ちが、そんなつもりじゃ…… 4
兄様のご厚意でお家に招いてもらったのだが、
(き、緊張するわね)
立地は悪くはないが良くもない。箱はちょっと大き目の二階建。
結婚祝い出産祝いプラス生前贈与で母方のご親類に援助をして頂き建てたと兄様は言っていた。
特別、豪奢な邸宅というわけではない普通のお宅だ。
そういう意味でならヤッキーノの屋敷の方が何十倍も上だろう。
私が落ち着かないのはこの家に染みついた家庭の温かさが理由だ。
(……本当に、素敵なご家族なのね)
何気なく飾られている写真などを見ればよく分かる。
兄様の成長順に並んでいるのだろう。
以前お会いした御父君と一緒に映ったそれらはどれも弾けんばかりの笑顔が浮かんでいる。
このような温かさとは無縁だった私には眩くてしょうがない。
「烏龍茶で良いか?」
「あ、うん」
キッチンから戻ってきた兄様が烏龍茶をコップに注いでくれる。
「うちの禿が好きでさあ。別にウーロン飲んでりゃ不摂生帳消しになるわけじゃねえのにな」
「悪魔としてはそういう人間の自分に甘い部分につけ込んだりするから悪いとは言えないかも」
「ちげえねえ!」
カラカラと笑いながらグラスを傾ける兄様は本当に、陽の塊みたいな殿方だと思う。
実際に魔王の力の片鱗を見せつけられた私ですらちょっと疑ってしまいそうになる。
「あ、そうだレモンって魔術とか使えるんだよな? ちょっと分からないとこあるんだけど教えてくれね?」
「ええ! 私でお役に立てるなら喜んで!」
兄様の質問に口頭と実技でアドバイスをしているとピー! というアラームが鳴った。
「お、風呂沸いたみたいだ。先入ってきな」
と兄様が私に入浴を勧めてくれる。
兄様を差し置いて一番風呂というのは申し訳ないが好意を無下にするのも申し訳ない。
と、その時である。レクチャーに使ったあの淫行教師から貰ったという教本が視界に映り込んだ。
「……」
「ん? どした遠慮せんで良いんだぞ」
少し……いや、かなり迷った。
けれどもこのような機会は滅多に訪れないしと不安を押し殺しながら私は口を開いた。
「あ、あの……い、嫌でなければ……その、兄様と一緒にお風呂に入りたい、なって」
「ふぁ!?」
「えっと、家族、と一緒にお風呂に入って背中を流し合うみたいなことに憧れてて……」
「あ、あー……そういう?」
甘えている。甘えすぎている。その自覚はある。
今日も散々甘えさせてもらったのにこれ以上を望むなんて度し難いと思う。
けど、兄様があまりにも優しくて……欲張ってしまう。
「……しゃあねえな。っし、じゃ二人で入るか。あんま大きくないけど我慢しろよ」
立ち上がり私の額を軽く指で弾き兄様は笑った。
気を遣わせたという罪悪感と、それ以上の歓喜が私を満たす。
「――――うん!」
兄様と腕を組んで浴室へ向かう。
(……ごめんなさい兄様)
脱衣所で服を脱ぐ兄様に心の中で謝罪をする。
憧れがあるというのは嘘ではない。
しかし、それだけではない。ある意味で最も重要な使命を私は帯びているのだ。
「ほれ、こっちゃ来い」
かけ湯をして浴槽に浸かった兄様が手招きをする。
促されるまま私は兄様が開いた足の間に腰を下ろし体を預けた。
「むか~し。親父と風呂入ってた頃はいっつもこうしてたんだ」
言いつつ頭を撫でてくれた。
それがあまりにも心地よくって私は心が温かくなるのを感じていた。
「あの頃はまだ毛根戦線も逆転の機を伺ってるぐらいの元気さはあったな……良い思い出だ」
良い思い出なのだろうか?
「それにしてもやべえな俺。妹分とはいえ可愛い女の子と風呂入るとか勝ち組じゃんね」
バイト先でも可愛い女の子と縁できたし女運向上してるだろウケケと兄様が笑う。
年頃らしく色ごとに興味があるらしいけど、
(……私に言ってくれれば兄様の欲望は全て受け止めるのに)
私に関しては庇護欲の方が強いのだろう。
理由は異なるが色欲に傾かないのはあの淫行教師もそう。
似た境遇ゆえ慮ってくれているというフィルターがあるので軽く興奮はしてもそれ以上がない。
兄様は軽薄な態度を取っているし実際、それが素なのだろうが妙なところで生真面目だ。
(育ちの良さゆえ、かしら)
実際のところ、兄様が望めば女なぞ駄菓子のように食い散らかせるだろう。
何せ彼は明けの明星、ルシファーの真なる継嗣。ありとあらゆる背徳に愛された存在なのだから。
呼吸をするように悪を成せる天性はその肉体からも見て取れる。
その“人間性”を見ないようにすれば実に艶めかしい肢体だと思う。尋常の色気ではない。
魔性の色気で女を狂わせ傅かせ思うがまま淫蕩に耽ることなど朝飯前だ。
(だからこそ、恐ろしい)
直視すれば私のような力ある悪魔ですら心奪われる色香。
私ですらそうなのだから一般人は刹那で狂うだろう。
神秘による隠匿を行っていないにも関わらずそうなっていないのは、
(その善性が星の魔性を抑え込んでいるから)
奇跡のような存在だと改めて思う。
この奇跡を引き起こしたのが人の愛だというのであればそれこそ正に人が持つ可能性の証明。
魔王の力に人の可能性。両方を兼ね備えた兄様の存在は奇跡としか言いようがない。
恐らく兄様の周囲でこのことに気付いているのは私だけだろう。
淫行教師やウォッチャー、紳士淑女同盟の首魁ですら気付いていない。
気付いているのであればもっと警戒しているはずだ。
私が気づけたのは僅かばかりとはいえルシファーの血を身に宿しているからだろう。
だから覆い隠された魔性を見つけることができたのだ。
「どした~? 俺があんまりにも良い男だから見惚れちまってんのか~?」
鼻歌のリズムのままそんなことを口にする。
「ええ、あの夜から兄様は世界で一番の男よ」
「おいおいおい! 照れるじゃねえかァ! そんな褒めても小遣いぐらいしか出ねえぞ!?」
乗せられやすいのはちょっと心配かも。
「っし、じゃそろそろ頭と体洗うべ」
ほらほらと促され浴室用の椅子に腰掛けるとシャワーで優しく頭を濡らしてくれた。
……どうやら頭を洗ってくれるらしい。かなりドキドキする。
「……俺も親父にこうしてもらったっけなあ」
小さな独り言が耳を擽る。
私に少しでも家族の温もりをくれようとしているという事実に涙が出そうだ。
「……お返しに親父の洗おうとしたら勘弁してくれって半泣きになってたっけなあ」
それは毛髪の残量的な意味でだろうか?
意外と言えば失礼かもしれないが兄様の洗髪は実に丁寧だった。
女の子だからと殊更気を遣ってくれたのだろう。正直、かなり気持ち良かった。
「ね、ねえ今度は私がやっても良いかしら?」
「ん? おお、良いぜ。俺ぁ禿と違って頭部戦線が後退してるわけじゃねえし遠慮せずやってくれい」
「で、では失礼して」
無礼がないよう私も丁寧に丁寧にそれこそ毛髪一本ずつ洗うぐらいのつもりで洗髪を始める。
「あ゛~……きもちええ……ほっほっほ」
どうやらお気に召してくれたようだ。
「あ、今度は私からやらせて」
洗髪の次は体だ。
兄様と位置を入れ替えて抱き着きたくなる大きな背中を流し始める。
「そういやさー、ミア先生の東京離れる仕事って何か知ってる?」
「一応聞いているわ。確かマークしてる宗教団体絡みの任務だったかしら?」
「しゅーきょーだんたい?」
「そうよ。名前は……そう、始海教」
「しかいきょー?」
「始まりの海と書いて始海教よ」
始まりの海。つまりは原初の混沌を信仰対象にする宗教団体だ。
科学的にも宗教的にも海というものは生命の起源として大きな意味を持つ。
信仰対象になるのもそう不思議なことではないだろう。
我々は分かたれたとはいえ元は一つの命なのだから奪い合い傷付け合うことはやめよう。
ザックリ説明するなら教義はそんな感じだ。
「へえ? 良いじゃん。ああでも宗教だし当然か」
「そうね。耳障りの良い言葉で釣らないといけないもの」
「結論から言うとお前は地獄に堕ちる。うちの神様を信仰しねえとなとか言われたらはぁ? ってなるもんな」
ある意味潔くて嫌いではないけれど。
「で、その始海教とやらはどんな悪いことしてんの?」
「悪いこと、というか……」
現状、活動自体に問題はない。
新興宗教にありがちな何かを買わせたりだとか過剰なお布施などはない。
それどころか経済的に余裕のある富裕層の信徒が金を出して貧民救済などもしているとのこと。
「え、何の問題もなくね? 何でマークされてるわけ?」
「……一部の信徒が問題なのよ」
「というと? あ、今度は俺が背中流す番だな」
「ありがとう。裏の界隈でも名の知れた悪党が複数人、入信していたみたいなの」
その中には私も知っている名前もあった。
入信した悪党には幾つか共通点がある。
まず前提として振り下ろされた正義の鉄槌を悉く打ち砕いてきたような実力者であること。
第二に余命幾許もないこと。
そして今分かっている範囲で彼らは入信と同時に心を改め死の間際まで善行に励んでいたということ。
そこまで言って兄様はなるほどと頷いた。
「――――めっちゃ怪しくね?」
仰る通りだ。
現状、害があるわけではないがどうにも不気味でならない。
だからこそ淫行教師を含む一部の者らは探りを入れているのだ。
勘働きに優れた者らから無視すべきではないという声が上がったのも一因だという。
「先生も大変やのう。俺に何かできることはないかねえ」
「……大丈夫。私が代わりに労っておくから。まあ、何だかんだお世話になっているわけだし」
「お前……へへ、そうかそうか。じゃ、レモンに任せるよ」
多分、兄様は私が素直になれないとかそういうことを考えているのだと思う。
でも違う。いや、労う気はある。だがただ労うだけで済ませるつもりはないだけ。
(まあわざわざ兄様にそれを伝えはしないけれど)
体を洗い終え再度、湯舟に。
少しのぼせるぐらいまで他愛のないお喋りに興じてから私たちは浴室を後にした。
「……パジャマもそんな感じなのか」
お風呂上りのフルーツ牛乳を私に差し出しながら兄様がぽつりと言った。
「へ、変かしら?」
レースをあしらった黒のキャミソールにショートパンツ。
日頃から使用している寝巻なのだけど……。
「いやいや似合ってるよ。ただそういう何つーの? ゴシック? みてえなん好きなんだなって」
「そ、そう? 良かった」
「しかし何だ。女の子の寝巻ってちょっとドキドキすんな! ミア先生とかはどんなパジャマ着てんのかねえ」
アイツ全裸よ、とは言えない。
「……」
「どうしたの兄様?」
「風呂も一緒に入ったんだし今更だよな。よおレモン、今日は一緒に寝るか?」
「! い、良いの?」
「おう。まー、ちょいと寝苦しいかもしれんがな」
「平気! 兄様と一緒だもの!」
「そか。じゃ、後はもうベッドでダラダラすっか」
手を繋いで兄様のお部屋へ。
意外と言っては失礼かもしれないが、部屋はわりと綺麗に整理整頓が成されていた。
「ほれ、こっちゃこい」
「し、失礼するわね?」
先にベッドに入った兄様がぽんぽんとベッドを叩く。
ドキドキしながら布団に入ると極々自然に抱き寄せられた。
「お前、見たいテレビとかある?」
「特には。兄様の好きな番組で構わないわ」
「ん」
ベッドに寝転がったまま二人でテレビを見る。
何てことはないあり触れた日常の光景。
それが私には何よりも嬉しくて……改めて思った。兄様の手を取って本当に良かったと。
(あ、寝ちゃった)
お喋りしながらテレビを見ていたが零時を少し過ぎた頃、兄様は寝落ちしてしまった。
寝顔を見るのは二度目だけど……やっぱり、堪らなく愛しい。
「私も――と行きたいけどその前にやらなきゃいけないことを済ませましょう」
偽装を解除すると宙に蝙蝠のような翼が生えたスマホが出現する。
兄様と合流してからずっと働き詰めだったけどこれが最後の仕事だ。
角度を確認してから兄様の腕枕に頭を預けて良い具合に位置を調整。
念で指示を飛ばしシャッターを切る。
「……完璧ね」
私は私の使命を告白しよう。
結論から言うと淫行教師への牽制とマウントだ。
「兄様のベストショット。労いとしては十分でしょう?」
今日撮ったツーショットの数々をあの女に全て送り付けスマホの電源を落とす。
「ふふ、今日は素敵な夢が見れそうだわ」




