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9.攻撃してこない相手には




 猿に似た獣は、やはり、猿でいうならば肩口の辺りに、縫い目らしいものがあった。ティア=アンはしゃがみこんで、その獣の死骸を観察している。縫い目は解れていた。ティア=アンがつきだしたたいまつがあたり、糸みたいなものが燃えたのだ。というか、溶けた。

 それが急所だったようで、獣は倒れ、しばらく痙攣してから死んだ。

 手の指はみっつで、鋭い爪がついている。やけに豪華な指環を、ひとつだけつけていた。

 足の指はよっつ。鳥の足に似ていた。前に三本、後ろに一本指があるのだ。そちらも、鋭い爪がついている。おそらく、これで得物をひっかけ、殺すのだと思う。あの糸みたいなものは、なんだったのだろう。

 ティア=アンはたいまつの火を近付けて、半分以上溶けてしまった糸みたいなものを見た。それはかすかに光っていて、絹糸に似ている。誰かが縫ったみたいに見えるけれど、こういう生きものなのだろう。犬や猫だって人間を見て、しっぽは切りおとしてしまったのかな、と考えているかもしれない。


 ティア=アンは、自分はなにに関しても専門家ではないし、勉強は得意ではないと自覚していた。だから、見たものを見たまま受け容れた。これは、こういう生きものなのだ、と。どうしてこんな格好をしているのかなんて、どうでもいいのだ、と。

 獣がどんな格好をしていようと、襲ってくるのなら、ティア=アンの味方ではない。ティア=アンは、よくしてくれたひとには恩を返そうと思うし、なにもしてくれない相手でも困っていれば助けたい。だが、攻撃してくる相手によくしようとは思わない。

 ティア=アンは頷いて、立ち上がった。相手は大型の獣だし、豚や牛のように脂をとれれば、たいまつがもっと()つかもしれない、と思ったけれど、時間がかかりそうだからやめにした。彼女は息を整えて、歩き出す。また、あれが来たら、燃やせばいい。大勢来たら、どうしようか。




 大勢来ることはなかった。ひらけた、鍾筍や鍾乳石の沢山あるその場所には、舌にまといつくような不快な味の水が流れる細い川があり、多くの横穴があり、あの獣が複数潜んでいた。どうやら、横穴のなかや鍾筍のすきまなどのくらがりにいて、傍を通りかかったものを襲うらしい。指や手首足首に、宝飾品をつけているから、人間を襲ってそういうものを奪っているのだろう。そんな習性についても、ティア=アンは考えて、推察した。だから、自分よりも前に、こうやってここを歩いた人間が居る筈だ。

 落下で死なず、ティア=アンのように脱出を試みた娘が、居た。或いは、男性かもしれない。あの場の死体は、見たところ娘ばかりだったが、だからといってこれまで男がここへはいらなかったという証左はない。


 三匹目も、うまくあの糸らしきものを焼いて殺し、ティア=アンは小首を傾げた。何度も々々たいまつを武器にしてきた所為で、たいまつがとうとう折れてしまったのだ。

 彼女は帯にはさんでいたたいまつをとりだし、折れたけれどまだ火のついているたいまつから、そちらへ火を移した。火はそのままに、移動する。あの獣は火をいやがるようだし、うろちょろされて面倒だったから、いやがらせだ。

 ティア=アンは歩きながら、不思議に恐怖がうすれているのに気付く。何故だかわからないけれど、もうあまりこわくはなかった。目的がはっきりしていて、なおかつ自分でどうにかするしかないからかもしれない。こわいとかなんとか、泣き言をいって、空想にふけっている場合では、ない。

 誰かに強制された訳ではないし、失敗しても痛いのは自分だけだ。そう考えたら、尚更、こわさが減っていく。

 周囲を照らしながら、慎重に移動していた彼女は、ふと足を停めた。妙なものを見付けたからだ。

 柱のような石が林立しているなかで、それは異質だった。

 まるみを帯びた正方形の石がある。

 その石は、上部にくぼみがあった。まるで、さいころのように。






 その、『一の目のさいころ』のような石の傍には、横穴があった。これまで見付けた横穴のなかで、一番小さい。小柄なティア=アンなら簡単にぬけられるが、あの獣にはつらいかもしれない。

 ティア=アンは寸の間考え、そこへはいることにした。どうせ、導いてくれるものはない。なら、祖父の言葉を信じよう。困った時には数え歌を思い出せばいい。どうしたらいいかわかる。

 ホーが、困った時に開けてといっていた巾着には、とても役に立つものがはいっていた。あれのおかげで、こうやって探索もできている。なら、祖父のあの言葉も、なにかの役に立つかもしれない。

 ティア=アンは考えこみすぎる性質(たち)がある。けれどそれは、疑り深いのとは違った。彼女は、物事を疑ってかかるのではない。ただ、考えこんでしまうだけだ。


 横穴はせまく、はじめティア=アンは、しゃがみこんでじりじりとすすんでいった。床面が濡れていて滑りやすく、彼女は豪華な短剣をぬいて、壁の途中々々にあるくぼみへ突き立てるようにし、転ばないように、また、推進力の足しにした。壁は、鍾乳石か、鍾筍が、まとまってしまったものらしい。だから、でこぼこは沢山あり、短剣がひっかかる場所も幾らでも見付かった。しばらくすすむと道は上下にひろくなり、段々と左右にもひろくなっていった。

 そしてすぐに、分かれ道になった。道が交差している。ティア=アンはたいまつで、自分が来た以外の道をてらした。目一杯腕を伸ばし、そうした。

 そして、まっすぐを選んだ。左はひろく、歩きやすそうだったし、右はせまいけれど坂になっていて、上へと向かえそうだ。

 残りのひとつ、ティア=アンが選んだ道は、少し曲がっていて、奥は見えない。ふたり並んで歩くくらいはできるひろさで、天井は低めだった。

 その道の、入り口すぐ傍には、二本の鍾筍があった。その鍾筍は、不思議な形をしていた。二本の鍾筍の間に、布のように石ができている。たいまつを掲げてそれを見た瞬間、どうしてこんなところに布が、と思った程、それは布に見えた。

 どうしてそんな形状になるのかは知らないし、深く考えることもない。ティア=アンはただ、数え歌の通りにその道を選んだ。それ以外に理由はない。そもそもほかの道にしたって、これがいいという決め手はない。なら、覚えていられそうな道にするだけだ。もしいきどまりなどですすめなくなったら、戻る必要があるのだから。

 ぶつぶつと数え歌を口ずさみながら、しばらくすすんだ彼女は、物音と気配に振り向いた。思索にふける癖のある彼女だけれど、感覚は鋭かった。鈍い、といわれ続け、当人も知らなかったが、過敏なくらいに物音や気配を感じるのだ。だからこそ、些細なことで恐怖するのに、誰もそれをわかっていなかった。鋭いのではなく、頭が悪くて鈍いから、なんでもおそれるのだと思われていた。

 ティア=アンにはそれはどうでもいいことだろう。彼女は実際的な人間だった。劣等感の塊で、なにもかも自分より(まさ)っているように思えて情けないけれど、できることをできるだけする人間だった。できないことはできないのだときちんと判断できる人間でもあった。

 彼女が目視したのは、ぬめぬめと光る、棒のようなものだった。それはチョークチェリー色をしている。耳が、ぶぶぶ、と、耳障りな音を捉える。

 ティア=アンはとっさに、右手に持ったままだった短剣を、ぱっとふりあげた。

 流石、王家が職人につくらせたものだ。宝石まみれの装飾過多な短剣であっても、切れ味は素晴らしい。

 ぽとりと、棒のようなものが落ち、はらはらと、紙のようなものが落ちた。続いて、じたばたと空中であがいている、人間の上半身ほどもあるような虫が、落ちた。

 ティア=アンが落とし損ねた肢で、虫は動いている。羽根も一部、切れて落ちていた。こちらへ来ようとしているらしいと気付いて、ティア=アンはもう一度、短剣を振った。びしゃっと、茶色っぽい、液体に固体のまざった体液がふきだす。顔らしきところをまっぷたつにされた虫は、もう動かなかった。

 ティア=アンは目にはいった体液を指で拭い、袖で顔を拭いた。巨大な虫の体液は、脂っこく、拭っても完全には拭いきれなかった。




 虫は一匹だけでなく、時折飛んできた。どうやらティア=アンをかじろうとしているらしいので、彼女はそいつらを敵と認識し、短剣を振りまわした。特にあてようと考えているのでもない。短剣はおそろしく切れ味がよく、振りまわしていると、近寄ってきた虫は勝手に切れる。べたべたが体へ降りかかったり、短剣へ残るので、迷惑だった。なにか吐きかけられることもある。

 飛ばず、跳ねる虫も居た。飛ぶのと色が違うが、見た目は似ている。そちらは青かった。それもティア=アンを攻撃してくるので、彼女はやっぱり反撃した。攻撃してこないのならなにもしないし、お互い平和にすごせるのに、虫達はあの猿もどきの獣同様、好戦的だ。殺されそうになって黙っているほど、ティア=アンもばかではない。あまり楽しくはないけれど、生きていく為だし、彼女は攻撃的な虫達を仕方なく殺した。次第に慣れてきて、急所らしきところもわかったから、成る丈そこを狙うようにした。短剣だって消耗品だ。つかい続ければ劣化していく。いざという時つかえないでは困るから、成る丈無駄に消耗しないようにした。


 短剣がべたついてきたので、じりじりと近付いてきた跳ねる虫を、ティア=アンは踏みつける。案外、そいつの()()()は頑丈らしい。それともティア=アンの体重が軽すぎるのだろうか。さして困った様子もなく、虫は彼女の脚へ嚙みついた。

 びりりと痛みが走ったが、ティア=アンは短剣を逆手に持ちかえ、彼女の脚へ嚙みついて肉をむしりとろうとしている虫の、脳天へ、ずぶりと刺した。

 すぐに虫の力がぬけ、鋭い歯がはなれていく。ティア=アンはそこへ座りこみ、脚を見た。靴下が破け、左脚のふくらはぎに、くっきりと歯形がついていた。血がにじんでいる。ティア=アンは、頑張って略奪したことを思い出し、ほっとした。憐れな娘達から奪いとった下着は、まだ数枚残っている。彼女はそれを一枚裂いて、足へまきつけ、縛った。虫から短剣をぬいて、立ち上がり、痛む脚をひきずって歩く。

 恐怖はまた、うすれていた。猿もどきについで、巨大虫もなんとかできている。怪我をして痛いけれど、動けない程でもない。

 なにより、自分で考えて、自分で動ける。

 誰かが、ティア=アンになにも知らせずに決めた行程では、ない。

 ティア=アンが自分で決め、自分でやっていることだ。

 失敗したって、誰も彼女を咎めない。失敗したら、誰も、彼女がこんな苦労をしたことさえ知らずに終わるのだから。






 時間が経つと、脚の痛みはひいた。まだ鈍痛が残っているが、それだけだ。毒などはなかったらしい。傷口を汚くしていたら、酷いことになるかもしれないが、なったらなっただ。清潔な水などないのだから、洗うこともできない。薬もないのだから、()むことを心配しなくていい。

 段々とせまくなっていた道の奥には、川があった。這い寄ってきた虫を殺し、ここで洗おうか、と考えて、ティア=アンはしゃがみこみ、水に手を浸す。短剣を持ったままだ。どうせ、虫の体液で、切れ味が落ちている。

 流れる水に、短剣にわだかまった体液が、じわじわと溶けていった。指先につけて水を舐めてみると、あの不快な味がする。飲むのは難しそうだが、短剣は見る間に綺麗になった。

 度重なる格闘で裂けてしまったガウンの裾で、短剣を拭い、ティア=アンは川の流れを眺めた。どこかに光源があるらしく、川面が孔雀緑にきらきらと光り、その反射でかなりの範囲を見ることができる。

 川はかなり、深そうだ。流れも速い。泳いで渡るのは難しい。荷物を置いていくのはいやだった。せめて、菓子と水だけでも持っていきたい。だが、この水はべたべたするし、荷物を持ったままはいったら、後で大変なことになるだろう。かといって、例えば荷物を頭に載せるようにして泳ぐ技術は、ティア=アンにはない。

 飛び石、というか、岩があって、それが足場になりそうではある。ただ、飛び移っていくのは、ティア=アンの運動能力では、ぎりぎりできるかどうかだった。できない、とはいえないが、確実にできるともいえない。

 だが、正しい道に思えた。

 足場になりそうな石はみっつ。ティア=アンが、シーズン中に都で見た兵達の持つ、盾の形に似ている。おまけに、鳥に似た形状の石が、その上にご丁寧に置いてあった。




 気配がして、ティア=アンは顔をあげた。

 来た道へたいまつを向けると、のそのそと、なにかが動いている。こちらへ来ているらしい。

 黒っぽい、なにかだ。大きめの猫くらいで、ぬらぬらと光っている。

 短い手足に、羽根らしきものがあった。大きな蝙蝠だろうか、と思ったが、それにしては、井守のような質感の肌だ。

 尻尾がある。大きな頭もある。羽の生えた井守は、のたのたとやってきて、ティア=アンの傍にある虫の死骸をいじった。目らしきものがあるのだが、数が多かった。ティア=アンに見える限りでは、むっつある。

 そいつは口を開けた。びっしりと、細かい牙が生えている。それだけでなく、大きな牙も数本あった。よくよく見てみれば、鉤爪といい、先の尖った尾といい、おそろしげな見た目だった。

 だが、そいつは、ティア=アンと敵対する意思はないらしい。虫の死骸にかじりついただけだった。しかし、やはりあの()()()はかなり頑丈らしく、ふしゅふしゅと鼻から息を吹いて、難儀している。鉤爪はあるものの小さな手で、虫の脚をひきちぎり、つまらなそうにかじっていた。

 丁度、川の水で綺麗になった短剣で、ティア=アンは虫を切った。どこに関節があるか、どの辺りがうすいかも、大体わかっていたから、簡単そうなところを切ったのだ。

 まっぷたつになった虫を、黒いやつへおしやってみる。そいつはティア=アンを見たが、すぐに虫の死骸へ目を戻し、嬉しそうに中身をすすりはじめた。手足が短く、不格好だが、好戦的ではない。なら、敵ではない。


 ティア=アンはもう一度、短剣を洗い、裾で拭ってから、鞘へ戻した。荷物をしっかりと、体へ結びつけ直す。ガウンの裾をからげ、腰の辺りで結んだ。失敗したら、その時だ。貴重な木材を筏にするなんてばかなことはできないし、縄の類もないから向こう岸にかけるなんて芸当もできない。

 かすかな音に目を遣ると、黒いやつがティア=アンを見て、笛のような声をたてていた。甲高い音だ。そいつは顔を拭い、虫のもう半分を見た。ティア=アンは微笑んで、それも、そいつへおしやった。「いいよ。あげる」

 黒いやつは嬉しそうに、そちらも食べはじめる。

 ティア=アンは深呼吸してから、数歩下がり、勢いをつけて跳びあがった。


 ぎりぎりだったが、飛び移ることができた。ティア=アンは勢いのまま、すぐに次の岩へ移る。途中で停まったら勢いが足りなくなるのはわかっていた。だから、休まずに渡りきり、三つ目の岩から反対側の岸へ向かって、ティア=アンは思い切り跳んだ。

 ひとにああしろこうしろといわれてするのは苦手なのに、自分で考えてするのならば、そう緊張しないし、こわくもない。

 向こう岸へ倒れ込んで、ころころと転がり、ティア=アンは小さく笑った。また、命を拾った、と思って。

 それが嬉しいのか嬉しくないのか、自分でもいまいちわからないが、心臓は嬉しそうにとくとくと動いていた。






 向こう岸は、坂道に通じていた。下へと向かうものだ。やっぱり間違いだったんだろうか、と少しだけ怯えたけれど、結局ティア=アンは、そこを下った。ほかに道がなかったのだ。

 その道には、ところどころで、また、獣や虫が待ち構えていた。といっても、あの猿もどきや、飛んだり跳ねたりするやつではない。


 獣は、犬に似ていた。目はひとつだったりみっつだったり、とにかく奇数で、まんまる、大きい。顔のほとんどが目で埋まっていた。口は妙な位置についていて、釘のような歯がびっしり生えている。白っぽい、短い毛が、びっしり生えていて、尾がぼんやり光っていた。どういう仕組みかは知らないが、蛍だって光るのだ。犬みたいな獣の尾が光っても、誰も困りはすまい。

 その犬もどきは、ティア=アンよりも余程大きい。しかし、大人しいらしい。坂の途中々々に座りこんでいるのだが、彼女が通りかかると、びくっとして姿勢を正した。攻撃してくる気配はない。たまに、ぐうぐうと鳴いてくるやつは居たが、それは攻撃というよりも、命乞いをしているように見えた。ティア=アンのなにかがこわいのだろう。

 犬もどきは、そんなふうに大人しいので、無視していればよかった。あちらも、ティア=アンなど気にしなければいい。実際、しばらくすると、犬もどきもティア=アンは脅威ではないとわかったか、姿勢を正すまではするものの、ぐうぐう鳴くのは少なくなった。

 問題は、虫だ。

 先程まで煩わされた羽虫ではない。脚のない百足が大きくなったようなものと、蛭を巨大にして短くしたようなものが出てくる。

 脚のない百足は、ティア=アンの倍くらいの長さがあるだろう。水色をしていて、口からぼたぼたと汁をこぼしながらやってくる。動きは百足に似ておらず、縛られでもして手足が自由にならない人間のように見えた。こいつは飛びかかってくるのが厄介で、ティア=アンは何度もぶつかられ、その場へ転がった。坂なのでそのまま少し下まで行ってしまうし、結構痛いのだが、素直に転がるからまだなんとかなっているのかもしれない。そいつにも、ティア=アンは複数回、短剣をお見舞いした。突き通るかわからなかったので、先の尖った形状のものをだ。数回刺すと、緑っぽい体液をこぼしながら死ぬ。

 蛭みたいなものも、やっぱり、手足を縛られた人間のような、妙な動きをした。そちらは口を開けて、嚙みつこうとしてくる。刺しても切ってもぐにゃぐにゃとして、刃が通りづらいので、一番難儀した。あまり重たくはないので、短剣を突き刺し、その状態で地面へ叩きつけるのが、かなりきいた。そうすると、蛭もどきはぐったりする。ただ、こちらは血みたいなものを流すので、正直にいって気味が悪かったし、殺すのはいやだった。




 坂が終わった、と思ったら、また、水辺にでた。黒っぽい川が流れている。苔むした、道のようなところが見える。それは坂に対して、直角になっていた。右へ行くか左へ行くか、考えながら荷物を解いて、菓子箱をとりだす。また、あの虫がやってきた。百足みたいなやつだ。

 ティア=アンは疲れていたし、空腹だった。だから、少しだけ菓子を食べようとしていたのだ。短剣は持っておらず、一瞬すきができた。それで、彼女は、そいつに組み付かれた。

 上腕へ嚙みつかれたのとほとんど同時に、短剣をぬいてそいつへつきさした。そして、なにかが飛んできて、百足もどきへぶつかった。百足もどきはティア=アンからはなれ、川へ落ちた。ざばざばと泳いでいるが、流されていく。

 ティア=アンは、酷く痛む上腕をおさえ、飛んできたものを見た。

 あの、黒いやつだ。そいつはティア=アンを見て、ふしゅふしゅと、鼻から息を吐いた。




 ティア=アンについていったら、虫を食べられると思ったのかもしれない。とにかく、そいつに助けられたので、ティア=アンは礼をいい、砂糖菓子をひと欠片与えてみた。口へいれたものの、いやそうな顔をして吐き出している。勿体ないことをしたが、命の恩人だ。これくらいはいい。

 ティア=アンは、自分も砂糖菓子を口へ含み、坂から下りきったところでまるくなっていた。動きたいが、動けない。百足もどきに嚙まれた上腕が、火の玉みたいに熱い。痛くて、痺れていて、つらい。病になって、酷い熱を出した時のよう……ああ、いやだ……。

 ぺたりと、つめたいものが、そこへ触れた。ティア=アンは、痛くて、嚙まれた腕を上にしていた。それに、あの黒いやつが、触っている。食べるつもりかもしれない。

 ティア=アンは短剣をぬこうとしたけれど、もうどうしようもなかった。ただ、黙って、呼吸をしようととにかく試みた。息が苦しい。咽が詰まる。うでがあつい。




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