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はじめはよかった。ネヴェリは国を挙げて歓迎してくれた。花嫁道中の沿道では民衆が歓声を上げて手を振ってくれた。
到着した城ではアレクセイはもちろん、国王と王妃もにこやかに出迎えてくれた。侍女もメイドも王太子妃専属の者が何人もつけられて、豪華な部屋も用意された。
もちろん側妃なんていなかったし、アレクセイはカトリーヌを尊重して大事にしてくれた。カトリーヌも自分の理想は胸の引き出しにしまって、アレクセイといい夫婦になろうとしていた。
嫁いびりなんてなくてよかった、とカトリーヌは胸をなでおろしたのだった。
あれあれー? と思うようになったのは、かれこれ10か月が過ぎたころである。
「赤ちゃんはまだ?」
結婚当初から王妃には言われていた。そのたびにアレクセイは「もう少し新婚気分を味わいたいんだよ」とか「神さまの気が向いたらすぐにできるさ」なんて言い返していたのだが。
んー。そんなにできないものなのかな? 巷の話では早ければ2,3か月でできると聞いたし、半年もあればできるだろう、だったのに。
アレクセイの態度が変わってきたのも、そのころからである。
「ボクのせいじゃないからね」
いの一番に言ったのがこれである。まるで懐妊できないのはカトリーヌのせいだといわんばかりだ。だいたい、検査をしていないのに原因がわかるわけなかろう。
「きみは母上の言うことを聞いて、妊娠できるように頑張ってよ」
はあ? 丸投げか? しかも「母上の言うことを聞いて」ってなんだ。自分のことなのに。
思えばアレクセイはずっとこうだった。二言目には「母上」。
母上に聞いてみないと。母上がそう言ったから。
おいおい。ボクちゃん、ママの言いなりですか?
これで王太子なんですか。国王になってもママの言いなりですか。だいじょうぶですか、ネヴェリ王国。
カトリーヌの中に「がっかり」が蓄積されていく。
思えば初夜の時にはすでに始まっていたのだ。
カトリーヌは初夜の準備をして寝室で待っていた。ずいぶん待たせるな。なんて思っていると、扉の外にかさこそと人の気配がした。
「母上―、ボクだいじょうぶかな。自信ないよぉ」
? この声はアレクセイか? 「自信ないよぉ」とは?
「だいじょうぶよ、アーくん。教えたとおりにすればうまくいくわよ」
アーくん?
「そ、そうかな?」
「そうよ。アーくんならだいじょうぶよ」
なんだ、この会話。初夜にママがついてくるのか? っていうか、ママが教えたのか? え? こっわ。っていうか、部屋の前でする話か? 初夜の。
まさか、終わるまでついているわけじゃなかろうな?
さすがに部屋の中までついてくることはなかったが、廊下で聞いていたような気がする。新婚1日目にして、アレクセイへの信頼がほぼゼロになった。悲しき石炭結婚。
王妃は王妃で「あなたが努力しないから悪いのよ」なんて言われる。わたしのせい? なんで全部わたしに押し付けるかな。
「不妊にはアーモンドがいいのよ」
どこかで仕入れた情報をもとに、毎朝カトリーヌには小皿に山盛りのアーモンドが出されるようになった。こんなに食べきれるわけなかろう。リスじゃあるまいし。
残せば「だからできないのよ」と鬼のように責められる。しかたがないので、隙を見てポケットに隠して食べたふりをした。部屋に戻ってから窓の外に撒いておけば、リスや鳥が片づけてくれる。ケーキやクッキーにすれば、さぞやおいしかろうに。
カトリーヌにはこの結婚生活が次第に苦痛に変わっていったのだった。
アレクセイや王妃のそんな態度は使用人たちにまで伝染する。カトリーヌはいつのまにか陰で「石女」と呼ばれるようになってしまった。
「ひどいですー。原因が姫さまだとは限らないのに」
デイジーが嘆く。
「ありがとうね。そう言ってくれるのはあなただけよ」
ひし! と抱き合う。
「ちゃんと検査してもらいましょうよ」
もちろんそうすれば解決策も見つかるのだが、アレクセイも王妃も「うん」と言うわけがない。アレクセイが原因だとは絶対に認めないはず。王家の沽券にかかわる。
カトリーヌには内密で、側妃を召し上げる話も進んでいるようだ。それならそれで、勝手にしてくれればいい。もうカトリーヌはこの舞台から降りたかった。
カトリーヌとアレクセイの結婚からちょうど1年たったとき、側妃としてイリーナが意気揚々と乗り込んできた。
「カトリーヌさま」
彼女はもはや妃殿下とも呼ばなかった。
「お世継ぎはわたしが産んで差し上げますから、安心してくださいね」
アレクセイの隣にぴたりとくっ付いてすわったイリーナはニタニタと笑った。
「おまえには期待しているよ」
アレクセイも鼻の穴を膨らませてニタニタと笑いながら、目はイリーナの胸の谷間に釘付けだ。
アーくんひどい。
カトリーヌだって好きで嫁に来たわけじゃない。どんぐり眼にもマザコンにも目をつぶった。理想の切れ長を胸の引き出しにしまって、アレクセイとうまくやっていこうと努力したのに。
アレクセイだってそう思っていたんじゃないの?
それなのにこの手のひら返し。
努力したのはカトリーヌだけだったのか。今までがんばってきたことをすべて無駄にされた。悲しい。
「ええ、ええ。イリーナには期待していますよ。今度こそは世継ぎを産んでもらわなくてはね。役立たずの妃などいらないのですからね」
王妃もずけずけと言う。けっ。
「お励みくださいませ。ではわたくしは国へ帰らせていただきますね」
だったらもう開放してほしい。
「なにを言っているのだ。正妃はおまえだ。帰国などさせるわけなかろう」
いやいやいや。そっちはそっちで勝手にしてくれよ。こっちもこっちで勝手に帰るから。
「国同士の婚姻なのだ。そう簡単に離婚などできないんだぞ」
なんだ、聞き分けのない子どもに言って聞かせるみたいに。しかも偉そう。なんかムカつく。
「そうよ。子作りはイリーナに任せても、政務はあなたじゃないとね。あなたはそっちで励みなさいな」
ジョークかそれ。王妃のくせに下品だな。そうしたらアレクセイもイリーナもキャハハと笑った。なんだ、一家で下品なのか。残念な王家だな。
カトリーヌはこれから仕事だけをさせられるらしい。
たまったものじゃない。なぜあんたらが遊び暮らすしわ寄せを、わたしがかぶらなくちゃならんのだ。
やだね、ぜったいやだね。
そのアレクセイには側近が3名ついている。その中の1人、ミハイル・ゼーリン。こいつはとんだ食わせ物だとカトリーヌは思っている。3人ともアレクセイに従順である。いわばイエスマン。なにが側近だ、と思う。イエスと言うだけなら誰にでもできる。
が、このゼーリン。イエスと言いつつ、言葉巧みにアレクセイを誘導していく。アレクセイだけじゃない、王妃までもだ。
はっきり言って2人ともたいして賢くない。アレクセイに至ってはぼんくらと言ってもいい。その2人を操っているのがゼーリン。
側妃の選定をしたのもこいつだと思う。あえてあまり賢くもない、女同士のマウンティングの取り合いに命を懸けるようなイリーナを選んであてがったのだ。寵愛だの贅沢だの甘い言葉で釣りあげたんだろうな。
影の支配者(笑)。袖に毒針とか仕込んでそう。
だいたいこいつ、見た目からヤバい。細くつり上がったキツネ目。ひょろりとした細身の体。どんなときでも胡散臭い薄い笑みを崩さない。ぜったい裏の顔がある。
「あいつ、ヤバいですよね」
デイジーも気づいている。ただ、この先自分を有利にするなら、こいつを攻略するのが一番だ。
国王に直訴しようかとも考えたが、国王はあまり当てにならない。統治者としてはそこそこだが、夫、父親としては評価はほぼゼロ。なにしろ家庭内に不在である。「家のことはおまえに任せている」と言って放置するタイプだ。
王妃が出しゃばるから出てこないのか、国王が出てこないから王妃が出しゃばるのか。
この状況がアレクセイのマザコンを助長しているとカトリーヌは思うのだ。