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現代用語も出てきますが、ノリで読み流してください。
「姫さま、引き返しましょうよー」
侍女のデイジーが後ろからささやいた。
「いいえ」
カトリーヌがキリッと言う。
「わたしは引かないわ! いざ突撃!」
カトリーヌがふんすと鼻を鳴らした。デイジーは「ええー」と不満を漏らしながらも引き下がった。
あの、すっとこどっこいが。などとぶつぶつ言っているが。
カトリーヌは、城の廊下を執務室から自室へ戻るところだ。おなかが空いた。はやくご飯が食べたい。昼はとっくに過ぎていた。今日のお昼ご飯はなんだろな? なんて思いながら急いでいたところ、見覚えのありすぎる2人が行く手をふさいでいたのだ。
ほんとに、すっとこどっこいだわ。あのマザコンヤロー。カトリーヌは舌打を呑み込んだ。
カトリーヌは背筋を伸ばしてあごを上げると、すんっとすましてすっとこどっこいたちに向かっていった。
「あーら、カトリーヌさま。おひとりでお出かけですかぁ?」
目の前でカトリーヌの夫たる王太子アレクセイにしなだれかかっているのは側妃のイリーナである。なぜこの2人は、こんな廊下のど真ん中でイチャついているのか。通行の妨げも甚だしい。
「やあ、カトリーヌ。久しぶりだね」
おいこらアレクセイ。それが正妃に向かって言うことか。
「ほんとうにご無沙汰いたしております。殿下の代わりに一仕事、いえ二仕事、いえ五仕事ばかり片づけてきたところですわ」
「あっそう。ボク、ちょっと忙しかったから」
悪びれもしないな、このヤロー。女とイチャつくのに忙しかったのか。そうか、そうだろうな。この、ボケナスが。
「これからやーっとお昼ごはんですの」
厭味ったらしく言ったのに、ご本人はどこ吹く風。ただいま午後2時半である。だいぶ前からおなかはグーグーと鳴っている。デイジーのおなかもグーグーとハモる。デュエットだ。ちっとも楽しくないデュエットだ。
「あーら、かわいそう。わたしたちはとっくにいただいたわよぅ。もうじきおやつよねぇ?」
なに? その間延びした話し方。知性も教養も感じられない。ほんとに貴族令嬢? 伯爵家の娘だとは聞いたが、とてもまともな教育を受けたとは思えない。カフェーの女給と言われた方が納得できる。(ここでのカフェーは現代日本の喫茶店やカフェとは違って、女の子が接待をするキャバクラ的なお店だった)。
「おやつ、なにかしらねー? わたしバターケーキがいいわ」
イリーナが指先で、アレクセイの胸元にくるくると円を描く。アレクセイはデレデレと鼻の下を伸ばす。だらしないったら、ありゃしない。
「ボクはねー、ドーナッツがいいな」
だから太るんだよ!
カトリーヌとデイジーの心の声がデュエットした。最近のアレクセイはぽっちゃりに磨きがかかっている。今ぎりぎり「ぽっちゃり」だが、はっきり「デブ」になる日も遠くない。
「どうぞゆっくりご堪能ください。では」
カトリーヌは軽く頭を下げると、歩き出した。
「あ、カトリーヌ」
アレクセイが呼び止めた。
「晩餐にはカトリーヌもおいでよ。3人で食べよう?」
やだね!!!
どうしてわたしが呼ばれる体なのよ!!! ふざけんな!
カトリーヌは返事もせずに昼食に向かって歩き出す。
……ぐすっ。
あれ、おかしいな。鼻水が流れる。
「姫さまぁ」
後ろを歩いていたデイジーが横に並んだ。そっとハンカチがさし出された。
ぐすぐすぐす。
おかしいな、鼻水が止まらない。カトリーヌはそのハンカチを受け取って「チン!」と鼻をかむ。
泣いているんじゃない。これは花粉症だ、きっと。
ここはネヴェリ王国の城。カトリーヌは1年前に王太子であるアレクセイに嫁いできた。カトリーヌは隣国リスタール王国の3番目の王女だった。国境をめぐるなんやかんや、石炭に関するなんやかんやの関係での結婚だ。つまりごりごりの政略結婚。石炭結婚。もとより愛なんて求めてはいなかった。
なんで国境や石炭のために結婚しなくちゃいけないのよ。そんなの話し合いで決めればいいじゃない。
とカトリーヌは思う。
だって、カトリーヌだって愛やら恋やらに憧れがあるのだ。どうせ結婚するなら、ステキな人がいい。すらっと背が高くて足が長くて、たくましい人がいい。年上で頼りがいがあって、かるがる姫抱っこをしてくれる人。きりりと切れ長の目で精悍な顔つきで、そのくせ笑うと少年みたいでちょっとかわいくて。
髪は金髪? 黒髪もいいな。茶色もいいか。赤毛もいいかも。さらさらストレートもいいけど、くせっ毛もいいな。おでこでアホ毛がくるんとしたりして。瞳は切れ長であれば何色でも構わない。
「理想が高すぎですよぅ。そんな人いるわけありません。ロマンス小説じゃないんですから」
デイジーが笑う。そんなのわかってる。アレクセイに対面してがっかりしたのは秘密だ。
アレクセイは理想とは真逆のタイプ。背丈はそこそこあるがぽっちゃり。色白なものだから余計にぷよぷよして見える。指で突いたら際限なくめり込みそうだ。東洋には「モチ」というふわふわもちもちした白い食べ物があるという。たぶんこんな感じだ。モチ王子。
「たくましい」の「た」の字もない。あるのは重量だけ。もちろん姫抱っこなんて夢のまた夢。しかもどんぐり眼。しかもタレ目。タヌキ目だ。
初対面でため息をつかなかったことを褒めてほしいくらいだ。
さらに悪いことには「マザコン」だったのだ。
カトリーヌの父リスタール王は、娘を平気で駒にするような冷酷な男だった。カトリーヌは嫌も応もなくネヴェリに差し出されたのだ。
一応王女に恥ずかしくないだけの支度は整えてくれた。侍女やメイドも好きなだけ連れて行けと言われた。
そんな風に言われても、一度ネヴェリに行ったらよほどのことがない限り戻ってくることはないのだ。それについて来い、なんてカトリーヌは言えなかった。
いっしょに行きます、と言ってくれた者は何人かいたけれども、やはり家族のことなんかを考えたら「いい」とは言えない。ただデイジーをのぞいて。
デイジーはカトリーヌの1才上の伯爵家の娘だ。結婚も決まっていたのだが、結婚式の半年前に婚約者は結核で亡くなってしまった。心底愛し合っていた2人だったから、デイジーのダメージたるや筆舌に尽くしがたい状況だったのだ。
新しい婚約をすすめられても「うん」と言うことはなかった。だから国を出て、いっしょに行きたいと言ってきたとき、カトリーヌは連れて行くことにしたのだ。
「知らない場所で知らない人たちに囲まれていた方が気楽なんですよ」
デイジーがそう言ったから。なるほど、そうかもしれない。そう思ってカトリーヌはデイジーただ1人を連れてネヴェリへやって来たのだ。