魔王ジュニアVSカルト教団 12
「ぇ」
目の前で起きた事態が飲み込めず正子は呆然としていた。
自らの救いこそが正しいと信じているのはそう。
だから次郎にも救いを受け入れて欲しかった。
だがこんな自殺のような真似をするとは思ってもみなかったのだ。
「……けど、受け入れてくれたんだよね?」
良かった。もう彼が辛い目に遭うことはないと胸を撫で下ろすが、
「――――なん、で」
直ぐに安堵は霧散した。自らの裡に次郎の存在が感じられないのだ。
油断させて不意を打つためあんなことを?
違う。違う。次郎は今も海の中に沈んでいる。あの忌々しい炎も纏わずに。
水底の次郎と視線が交わった。
穏やかな目をしている。これまで浮かべていた焦燥などは欠片も見えない。
次郎は一度深呼吸をすると再度、翼を出し静かに水中から浮上した。
「何を、したの?」
震える声で正子が問う。
「さっきの炎を見えないように使ってるの? 私を揺さぶるために」
「いいや」
「な、なら魔王由来の力で」
「違う」
否定を重ねる次郎。その言葉に嘘はないように思えた。
「そんなはずは!!」
「正子ちゃん」
堪らず叫んだ正子に次郎は言う。
「君は孤独をこの世で一番恐ろしいものだと言った」
「そうだよ。だから」
「取り除く必要があると。もう苦しまずに済むようにって」
それも一つの答えなのだろう。
数は力だ。正子に溶けた人たちのことを考えれば否定はできない。
「でも絶対の正解ってわけでもないと思う」
「……何が言いたいの?」
「人の数だけ答えがあって、俺は俺の答えを見つけたってだけさ」
濡れた髪をかき上げながら続ける。
「俺にもそういう部分はある。それは否定出来ない。
でも孤独が齎すのは痛みだけなのか? 苦しみだけなのか? 悲しみだけなのか?
俺は違うと思う。それだけじゃない。それだけじゃないんだ」
穏やかな、それでいて力強い言葉だった。
「自分で言うのも何だが、俺ってばかなり駄目な男なんだわ。
めんどくせえことはしたくないし無理だと思ったら直ぐ諦めちまう。
楽な方楽な方に流れちゃうんだなこれが。実を言うとさっきもそうだった」
鬼強い正子に心が折れかけていたと次郎は苦笑する。
「けどさ、他人が理由になれば頑張れることもあるんだ」
それは我と彼を隔てるものがあるからだ。
皆が一つになってしまえば頑張れない。だって全部自分なのだから。
「誰かのために頑張れる。それをこそ人は愛と呼ぶんだ」
孤独の寒さを知るからこそ誰かを愛せる。
「他ならぬ君がそれを証明している」
普通、思わないだろう。全てを救いたいなどと。
「皆が一つになることが至上の救いと君は言った」
でも、
「――――その中に君は居ないんだろう?」
皆の中に正子は居ない。
別に神になりたいわけではない。これは構造上の問題だ。
皆を受け入れるための器である正子が溶けてしまえば救済が成立しなくなる。
だから正子は皆の幸せのために輪の外に居続ける必要がある。
それはつまり永遠の孤独に身を投じるということに他ならない。
「誰よりも孤独を恐れる君が永遠の孤独を受け入れる」
誰かのためなら一番の恐怖にさえ立ち向かうことができる。
これはとても尊いことだ。素晴らしいことだ。何と眩いことか。
これを愛と言わずして何と言う?
「それは自分と誰かを隔てる孤独があったからこそ生まれたものだ。
そしてそんな愛情を受け取る幸福もまた確かに存在する。俺がそうさ」
形はどうであれ正子は愛の限りに次郎を救おうとしていた。
それが堪らなく嬉しかったのだと次郎は笑う。
「だからこそ君をひとりぼっちにはさせたくない」
「……それが、同化に耐えられた理由?」
「いいや? それはあくまで動機で耐えられたのは助けてくれた人が居たからさ」
その言葉に正子が怪訝な顔をする。
誰かが介入した気配など一切なかったからだ。
次郎は愛おし気に首のあたりを軽く撫でると偽装が解除され、
「ぁ」
夏の装いには不釣り合いなマフラーが姿を現した。
「これも俺が俺で、君が君だからこそ得られた幸せだろう?」
蝋燭を真ん中に語らったあの聖夜。
孤独の寂しさを忘れるぐらいの幸せがそこにはあった。
あの掛け替えのない時間は見つめ合える二人であればこそ。
そうして得られた温もりが自分を護ってくれたのだと次郎は言う。
「それとも正子ちゃんにとってあの時間は嘘だったのかい?」
「――――」
真っ直ぐな言葉と視線が正子を射抜く。
何かを堪えるように目を瞑りしばしの沈黙の末、
「……ずるいなあ」
困ったように笑った。
「嘘じゃない。嘘じゃないよ。あの夜、私は確かに君の温もりを感じて幸せだった」
ああそうだ、幸せだったのだ。
次郎が帰った後もその熱がまだ残っていて心が凍えることはなかった。
嘘になんか出来るわけがない。
「私の愛を阻んだのが私の愛、か」
あまりにも出来過ぎていて寓話のようだ。
他の誰に否定されようと祈りは変わらない。
だが世界で一番好きな人と他ならぬ自分に否定されてしまった。
次郎だけならまだ意地を貫けた。
だが次郎を愛する自分にまで否定されたのならどうしようもない。
だって次郎を救いたいと願うのは彼を愛するがゆえなのだから。
「――――私の負けだよ」
正子は心の底から自らの敗北を受け入れた。
「……正子ちゃん」
噛み締めるように名を呼ぶ。
あの雨の夜、次郎は愛するがゆえに愛理を殺めるしかなかった。
だが今度は違う結末を掴み取れた。
喜びが溢れだす正にその瞬間、
「ッ!」
「正子、ちゃん?」
非情な現実が訪れた。
体を折り曲げ片手で顔を覆う正子から放たれる力の圧。
それはこれまでとは比べ物にならないほど大きく荒れ狂っていた。
「……ここまでやっておいて宗旨替えは赦さない、か」
額に冷や汗を滲ませ正子が苦笑する。
「まさ、か」
次郎の目がこれでもかと大きく見開かれた。
数は力だ。一千万も集まれば未熟とはいえ才能溢れるルシファーの継嗣すら圧倒してみせる。
そしてその数の力は今、次郎ではなく正子に向けられていた。
「暴走、してるみたい」
支配という形を取っていたなら起こり得なかった。
だがそもそもの話、支配という形を取っていたのならここまで辿り着くことはなかった。
救いたいと願い、全てを自らの裡に受け入れると決めた正子だからこそ抗えない。
つまりはまあ、久世正子という少女は最初から詰んでいたのだ。
「このままだと溢れ出した海が結界を飲み込み際限なく広がっていく」
「……正子ちゃん」
「そうなれば全部、おしまい。同意も何もない。何もかもを溶かしちゃう」
「正子ちゃん!!」
「だからその前に」
今にも泣きだしそうな次郎に正子は言う。
「私を殺して」
力の根源であり器でもある正子が死ねば最悪は避けられる。
同化した人々も同化が解除され元に戻るという。
だがそれは次郎にとって掛け替えのない人を失うということでもあった。
「せ、先生! 先生や皆を頼れば何とか」
「ならないよ。言ったでしょ? 同意も何もないって」
暴走状態にある海に見境はない。
圧倒的質量を以って結界内に侵入した者を同化し更に膨れ上がる。
この場に人を招き入れることは最悪へのカウントを進めることに他ならないのだ。
「そんな……だって、俺、ようやく……」
言いたいことは沢山あった。だけど残された時間は少ない。
だから正子はとびっきり残酷な願いを口にする。
「こんなこと言えた義理じゃないのは分かってる」
でもお願い。
「守って。私が私で君が君だから得られた幸せを」
失いたくないのだ。
「――――私と次郎くんの愛を」
絶望、怒り、嘆き。
際限なく溢れ出す負の感情を全て飲み込み、
「……分かった」
それでも次郎は笑って願いを受け入れた。
残された少ない時間。正子が見る自分の顔が悲しいものにならぬよう笑顔を作ったのだ。
次郎は虚空から妖刀を引き抜き能力の一つを発動させる。
「行くよ」
「うん」
構えた刃を以って一息に正子の胸を貫く。
驚くほどすんなり刃は貫通し、それでも傷も出血もなかった。
当然だ。これは優しい死を与えるための刃だから。
「ぁ」
もたれかかるように倒れて来た正子を抱き留める。
急速に失われていく体温。直、命の灯は尽きるだろう。
「……何か、言い遺すことはあるかい?」
「そう、だね」
「何だい?」
次郎の腕に抱かれながら正子はそっと次郎の頬に手を当て言った。
「夏が来る度、私を思い出して?」
そしてその度に刻まれた傷の痛みで苦しんで欲しい。
そうすればきっと一生、一緒に居られるから。
そう願う正子に次郎は苦笑を浮かべる。
「酷いな」
「そうだね。酷い女だ。忘れちゃった方が良いかもね」
「……いいや忘れないよ」
優しく、しかしこの上なく力強い声色だった。
「夏が来る度にじゃない」
街を歩いている時。
授業中、ぼんやりしている時。
夜、寝る前。
「何気ない日常の中でもふとした瞬間、きっと君を思い出す」
その度に胸を痛めるだろう。
「でも、それで良いんだ」
その痛みと共に生きて行く。
「だってそれは俺が俺で、君が君で得られた幸せでもあるんだから」
「……嗚呼、どうしよう」
次郎の言葉を受け正子は頬を染め花が綻ぶように笑い、
「――――私今、人生で一番幸せだ」
その生涯を終えた。