ポケットの中の推し
この物語は幕田卓馬さんとのコラボ作品で、全く同じ書き出しで違うストーリーをそれぞれ書こう——というものです。
全く同じ書き出しの、別の小説。
それぞれどんな展開になっていくのか? お楽しみください。
それは、運命のようにそこにあった。
近所の古本屋巡りは僕の日課のようになっている。
チェーンの古本屋の査定はいい加減なもので、あまり出回ってないようなレア度の高い本も、最低販売価格で売られていたりするから面白い。そんな世捨て人みたいな本を見つけ出しては悦に入るのが、ネクラな僕の細やかな楽しみだったりする。
そんな僕だから、棚の隅っこに置かれていた『あのマンガ』に魅入られたのは、きっと必然だった。
マンガオタクの中でも、相当にコアなオタクでなければ知らないだろう幻の単行本。
『パイソンカマムシの歌』 著者、栗本吾樹。
10代の若さで初期の手塚賞を受賞し華々しくデビューするも、その後、鳴かず飛ばずで消えてしまった漫画家。
手塚賞の作品は衝撃的だったが、第2作目は人気が出ず、途中で打ち切りとなった。
その2作を収録した単行本1冊だけが、この作家の全てだ。
昭和の時代の話だから、もちろん僕だってリアルタイムで知ってるわけじゃない。ただ、濃ゆいマンガオタクの中では都市伝説のように語られる幻の単行本なのだ。
それが‥‥こんなところに無造作に置かれているなんて!
噂だけでしか知らない、初めて見る実物。
本物だろうか?
僕はそれに手を伸ばした。
表紙を開くと、中表紙に「あき」とひらがなで手書きのサイン。
これは‥‥!
栗本吾樹のサインなのか?
だとしたら、レアなんてもんじゃない!
パラパラとページをめくる。
昭和の時代だというのに、古臭いどころか見たこともない斬新な絵柄。物語はSFで、僕は一瞬でその世界に引き込まれてしまった。
さすがに手塚賞に輝いただけはある。
第2作だって十分に面白かった。いかにも打ち切りといった終わり方が、僕には不満だ。
続きが読みたい——!
ビニールもかけてなくて、値段も200円。
これは‥‥こんな扱いを受けていい本じゃないよ?
ふう‥‥、とひとつため息をついてから初めて、僕は左頬に誰かの視線が注がれていることに気がついた。
そちらに顔を向けて、思わずのけぞる。
息がかかりそうなほどすぐ近くに若い女性の顔があった。
20歳前後? ストレートの黒髪で、やや細面。大きくて無骨なフレームの眼鏡の奥の、やや内気に見える瞳は、何か今にも泣き出しそうに見えた。
服装は‥‥タートルネックのセーターに、どこで売ってるのかと思うほど裾の開いたジーンズ。ダサい。と言うべきか‥‥。昭和レトロっぽくて粋。と言うべきか‥‥。
「そのマンガ、面白いですか?」
その女性は、ひどく遠慮がちに僕に訊ねた。
「面白いなんてもんじゃないです! 天才ですよ。栗本吾樹は!」
僕は思わずそう言って、それからこのマンガがいかに凄いかを延々と語り出してしまった。
そうして、20分以上も一方的にしゃべってしまってからようやく、僕は相手が名前も知らない初対面の人だということに思いが至った。
「す‥‥すみません。つい‥‥。」
でもそれは、その女性が目を輝かせて嬉しそうに僕の話を聞いていてくれたからでもあったのだ。
「あの‥‥、よかったら場所を移して‥‥その‥‥。あ、僕の名前は間久田宏司といいます。」
「わたしは‥‥」
とその女性は、少しもじもじしながら名乗った。
「栗本奈津樹といいます。その‥‥『吾樹』はわたしのペンネームなんです。」
「え?」
それからその女性は僕にこう訊いた。
「今は何年の何月何日ですか?」
2025年の3月14日だと答えると、彼女は、ふっ、とため息をついた。
「そうですか‥‥。やっぱりそうなんですね。」
そして僕らは近くの喫茶店に場所を移し、今度は僕が彼女の不思議な話を聞くことになった。
このマンガが描かれてから半世紀近くが経っている。作者の栗本吾樹は行方不明だが、生きていれば今は60代のはずだ。
しかし今、目の前で「栗本吾樹」と名乗った女性は‥‥。
タイムスリップ?
その言葉が最初に浮かんだが、彼女が語ったのはもっとずっと不思議な物語だった。
* * *
わたしは、その作品に全身全霊を注ぎ込み過ぎたのでしょう。
手塚賞の作品もそうなんですけど、2作目も‥‥。
わたしの担当として付いてくれた編集者は、本当に素敵な男性で——。二人三脚のようにして、一緒に作品を作ってくれたと言ってもいいんです。
手塚賞が決まった時には、自分のことのように喜んでくれました。
2作目の作品は‥‥その人に宛てたラブレターだったんです。もちろん、そんな露骨には描いていません。商業誌のマンガなんですから。
でも、そんな隠喩がよくなかったのかもしれません。いまいち人気は伸びず、打ち切りということになってしまいました。
それでも彼は頑張ってくれて‥‥、この2作で単行本を出すところまでこぎつけてくれました。
わたし、子供だったんですね。まだ20歳前だったんですもの。そんな編集さんの親切を、勘違いしてたんです。
単行本が出来てきた時、その1冊にわたしのサインを入れて彼に手渡したんです。その時になって、彼は気付いたようでした。わたしが作品に込めていた想いに‥‥。
距離を取られてしまいました。
それでも漫画家としての才能を信じてくれていた彼は、編集者としてわたしに向き合い続けてはくれました。
でもやがて、会社の方から新しい才能を発掘するように指示が出たようでした。
その頃からでした。わたしの意識がとぶようになったのは——。
時間がとびとびになって‥‥、今がいつかもわからないようになって‥‥。そして次にはっきりと意識が戻ったとき、わたしはこの未来の大きな古本屋の中にいました。
40代くらいの女性が紙袋を持って受付に歩いて行くのを見ていました。
その人の面差しには、はっきりとあの担当さんの面影がありました。
そして、紙袋の中から出てきた多くのマンガ単行本の中に、わたしのあの単行本もあったのです。
受付の壁のカレンダーには「2025年」と書いてありました。
それで、わたしは全てを悟ったのです。
わたしは、あの本の中に取り込まれてしまった。あの単行本を誰かが見たり読んだり、意識の中に存在させていてくれないと、わたし自身の存在もまた消えてしまうんだと——。
わたしの時間がとびとびになっていったのは、彼が新しい才能と向き合ううちに、わたしの単行本のことなど忘れてしまって‥‥本棚の隅に置いたままになってしまったからなんでしょう。
そして、それを、おそらくあの人の娘さんが売りにきたのだとすれば‥‥‥。たぶんあの人の遺品整理なんでしょう。今が2025年なら、あの人はもう70代後半のはずですから。
* * *
最後の言葉を話し終えたとき、栗本さんはその人形みたいな目を少し潤ませていた。
「次に意識が戻ったとき、目の前で食い入るように単行本を読んでいたのがあなただったんです。これがわたしの、奇妙な失恋と出会いの物語です。信じてくれますか?」
「信じます。」
僕が言ったのは、そのひと言だけだった。
半世紀近く存在が消えていたなら、もう彼女のアパートもマンガの道具も、何も残ってはいないだろう。
僕は彼女にひとつの提案を持ちかけた。
それはすごく勇気のいることだったけれど、僕は世界一レアなこのチャンスを逃したくなかった。
「よかったら、僕のアパートに来ませんか? あ、いや、ヘンな意味じゃないんです。ただのルームシェアです。ベッドももう1つ入るくらいの広さはありますから——。」
栗本さんが驚いたような表情で僕を見る。
「僕は続きが読みたいんです。僕でよければ、僕はずっと栗本さんの読者でい続けますから。」
世界一レアな単行本を手に、それはたぶん最初で最後といっていい僕のプロポーズだ。
「いつも、いつのときも、僕はこれをポケットに入れて大切にしますから、この先もずっと作品を描いてくれませんか?」
栗本さんはちょっと泣きそうな笑顔で僕を見て、それから静かにこう言ってくれた。
「はい。」
了
時を超えたマンガ単行本とのラブストーリー。
いかがでしたでしょうか。(^^)