8.祖父の繰り返す言葉は
祖父はひゅうひゅうと、咽に絡むような呼吸をしている。まるで、埃を胸いっぱいに吸い込んだような音だ。時折酷い咳をして、痰を吐いた。息の切れるようなおそろしい咳で、ティア=アンはその度に震える。
埃をたっぷり吸い込んだような呼吸だけでも、ティア=アンはとても、不安になる。今しも祖父が呼吸を停め、命がその体からぬけだしていってしまうのではないかと、おそろしくなる。どうして自分がここに居るのだろうと、そう思う。
いつものことだ。祖母の時も彼女だった。父はシーズンで、都へ行っている。妹達と母もそうだ。ティア=アンもそうだったが、祖母が急に具合を悪くしたと、ティア=アンだけ呼び戻された。
祖父が命じたのだ。めしつかいの看病をいやがることのある祖母の為に、ティア=アンや妹達が求められた。妹達は、舞踏会のお誘いが沢山あって、それを反故にするのは相手の貴族に大変失礼だからと、ティア=アンだけが戻った。彼女は文句をいわなかった。どうせ、都に居たって、壁の花でいるだけだ。ごく稀に踊りを申し込まれることはあったけれど、半分くらいは興味本位だろう。もう半分は、若ければ誰でもいい貴公子だ。実際ティア=アンには、ある貴族の後添いになる話があった。幾ら厄介払いできるとしても、流石に外聞を考えたようで、両親がそれを断ったが。
祖母はティア=アンに、なにかといいつけた。水をほしがり、砂糖の塊をほしがり、やわらかく煮たパン粥をほしがり、りんご酒で煮た桃をほしがった。小鳥のぬいぐるみや、やわらかい縫いたてのタオル、綺麗な淡い桃色の敷布をほしがった。
ティア=アンはそれらをすべて用意した。めしつかいがつくったものを尋常ではなくいやがる祖母の為に、ティア=アンが厨に立って、また裁縫質へ行って、めしつかいに教えを請うた。そうすることにティア=アンはなんの屈辱も覚えなかった。自分がのろまだとわかっているから、他人に教えを請うことをはじと思わなかったのだ。
ティア=アンは腕中に火傷をつくりながら、慣れない料理をした。指を針で突き刺し、何本も折り曲げながら、裁縫をした。シーズン中でよかったと安心していたものだ。そんなことをしたのが露見したら、母にどんなお叱言をもらうかわからない。めしつかい達には口止めしたが、しなくても彼らはなにも喋らなかったろう。ティア=アンにめしつかいのする仕事をさせたなど、母が知ったらめしつかい達をまるごと解雇しかねない。めしつかいのように自分で料理や裁縫をする姉など、美人で聡明な妹達には必要ないからだ。手仕事はめしつかいのするもので、貴族のするものではない。令嬢達がする、実用性はさほどない刺繍やレースあみなどは、『手仕事』にははいらない。あれは趣味や教養で、金の為にあくせく働くのとは違う、と、ほとんどの上流階級がそう考えている。
ティア=アンとめしつかい達は、ある部分においては共犯関係だった。ティア=アンの火傷も針での刺し傷も、めしつかい達は黙って治療してくれたし、ティア=アンもそれに礼をいった。母から隠してくれようとしたのだから、礼をいうしかない。ティア=アンは祖母の要望に応えようと必死だっただけで、それが両親を怒らせるだろうことには、かなり後になってから気付いた。やってしまったことは消せないのだから、糊塗するしかない。それには、めしつかい達の協力は、欠かせないものだ。
祖母は次第に、体に触れるのもティア=アンだけにさせるようになった。ティア=アンはすっかり小さく、軽くなった祖母の体をふき、用足しの世話をした。色白の祖母は、死の床にあってもそうだった。滑らかで、やわらかい、白粉の匂いが染みついた、とても綺麗な肌をしていた。
段々と、呼吸が停まっては医師を呼んで、命を呼び戻すようになった。祖母は最後の数日間、意識もあまりなく、粗相を頻繁にしていたので、それだけは大変だった。だが、意識はないから、めしつかい達にも手伝ってもらえた。
ティア=アンはただ、祖母が快適にすごせるようにしていた。特に理由はない。幼い頃から傍に居たひとだし、祖母からいじわるをされた覚えはなかったから、精一杯よくしようと努めた。それだけの話だ。
本当に最後の最後、祖母の寝台の傍へ置いた椅子で、うたた寝していたティア=アンは、祖父が哀しそうな目で祖母を見ているのに気付いた。祖父は目を瞑った祖母の口許へ耳を寄せ、何度か頷いて、祖母の手を握り、わかったから安心していい、といっていた。
その直後、祖母は呼吸を停め、医師を呼んだが、今度はもうだめだった。
シーズンがまだ終わっていなかったから、葬儀は祖父とティア=アンのふたり、それに司祭だけで行った。すべてが終わって、祖母がお墓へはいったあとに、父母と妹達が戻ってきた。
祖父の番になって、シーズンが終わっても、やっぱり祖父の相手をするのはティア=アンだけだった。妹達も祖父を気にしてはいるのだが、母がそんなことはしなくていいというのだ。祖父がティア=アンを呼びつけ、本を読ませたがるのだから、ティア=アンにさせておけばいいと。
ティア=アンは、埃だらけのような呼吸音を聴きながら、本を開く。祖父の傍に居るのは、この頃、こわかった。祖父は不意に、数え歌を喚き出すのだ。ティア=アンはそれを覚えてしまった。子どもの頃に覚えたものよりも先があるのは知らなかったが、その部分も簡単な節回しで、すぐに頭に定着してしまった。何度も々々祖父が喚くのだ。
口数が多い訳ではないけれど、聡明さを感じさせる語り口をしていた祖父が、数え歌という子どもでも知っているようなものを大切そうに歌っているというのに、無常を覚えた。有為転変を感じさせた。いずれ誰しもがこのようになるのかと考えると、むなしい。ふたりきりで、どうしてもそれを感じざるを得ない時間が、ティア=アンは好きではなかった。衰えた祖父の姿を見続けないといけないその時間を、彼女は嫌悪していた。
しおりをはさんでおいた頁を開き、ティア=アンは文章を読み上げようとして、祖父がこちらを見ているのに気付いた。自分に似た、濃い緑の瞳に、ティア=アンは怯えた。誰であっても、まっすぐに見詰められるのは、好きではない。不器量な自分を見られたくない。
祖父はもう老齢だけれど、背筋は伸びているし、肩も悪くはなかった。ティア=アンはそういう人間も、得意ではなかった。ひ弱で小柄で彼女は、壮健な体というものに非常にあこがれがあった。自分の持っていないもの、自分にないものをはっきりと思い知らされるのが、好きではない。それはきっと、誰だってそうだろう。仮に、体が弱くても、小柄でも、ほかに誇れるものがあれば、少しはこの劣等感もどうにかなったかもしれない。だがティア=アンにはなにもなかった。可愛らしい顔立ちも、聡明な頭脳も、勇気や胆力も、なにもない。彼女にとって、すべての人間が、自分のだめさを確認させる相手だった。比較して、自分のほうが勝っていたことがない。
体に問題がなくても、精神的にはなにかあるようだ。祖父の目付きは、それまでのものとは違った。
祖父は厳格で、ティア=アンにとっては厳しい相手だった。ティア=アンを避けようとしている節があった。親しもうとしていない雰囲気が。
だがその時は、祖父は、孫娘を見る目をしていた。妹達へ向けるような眼差しだった。かすかに親しみを覚え、ティア=アンは小首を傾げた。ありえない話だが、妹のどちらかととりちがえているのだろうか。そんなふうに思うくらい、祖父の視線は、なにかが違った。
戸惑うティア=アンへ、祖父は小さく、いった。困った時には、数え歌を思い出すんだ、と。どうすればいいかきっとわかるから。
ひゅっと息を吸い込み、ティア=アンは目を開けた。ごくっと、唾を嚥む。喘ぎながら、首、それから口許、頬、と、袖口で拭った。咽が痛くて、軽く咳をする。体中にじっとりと、汗をかいている。
目の前には、光の柱のようなものがあった。小さく呻いて、ティア=アンは上を向く。
裂け目から、光が降り注いでいる。細かい埃の粒子が、きらきらとかがやいている。それはまるで、絵物語のようだ。民の苦難を救う為、黒いドラゴンが舞い降りてくる場面を、思い出す。
ティア=アンは傍らを見て、たいまつが消えているのに気付いた。
たいまつ。木の枝。香り付きの水がひと壜。菓子は、確実に食べられるものが箱みっつ、汚れているが食べられそうなものもやはり箱みっつ、古いが大丈夫そうなものは箱よっつ。箱はそれぞれ、たいした大きさではないから、おなかがくちくなるまで食べていたらあっという間に底をつくだろう。
並べたとりあえずの所持品を見て、ティア=アンはじっと、考えこんでいる。菓子の箱は、それ自体大きくないし、たっぷり詰まっているのでもない。ティア=アンはあまり菓子へ触らないようにしながら、中身をまとめた。まったく綺麗なものはふた箱、汚れているものはひと箱、古い砂糖菓子は、形状の為に移し替えても蓋をできず、結局戻す。
砂糖菓子をひと欠片、口へ含んだ。
まだ持ちものがあったことを忘れていた。ひと粒で家の建つような真珠が大量にあしらわれた宝飾品と、王家へ嫁ぐ娘しか身につけられないような漆黒のガウンだ。誰も居ない山の穴へ放り込まれた娘には、ほとんど価値のないようなものだ。
けれど、ティア=アンは、砂糖菓子を口のなかで溶かしながら、考えこんでいた。脱出は最優先だけれど、脱出してからのことも考えないといけない。
カイは、こんなおそろしいことに関わってなどいない。それは確実だ。彼はそんな人間じゃない。
だが、王家のほかの面々、それに公爵達は、知っているようだった。信じたくないが、カレンも、官女達も、皆、共謀していたのだと思う。でなくば、あの場で誰かがとめるか、騒ぐか、どういうことなのかを訊いただろう。
ならば、ここから出ても、王家に見付かってしまったらだめだ。殺されるか、もう一度ここへつれてこられる。王家の犯罪の生き証人を、放免する訳はない。
ふと、ホーのことを思い出した。あの巾着、火打ち石と火打ち鉄をくれたホーを。彼女は、知っていたのだろう。知っていて、ティア=アンを助けようとしていた。結婚を思いとどまるように何度もいっていたのは、あれは、ティア=アンを死なせたくなくて、だろう。
であれば、あの官女達の言葉は、まったく別の意味だった訳だ。
花嫁、というのは、ここへ放り込まれ、殺される娘をさしていた。カレンがそれに相応しくない、というのは、カレンは殺されていい人間ではないという意味だろう。そして、ティア=アンが花嫁でよかったというのは、つまり、ティア=アンが犠牲になるのは当然だという意味だ。
ホーはあの言葉に怒りを見せた。ティア=アンを殺させまいとしてくれた。それに気付かなかった。
はっきりいってくれれば、と思ったが、それはホーに対して要求しすぎだろう。王族、それに高位の貴族達も関わっていたことだ。王家や、国の秘密である。ホーはそれを知っていても、気楽に口にする訳にいかない。ティア=アンが誰かに喋るかもしれない。ホーにとっては、王家は家族だし、公爵達も近い親族にあたる。その罪を暴くには、相当な勇気を必要とする。
それに、これは、王家の象徴である、黒いドラゴンに関わることかもしれない。
名誉を賜る、と、王太后がいっていた。この山は、黒いドラゴンにゆかりのある場所だ。そこへ、贅を極めた花嫁衣装を身につけた娘を放り込んだのだ。ただ愉快だからしているとか、特に意味のない行動ではあるまい。なんらかの儀式だと考えれば、おそらく数百年近くの長期に渡って続けられているのも頷ける。
例えば、王家と貴族との結束を高める為の行動だとか、なにかしらの決まりで数年ごとにここにひとを放り込まないといけないのだとしたら。
そしてそれが黒いドラゴンに関わりのあることだとしたら、ホーはそれを知っても、積極的には停められない。
黒いドラゴンは王家の象徴、そして玉座の正当性を担保する存在だ。ある種の神である。王家が王家である理由が、黒いドラゴンなのだ。この儀式を否定することは、ホーにとって、自分達の立場も揺るがすものだったのだろう。王家の存在そのものを疑うような行為だ。ならば、彼女は積極的には動けない。ティア=アンが死なないように、忠告をしに来てくれただけでも、ありがたいことだ。
ホーに対して、ティア=アンはあまり、負の感情を抱かなかった。寧ろ、自分の為にあんなに気を遣ってくれた、怒ってくれたことに、かすかに喜びを覚えた。そのように自分のことを考えてくれる、家族以外の誰かが存在している。それだけでも、よかった。
ティア=アンはまた、裂け目を仰いだ。遙か遠くだ。壁には手をかけられるようなところはなく、あったとしてもティア=アンには力がない。だから、上までのぼっていくことは試行錯誤もせず、というか、はじめから考えなかった。考えても無駄だ。
ティア=アンは深呼吸し、立ち上がった。それから、成る丈低いところをさがす。首尾よく、足をひっかけて転びそうなくぼみを見付けた。そこで彼女は、とりあえずの欲求をみたした。
武器も沢山落ちているのは、日光であらためてわかった。金属がきらきらとかがやいている。ティア=アンはそれらを扱う腕などないけれど、小刀くらいは持っておいたほうがいいと考えた。獣と戦うことは考えていない。しかし、刃ものがあれば植物を切ることはできる。この空間をどうにかぬけだした先に、植物や、もし木があれば、それを切ってたいまつにできる。
ティア=アンは、庭師達の仕事を見るのが好きだった。それに、庭師達のまねごともしていた。だから、木や蔓を切るのに向いていそうな刃の、小振りな剣を拾いあげ、腰へくくりつけた。さいわい、その剣には、細身の帯もついていたのだ。
剣は重たかった。鍔や鞘には、豪華な装飾が施されている。宝石もついていた。
ティア=アンは少し、考え、昨日外した宝冠を拾いあげた。帯をゆるめ、宝冠を通す。
それから彼女は、憐れな娘達を振り返る。
金髪の娘の睫毛が、どこかへと吹いてゆく風に揺れ、陽光できらきらしていた。
脱出した時、金に換えられるものが必要だ。ティア=アンはさいわい、沢山の真珠を持っていたが、それはあまりに価値が高すぎ、簡単には換金できない。解体してひと粒ずつ売るとしても、都の商人でないと相手をしてくれないだろう。そして、取引相手は絶対に、その真珠のでどころを気にする。
それと、彼女のガウンは、袖が破れていた。別の袖をつけないといけない。
それに、たいまつには、布が居る。
まず、散らばった宝飾品と武器を、持てる重さのものだけ拾い集めた。宝飾品は、ありとあらゆる宝石がつかわれていた。さしこんでくる陽光でわかる。妹達なら目の色をかえて飛びつくだろう。ティア=アンだって、くれるといわれたらもらった。
武器は重くて動かせないものも、宝石まみれで実用性に乏しいであろうものも、沢山あった。どれも相当値が張るだろうと、そういったものにうとい彼女でもわかった。
ふと、考える。どのような名目で、職人達にガウンや宝飾品をつくらせたのだろう、と。
この娘達は、王家へ嫁げるつもりでここにほうりこまれたのだろうか。
「……おたがい、のろまだったみたい」
ティア=アンは小さくいい、ひとりで笑った。ばかみたいだからだ。命のない娘達へ話しかけても、どうにもならない。それは逃避というもので、彼女のお得意だったが、しかし、好きな訳でもなかった。
死者を敬うのと、死者を頼みにするのとは、違う。
ティア=アンは小さく頷き、低声で謝罪してから、憐れな娘達の体から、宝飾品をとりはずしはじめた。帯へ通せるものは通し、耳飾りや首飾りなどはつけられるだけつけた。
持ち出せるものを持って脱出し、換金する。ティア=アンの持っている真珠は、売ったら、王族や貴族の誰かが気付くかもしれない。まだ記憶にあたらしいから、不意に大粒の真珠が出回れば、変に思うだろう。それに比べれば、ここにある古い宝飾品や武器なら、売り払っても気付かれにくい筈だ。特に、憐れにも骨になっている娘達の身につけているものなら、王家の人間でも見たことはないのではないか。
死体が身につけていたものだ、ということに、嫌悪感はない。死体から泥棒することには、わずかに嫌悪感があったが、生き延びる為だと結論した。ここから出て、宝飾品を金に換え、逃げる。王家から。或いは、この国から。
どうやって逃げるかなんて思い付かないけれど、ティア=アンはどこか冷静だった。逃げる方法はともかくとして、実際逃げるにはお金が必要だろうとは思っていた。どれだけの資金が居るのかはわからないから、持てるだけ持っていくしかない。人間は権力に弱いと、彼女は知っていた。自分が王子に求婚された途端、めしつかいや侍女達の態度がころりとかわったところも見た。権力に尻尾を振る人間が、権力のみを求めていることは稀だ。その権力に付随する贅沢をほしがっている。要するに、金を求めているのだ。金さえあれば、逃亡はきっと楽になる。
ティア=アンは黙々と、集められるだけ、宝飾品を集めた。もとから口数は少ないし、そこには喋る相手はない。相手のないことに不自由は感じなかった。誰も居ない情況で、不安だけれど、ティア=アンは自分で結論を出せることに、安堵していた。ほかの人間の速度に合わせるのが苦手な彼女にとって、ほかの人間が居ないここは、ある意味楽な環境だった。
宝飾品を集め終えると、気の毒な娘の下着を破りとって、たいまつをつくった。木の枝を、細いものは数本まとめて、綿地をまきつけたのだ。ここから出ていくのにどれだけの時間がかかるかわからない。明るいところへいつ出られるかわからない。たいまつは、幾らあっても足りなかった。
『略奪行為』は、ティア=アンの体を重くし、数時間で終わった。娘達は、豪華なガウンと宝飾品以外にも、細々したものを持っていた。刺繍が好きなのか、小さな道具箱に針と糸を持っていた娘や、あみかけのレースを握りしめていた娘、大切そうに、ただの銀の指環を両手で持っていた娘も居た。ティア=アンはまた謝って、小さな裁縫道具箱を奪いとった。
彼女は娘達の婚礼衣装をはぎとり、つくったばかりのたいまつと、自分のガウン数枚、落ちていた短剣ふたつ、裁縫道具箱、奪った靴を包んで、体へ結びつけた。破れた靴もだ。足には、娘達のひとりから盗んだ靴をはいている。袖も首尾よくあたらしいものにかえた。
その娘も相当に小柄だったと見え、靴はティア=アンにぴったりだった。そのことからティア=アンは、おそらく自分のように小柄だったり、ひ弱だったり、愚鈍だったりで、持て余されていた娘達がここに居るのだろう、と思った。ガウンやなにかも、腰が細く、華奢なものばかりだったのだ。ティア=アンはそれを着ることができるが、妹達には無理だろう。体が弱く、立派な子どもをうめないと思われるような娘達が、ここには折り重なっている。
今、ティア=アンの帯には宝冠や首飾りがずらりとさがり、ちょっとした宝物殿のようだ。勿論宝飾品だけでなく、ホーのくれた巾着も通してあったし、火のついていない二本のたいまつと、短剣の類も数本さしこんでいた。重たいものは持っていけないと判断し、小さく、宝石などが少ない、実用性の高そうなものを選んでいる。その分、少しは軽い。その少しの差が、沢山持つ場合には大きくなる。
別のガウンで菓子箱と壜を包み、やはり体へ結びつけた。これで、準備はできた。
ティア=アンは息を吐いて、たいまつに火を点けた。日がさしている場所以外は、くらいからだ。そして、彼女は、そちらへ行こうとしていた。
光のあたる場所から、高いほうへと移動する。すぐに壁へあたり、壁へ添ってティア=アンは歩いた。すると、道らしきものがあった。壁の途中に、横穴があいている。その奥へと、かすかに風が吹いていく。
ティア=アンは呼吸を整え、数え歌を頭のなかでくりかえす。無駄なことを考えないように。無駄なことをしないように。
彼女は息を吐いて、横穴へとはいっていく。とにかく、移動してみないことにははじまらない。ここで座りこんでいたって、外へ出られはしない。
一体どうやってできたのか、それとも誰かがつくったのかは知らないが、つるつるとした壁で、ほぼ完璧な楕円形の道だった。水が流れて綺麗にしたのか、それともなにか、虫や獣の仕業なのか、わからない。わからないけれど、ティア=アンはとにかくそこをすすんだ。たいまつを掲げ、ゆっくりとした歩調で。
地面がまっすぐではないから、歩きにくい。ティア=アンは何度もつんのめり、何度も転びそうになり、何度もひやりとした。二回、本当に転んで、鼻や肩を打った。でも、とんでもない距離を落下するよりはましだった。彼女は泣き言をいわず、すぐに起き上がって、ただ歩をすすめた。
それしかないからだ。誰も邪魔をしないかわりに、誰も助けてくれない。自分ひとりで、なんとかするしかない。
宝飾品は、ひとつ々々はそうでもなくとも、集まれば重たい。剣も、成る丈簡素なものを選んだが、それでも一般的に見れば豪華な装飾がなされているのもあって、重たかった。替えのガウンやなにかまで持っているのだから、当然体は重たい。
それでも、それらは必要なもので、持っていかないことはできない。だから、ティア=アンは我慢した。なにより、自分で考えて決めたことだ。文句のいいようはない。いったい誰に文句をいうというのだろう。
もう一度転びそうになった。ティア=アンは体勢をたてなおし、たいまつを掲げる。見ると、道の形状がかすかにかわっていた。
少し、ひろがっている。
ティア=アンは息を整え、数歩、すすんだ。すると、たいまつの光が壁に反射しなくなった。ひらけた空間に出たのだ。
遠く、闇のなかに、ちらちらと光るものがある。
誰か居るのかもしれない、と思うと同時に、恐怖がふくれあがった。たいまつは目印になる!
ティア=アンの恐怖は間違いではなかった。闇のなかから接近してきた光は、獣だった。
飛びかかってきたそれに、ティア=アンは反射的にたいまつを向けた。獣は、火をおそれたか、横にあるなにかを足場にしてぱっと飛び退いた。それでティア=アンは、そこに柱のような石があるのに気付いた。鍾筍というやつだろう。祖父がかきあつめていた本には図鑑もあり、彼女はそれを見たことがあった。
しかしその獣は、図鑑などで見るどの獣とも違った。ティア=アンが知っているどれでもない。強いていうなら、猿に似ている。似ているといわれたら、猿は怒るかもしれないが、似ているものを頭のなかでさがしたらそれしかなかったのだ。
両手両脚があり、色は赤と黄色の斑。猿ならば頭があるべき場所に、それはない。かわりに、ぎゅっと絞った巾着の口のようになっていた。大雑把な縫い目のようなものもある。その、糸みたいなものが、かすかに光っているのだ。ティア=アンがわかる範囲では目のようなものはないし、耳のようなものもないのだが、獣はティア=アンの位置を察しているらしい。足音を立て、じりじりと近寄ってくる。やはり、感覚器らしきものは見当たらないのに、ティア=アンがたいまつをかざすと、それを察してかさがった。
たったひとり、頼れる人間もおらず、どこだかもわからない場所で、見たこともない気色の悪い獣と対峙している。
けれどティア=アンは、不思議と落ち着いていた。ああこれは火をおそれているんだ、と思ったら、恐怖が半減した。彼女は考えるのは、好きではないが得意なのだ。どれだけだって考えられる。
猿にしては脚が長すぎる、とティア=アンが考えた時だった。獣は声らしきものをあげて、彼女へ向かってきた。だから彼女は、ひきつけるだけひきつけておいて、たいまつをまっすぐにつきだした。