君と進む昨日
「頼む…頼む…!」
必死に祈りながら封筒を切る。その瞬間、目に飛び込んでくる冷たい三文字。
「不合格」
三月十日、俺は一世一代の大勝負、大学入試に失敗した。
「ごめんね…うちが貧乏で」
母親のやけに優しい声が胸を抉る。
「謝らないでくれよ。わかってる、浪人はしない。 約束だったし、そのつもりだった」
そう、後がないとわかっていたのに、才能はないとわかっていたのに、努力を怠った自分の責任だ。それなのに悲痛な顔をする母親を見ていられなくて、俺は家を後にする。
外に出たは良いものの何も思い付かなくて、宛もなく歩き続ける。しばらくすると、寂れた公園が目に止まった。何となく立ち寄り、ベンチを目指す。誰もいないと思った。
しかし、そこには先客がいた。
儚げな子だった。目を離したら消えてしまいそうで、どこか不安になる。その物悲しげな表情を、俺は無視出来なかった。
「隣、いいですか」
普段は赤の他人に話しかけることなどしない。けれどその時は何故だろう、不幸そうな顔をしている彼女に自分の不幸話を聞かせて安心させようとしたのか、ただ愚痴を聞いてくれる相手が欲しかっただけなのか。
彼女は一瞬俺の方を見たが、慌てて視線を逸らした。その様子に少し腹を立てた俺は、無理やり話しかける。
「いやはや受験に失敗してしまいましてね、絶賛落ち込み中なんですわ」
再び目が合う。すると、彼女は諦めたように俺に向き直った。
「ーそれは気の毒です。志望校はどこだったんです?」
「美大です。絵でね、食っていきたいと思ってたんですけど…才能もないし努力も足りなかったみたいです。おまけにウチね、そこまで金持ちでもないですよ。浪人は出来ないんです。これからは興味のない大学に行って、興味のない仕事をしていくんだと思うと…」
ハッとする。喋りすぎた。見知らぬ人間にベラベラと自分語りして、気色悪いな、俺。
「わかりますよ、気持ち。将来を悲観して憂鬱になること、ありますよね」
驚くほど優しい声だった。
「大丈夫ですよ、きっといいことあります。だって、貴方はー人じゃないから」
優しいだけじゃない、彼女はずっと、どこか寂しそうだった。
「ハハ…ありがとうございます。それなら、貴方も大丈夫でしょう?一人ぼっちの人間なんていませんから」
上手いこと言ったつもりだった。
「…ありがとう。名前、聞いてもいいですか?」
「古川悠です。貴方は?」
「永久。神楽永久です」
軽く談笑した。しばらく喋っていて、同い年だと判明した。第一印象とは違って、よく笑う子だった。俺のどんな愚痴も永久は親身になって聞いてくれて、憂鬱だった気分も少し晴れるようだった。ただ、合間合間に見せる彼女の切なげな表情が、ずっと気になっていた。
「もう、ここには来ない方がいいかも」
最後に彼女はそう言った。その時、俺はあまり深く考えずにその場を後にした。会話の余韻に浸っていたかった。
次の日、起きた途端、何か違和感を感じた。何と言っていいかよくわからないが、強い"既視感"のようなものを感じたのだ。
とりあえずリビングに向かう。母親が俺に声をかけた。
「いよいよ明日だね」
腸が煮えくり返った。現実逃避のつもりだろうか。流石に趣味が悪いと思った。
口論になるが、どうも話が合わない。
カレンダーを見ると、三月九日。
今日は、"昨日"だった。不合格のショックで頭がおかしくなったんだろうか。混乱する中で、ふと彼女の言葉が思い出される。
「もう、ここには来ない方がいいかも」
ひょっとすると、永久は何か知っているのかもしれない。何の確証もなかった。だが、俺は藁にも縋る思いで、再びあの公園へ赴く。
ベンチには、永久の姿があった。彼女の表情を見た瞬間、疑念は確信へ変わる。
「…なんだよ、人の顔見るなり泣きそうになりやがって」
「ごめんなさい… "明日"から来たんだよね、悠」
永久は俺に打ち明けた。どうやら、彼女と関わった人間はその日、彼女自身と共に"明日"ではなく、"昨日"に行ってしまうらしい。
この"関わる"の判定が絶妙で、お互いをはっきりと認識し、向き合うことが条件。つまり、道端でたまたま目が合った程度では発動せず、逆に目を合わせず会話もしなくても、互いの心の持ちようによっては発動してしまう。
初対面時の彼女の様子に合点がいく。
「1年半…ぐらい前かな。急にこんな体質になっちゃってさ。高校も中退して、家からも追い出されて 今は家族から仕送り貰いつつ、何もせず一人暮らしって感じかな。当然だよね、こんなのと共同生活してたら皆未来に進めないもん」
永久は明らかに無理に笑っていた。俺はひたすら、"明日"の自分を悔いた。一人ぼっちの人間なんていない?目の前の彼女はもう、天涯孤独が確定したような境遇だというのに。
「本当にごめんね…この時点でもう、悠は明日には進めない。更に昨日に戻っちゃうことになる。だから、もうここには来ないで」
今にも泣き出しそうな永久を見て、俺は居た堪れなくなった。何とか彼女を救う手立てはないものかー
「あ」
ここで俺は名案を思い付く。彼女だけでなく、自分自身も救うことが出来る、画期的な作戦を。
「永久、毎日会おう」
「は…?何言ってるの?それじゃあ貴方は…」
「過去に戻って、未来を変えるんだ。受験失敗って事実を、なかったことにしてやる」
それから、不合格だったデッサンの実技試験当日、一月三十一日まで、永久と一緒に過ごす時間は続いた。周囲は、試験は終わっているにも関わらず狂ったように練習を始めた俺をさぞ怪訝に思っていただろう。1日ずつ過去へ戻っていくこの日々では、俺の理解者は永久だけだったし、永久の理解者も俺だけだっただろう。
彼女は俺の絵を酷く気に入ったようだった。最初はお世辞かと思ったが、本心だということは日を追うにつれて嫌でもわかった。心強かった。自信になった。
何度か彼女をモデルにしたこともあった。ポーズは変えていても、表情はいつも一緒。
「いっつも照れ笑いだな、お前」
「悪い?ジロジロ見られるなんて慣れないの」
軽口ならいつも叩くが、「綺麗だ」とは一度も言えなかった。俺も照れくさかったんだ。
過去に戻り続ける都合上、描いた絵は残らない。それでも、関係なかった。努力は俺に残るし、思い出は二人に残るのだから。
一月三十一日、受験当日。俺は永久にしばしの別れを告げた。結果を見れなければ意味がないからだ。
それから三月十日までの間、俺はずっと奇妙な感覚に陥っていた。合否を知りたい気持ちより、永久に会いたい気持ちが勝っていたのだ。確かに彼女を救いたい気持ちもあったが、俺の本命は受験だった。そのためにわざわざ過去へ戻って、やり直したのだ。それなのに俺の足は、気を抜いたら勝手にまたあの公園に向かってしまいそうだった。
迎えた二度目の三月十日。封筒を切った瞬間、待ち望んでいた二文字が目に飛び込む。
「合格」
母親は泣いて喜んでくれた。俺は、永久に結果を報告したくて仕方なかった。しかし、俺は考えてしまう。
永久に会うということは、また"昨日"に戻ってしまうということ。再び彼女に会った時、もうこれきりでさようなら、と言えるだろうか。歯止めが利くだろうか。なんの意味もなく、また過去へ戻っていってしまうのではないだろうか。俺は、怖くなった。
何故こんな簡単なことをこれまで考えなかったのだろうか。彼女と一緒に、未来へ進んでいくことは不可能なのだ。彼女に触れた瞬間、俺に明日はないのだ。
俺は、二度と彼女に会わないと決めた。次会ったら、気持ちを抑えられる自信がなかった。
夢を叶えるために、未来へ進むことを選んだ。
それから十年の月日が経った。
「良い絵だ… これ、買わせて頂きます」
「あっありがとうございます!」
俺はしがない画家になった。最近ようやく世間に認められてきたのを実感する。絵を仕事にするのは、昔からの夢だった。それを叶えた今は、まさに理想の生活をしているはずだ。
ーだが、俺の心には穴が空いていた。絵を賞賛されても、どこか満たされなかった。本当に絵を見せたい相手は、そこにいなかったから。
俺は、十年ぶりにあの公園に向かった。ほんの気まぐれだった。期待なんて、していなかった。
ベンチには、先客がいた。彼女の姿があった。当然、当時のままの容姿ではなかったが、一瞬でわかった。永久が、そこにいた。
俺の姿を見た途端、彼女は立ち上がり、駆け出そうとする。
「ー永久!!」
振り返った彼女の顔は、涙で濡れていた。
「…どうして…?」
「…座ってくれ。話したいんだ。謝りたいんだ…!」
十年前のあの日のように、二人揃ってベンチに腰を下ろす。
「…謝ることなんて何もないよ。貴方の判断は当たり前のこと。受験当日、別れたあの瞬間からとっくに覚悟してた」
永久は淡々と話す。
「悠と会う前にもね、いたんだ。私の体質を使って過去をやり直したいって人たち。皆、目的を果たしたら何も言わずに私の前から消えたよ」
「…永久にとって、その人たちと俺って同じようなものか?」
俺は何を聞いているんだ。この期に及んで彼女の特別になりたいのか。どこまで身勝手なんだろうな、俺は。
でも彼女は、俺が望んでいた言葉をかけてくれる。
「ーううん、好きだったよ、悠。大好きだった。
知ってる?私ってさ、以前は別に公園に毎日通ったりしてなかったんだよ。一度目の三月十日、初めて会ったあの日はね、本当にたまたまだったんだ。
あの日、もうここには来ない方がいいかも、って言ったんだよ、私。それなのに次の"昨日"、なんか期待してさ、同じ場所、ここにわざわざ行って… ほんと…バカだな。
でも、悠もバカだよ。本当に来るんだもん。それに毎日会おう、なんて…
本当に毎日毎日さ、どうしてあんなに優しかったの。どうしてあんなに素敵な絵を描くの。どうして、どうして、どうして…!!
…期待しちゃったんだ…悠なら、悠なら来てくれるかもって…あれから毎日、ずっとここに座ってたんだよ、私。
どうせならもう、このまま裏切ってほしかったよ…!どうして来たの、どうして夢を見せるの、どうしてっ…!!」
どうして、と繰り返す彼女を前に、俺は何も言えなかった。言わないといけないのに、言葉が、出てこない。
しばらくして、永久は落ち着いた。
「…ごめんね、全部私の身勝手。悠はもう、ここには来ないで。私ももう、ここには来ない。
終わりにしよう。貴方の、未来のために」
「…俺さ、画家になったよ」
「ーおめでとう」
「永久と繰り返した日々のおかげで、未来は変わったんだ。あの時合格出来たんだよ、俺」
「…ずっと気になってた」
「あの時は楽しかったな、何描いても褒めてくれて、絵描き冥利に尽きたって言うかさ」
「…やめて」
「そうそう、モデルになった時のお前、いっつも照れ笑いでー…」
「やめて!!」
永久の悲痛な叫びが響く。俺は怯まない。怯むわけには、いかない。
「もうやめて…!そんな話をして何になるの…!?私たちはもう終わりなの!終わらせないといけないの!!」
「そうだな。こんな話しても何にもならない。俺もせっかく画家になれたんだから、こっから精進してかなきゃならない。
ーでもさ、出来ないんだ」
今度は永久が、何も言えず固まる。
「どんなに褒められても、絵が売れても、足りないんだ。この先の…未来のことが考えられないんだ。
気付けばいつも…お前を想ってる。あの三月十日から一月三十一日まで、お前と一緒に遡った日々が…俺は忘れられない。
もう…どうしようもないんだ。
好きなんだ、大好きなんだよ…!永久…!!」
おかしいな、崩れ落ちているのは俺なのに、永久と目が合う。
「…駄目だよ、悠… 私なんかじゃ…貴方と生きていけない」
台詞と表情が合ってないな、彼女の顔は、見慣れた照れ笑いだ。
「一緒に…年を重ねられないよ」
「しわくちゃにならずに済むじゃないか。二人揃ってピチピチのクソガキになればいい」
「結婚も…出来ない」
「それがどうした」
「赤ちゃんも…出来ないよ」
「構わないさ」
二人で進む"昨日"は紛れもなく二人の"未来"であると、俺たちは信じた。