おう」
そうまで言う。
「そこで、あなたがかわいいおばあちゃんになるのを、わたしは眺めながら暮らそう。すばらしい幸せだ。あなたもきっと幸せだよ。この先、あなたが憂えることは一切ないと誓うから。2人で幸せなおじいちゃんとおばあちゃんになろう」
このまま結婚して、買ってもらった屋敷で暮らす。とてもステキだ。でも、とカトリーヌは思う。
ネヴェリに行ったときも、最初はそうだったのだ。アレクセイは優しくて、国王も王妃も優しくて穏やかにしあわせに暮らしていたのだ。
そんなものはたやすく崩壊するとカトリーヌは知っている。たった1年で手のひらを返したようにカトリーヌは冷遇され、城は側妃愛妾がひしめく魔窟になってしまった。
ヴィンセントが変わらないと言い切れるのか。もし、変わってしまったら? カトリーヌはまた離婚を望むのだろうか。
いやだな。
そう思う。ヴィンセントがほかの人に心変わりするなんて耐えられない。考えるだけで涙が出そう。
仮にそうなったとして、その時にはまた誰かに助けを求めるんだろうか。そうだろうな。
ああ、そうだ。それが嫌だったんだ。自立できていれば、離婚なんて誰かの助けがなくてもできるんだ。「のんびりすればいいんですよ」そのことばに甘え切っていた。
はあ。
カトリーヌはため息をついた。振出しに戻った。