7.犠牲のいきつく先は
ティア=アンにとって幸運なことに、彼女は並外れて軽く、規格外に小柄だった。宮廷へ参じてから、王后達の贈りものを食べていたといっても、人並みの体重ではない。その姿はまるで、人間が布を身にまとっているというよりも、豪華な宝飾品と布が人間をとりこもうとしているようだった。厄介な蔦植物にとりまかれた、気の毒な若木のような有様だった。
婚礼衣装は彼女の体をまもるのには充分な厚さと量だったし、さらなる幸運も待ち受けていた。ティア=アンはそれを幸運だとは決して思わないだろうが、結果的には幸運だった。
裂け目へ放り込まれた彼女は、やわらかく、かつかたいものへぶつかった。弾んで、跳ねて、転がり、さほどの怪我もなく、ティア=アンはつめたい地面へ倒れた。つめたく、しっとりと濡れた、岩のような触り心地のそれに、ティア=アンは意識をとりもどす。意識を失っていたのも、ひとつの幸運だった。下手に手足をばたつかせたり、受け身をとろうとしたりせず、ティア=アンはただただ落下したのだ。
ただ単に恐怖と、精神的な衝撃とで気を失っていたティア=アンは、慌てて上体を起こした。一瞬、ケーナ家の邸に居ると、混乱した頭で考えた後、宮廷でのことがよみがえり、自分は山に居た筈だと思い出した。なにが起こったのかを反芻していると、落下の衝撃で裂けた袖から、ぽとりと、例の巾着が転がり出た。
すべてを思い出したティア=アンはそれを、必死に掴む。ほとんどまっくらのそこでは、なにかすがるものがほしい。
目がかすかに慣れてきて、ティア=アンはふと、上を向いた。自分が落下したことを思い出した彼女は、そちらを見て、目を瞠る。遙か遠く、わずかに光が見える。しかしそれは、酷く弱々しいものだった。日は暮れていたのだ。おそらくあれは、月か星の明かりだろう。距離もあり、加えてその――光の通り道は、そう大きくもない。明かりの範囲は限定的だ。
ティア=アンは、その頼りない光を、それでも未練がましく見詰めながら、手だけで巾着を開けた。中身は、ひんやりとした感触のものだ。顔を俯け、それへ目の焦点を合わせる。感触と、ぼんやりとしか見えない形状で、なにかがわかった。火打ち石と、火打ち鉄だ。
ティア=アンは、ガウンの裾から手をつっこんで、綿の下着を千切りとった。周囲を手でさぐって、首尾よく見付けた木の棒らしきものを拾いあげ、千切った下着をまきつける。ぐるぐると、しつこく、何重にもまいて、最後は結びつける。呼吸は安定しないし、苦しいけれど、激しい痛みはない。だから、それくらいの作業ならばできた。それに今彼女は、明かりに対する本能的な欲求でいっぱいだった。というよりも、暗闇に対する恐怖で、だろうか。
火は、苦労したけれど、何度目かの試行錯誤で点けることができた。速成のたいまつは、決して立派ではなかったが、綿は安定して熱を保ち、さいわいなことに油分の多い木の枝だったらしく、弱々しい火はけれど消えない。
巾着を掴んだ手で、一緒にたいまつを掴んで掲げ、ティア=アンは、四辺を見た。自分の荷物が、ばらばらと放り出されている。宝飾品に、ガウン。散らばった、極彩色の菓子。様々な菓子のはいった箱。おそらく香り付きの水がはいっていた、割れた壜。自分のものではないガウンや、見覚えのない宝飾品、それから原形をとどめていない、おそらく食べものの残骸らしきものもあった。ティア=アンにはつかいかたも、そもそも持ちかたすらまともにわからない、重たそうな武器も。
くまなく、四辺を見ていた彼女の目が、それを捉える。
正確には、それらだ。
ティア=アンは喘ぎ、へたりこむ。たいまつをしっかり握りなおした。とりおとしそうだったのだ。今これを落としたら、もう二度と火を点けられないかもしれない、と一瞬で考えて、彼女は決して手の力をゆるめなかった。
見たくない気持ちをおしこめ、喘ぎながら、ティア=アンはたいまつを、それらへ近付ける。自分の反応が意外だったが、声は出なかったし、涙も流れなかった。ただ驚愕と、嫌悪感が、急速に彼女のなかでふくれあがっていった。
そこにはティア=アンと同じような、めったやたらにいい布をつかった、漆黒できらびやかな婚礼衣装をまとった、かつては妙齢の娘だったであろうものが、折り重なっていた。
ティア=アンは、ひとり目ではなかった。
しばらく息を整えてから、彼女は目を一旦瞑り、しっかりと開けた。
ひとり目ではない。ふたり目でもない。
もっとずっとおおきな数だ。ティア=アンは、そこでも、のろまだった。遅れてやってきた。
そこには、相当数の遺骸があった。王家による犯罪の、それは、確たる証だった。まだ布の透かし織りがはっきりわかる者、かわった形状のガウンに身を包んだ者、ごてごてと宝飾品を身につけた者も居る。とにかく、多い。
大勢が、そこで、遺骸となっている。
ものもいわず、ただ朽ち果てていくだけのものだ。
周囲にばらまかれているガウンやなにかに、自分の、それもごく個人的なものも含まれているのにティア=アンは気付いて、呼吸を浅くした。宮廷へ参じてから、王后や王太后の名で贈りものとして運ばれてきた、贅を尽くした絹や宝石の塊ではない。王家を介して届いた、公爵達の貢ぎものでもない。あの濃い緑のガウンが、わだかまっている。妹がくれたハットピンもある。
ティア=アンは震えだした。その段までは震えていなかった。なにが起こったのか、いまいちわかっていなかったからだ。衝撃はあった。あったけれど、どこかひとごとだった。自分からきりはなしていた。豪華なガウンを見ても、『自分のもの』だけれど『宮廷のもの』だとどこかで考えていた。
だが、自分の、それも宮廷へ来てから自分のものになったのではない、ケーナ家に直接結びついているようなものがそこにあるのを見て、ティア=アンは猛烈な勢いで『現実』へとひきもどされた。
考えて、わかった。自分はここへ捨てられた。おそらく、殺す為に。
彼女はもれそうになった悲鳴を、頑張ってのみこんだ。考えすぎる頭が、警告を発していたからだ。それも、特大の。――気付かれるな。生きていることを悟られるな。あの裂け目のまわりにまだ居るかもしれない人間達、お前を殺そうとした人間達に、生きているとしらせるな。
ティア=アンはぐっと、唾をのみくだす。「カイ……」つぶやいたのは、許嫁の名前だ。優しくしてくれた、ティア=アンを求めてくれた、カイ。元気に影踏みをしていた男の子。「カイ」ずっとさがしていたといってくれた。ずっと傍に居てほしいと。
彼もこれを知っているのだろうか?
ティア=アンが殺されるとわかっていて、あんなことをいったのだろうか?
殺す為に、こんなところへ放り込む為に、ティア=アンをさがし、妻にほしいなどといってつれてきたのだろうか。
ティア=アンは頭を振る。喘ぎながら、細い、頼りない脚で立ち上がる。落下の衝撃で外れかかっていた宝冠が、軽い音をたてて落ちた。ティア=アンは頭に何本も打たれた邪魔っけなピンを、弱々しいながらも力をこめて、ひきぬいていく。「違う」髪が肩へ落ち、ぎちぎちと頭皮をひっぱられるいやな感覚はなくなった。ティア=アンは喘ぎ々々、顔を拭い、深呼吸しようとする。ひんやりとつめたい風がどこからか吹いてくる。
「違う」自分へいいきかせるように、そうささやく。「カイはそんなひとじゃない」
カイの嬉しそうな笑み、優しいそれを思い出した瞬間だった。彼女は喘ぎながら、ぼとぼとと涙をこぼし、小さな、うすっぺらい手で、目許を覆った。それは、しばらくぶりの涙だった。ティア=アンは安心して泣いてよかった。泣くのはみっともないと、彼女を叱る人間は、ここには居ない。眉をひそめ、貴族の娘としての矜持を持てといってくる人間も、居はしない。
そもそも、命のある人間は、ここには彼女しか居ない。
嗚咽しながら、ティア=アンは、娘達の亡骸でできた小山の周囲を、うろつく。頭が猛烈に働いていた。火が消えたら、なにかが来るかもしれない。獣が居るかもしれない。木をさがそう。たいまつをつくろう。たいまつをもっとつくろう。それを燃やして、ここからぬけだそう。
脱出口なんてわからないし、ここがあの裂け目以外、完全に閉じた場所である可能性もあった。そもそも、これ以上木が見付かるかもわからない。でも、やらない訳にはいかなかった。ティア=アンは生きている。生きているのだから、死なないように努力する義務がある。無為にしていい訳はない。病がちな彼女は、それを強く考えていた。命は、粗末にできない。
命があるのだ。どうして、なにもせずに放り出すことができようか。どうして、それを無にすることができようか。
生きなくてはならない。
死んではならない。
殺されたくない。
ティア=アンは涙ににじんだ視野に、しらっちゃけた枝を見付けた。その頼りない、細い枝を、拾い集める。かきあつめる。そこから少しずれた地点に、あの忌々しい、ティア=アンを食べた裂け目から、ごくわずかな光が注いでいる。あそこから吹き込んできたものだろう。屋根も蓋もないのだから、自然と落ちた木の枝が、なかへはいることはありうる。落ちた枝は、落下の衝撃でか、風でも吹くのか、この辺りにたまる。そういう理屈なのではないか。
自然というものに酷く感謝した。木の枝を慈悲深くも恵んでくれた風に。もしかしたら、木を痛めつけて枝を落としてくれたかもしれない雷や嵐、雨にも、ティア=アンは心の底からありがたいと思った。勿論、木を育ててくれた大地にも、水にも。
これらはここに生えていた木の枝だ、と思わなかったのは、地面がかたいのが大きな理由だった。やわらかい、華奢な布靴でうろつくティア=アンの足の裏は、地面をしっかり感じとっていた。それはかたく、土ではなくて、石のように感じる。ところどころ亀裂はあるが、大きなすきまはない。
目が覚める直前にも、ひんやりつめたく、そしてかたい感触に、石を連想した。目覚めた瞬間のほんのわずかな時間、ティア=アンはここがケーナ家の邸だと誤解した。ずっと以前、なんの為にか覚えていないけれど、叱られたティア=アンは、地下の食料庫へとじこめられたのだ。涼しく、まわりから隔絶されたそこと、ここは似ていた。
心細いたいまつの光が届く範囲には、生きている木はなかった。苔は幾らか見付けたし、岩を打ち破って小さな葉が茂っているのも見付けたけれど、それだけだった。ティア=アンの膝よりも丈のある植物は、ここにはない。
そこにはまるで、生命に関わりのあるものはないようだった。
なにひとつ。
頼りない枝をまた見付け、喘いで半分泣きながらそれを拾う。少し歩き、また枝を見付けて拾う。そうしながらティア=アンは、どうしても目を向けずにおれない、憐れな娘達を、観察した。
下のほうは、ガウンはほとんど跡形なく、宝飾品も壊れていたりなくなっていたりがほとんどだ。なにより、さらされたようなまっしろな骨になっている。おそらく、かなり古いものだろう。完全な形で残っている骨は、ほんの数体だった。だが、散らばっているものや、どうやら半分ほど残っているものなどをいれると、少なく見積もって十はある。
上へ行くと、段々と、骨にまだ肉が幾らかついているものがある。肉がついているといったって、命を落として間もなくという雰囲気ではない。彼女は数人の家族や親族を見とったことがあったが、憐れな娘達の遺骸の様子は、それとはかなり違っていた。体全体が水を搾りとられたようにぎゅっと縮み、うすい黄色と茶色の中間のような色をしている。腕など、塩漬けにした豚の脚のようだ。
たいまつの炎をきらきらと反射する、宝石を縫い付けたガウンの型は、昔のものだ。正式な場でのガウンについての法の条文を、貴族の娘であるティア=アンは、読んだことがある。礼儀として覚えていないといけないからだ。それがその瞬間、かつてなくはっきりと思い出された。頭はめまぐるしく、思考を展開し続けている。
ここには、ティア=アンを急かす人間は居ない。誰かがやってきて、ぐずぐずしていないでさっさとこれをやれとかどこへ行けとかなにを食べろとか、そんな指図はしない。ティア=アンは思う存分、思考を巡らせた。思う存分、可哀相な娘達のことを考えた。誰も彼女を停めないから、好きなだけ考えることができた。したいだけ、思索へ沈むことができた。
礼儀というのは時代によっても多少変遷があるものだから、ガウンも段々と、公的な場へ出てもいい、という型が増えている。いつまでも古くさいガウンばかりは着ていられないからだろう。貴族令嬢というものは、いいガウンを着て、いい許嫁を捕まえようとするものなのだ。はじめは風紀を乱すと眉をひそめられるような型でも、二十年もすれば標準的なものとして受け容れられるなんてことは、これまで何度か起こっていた。『標準』とまではいかなくとも、礼儀を弁えていないとかはしたないとか、そんなふうにいわれないくらいに一般的になることは、結構あった。
ガウンは大概は、はやった後で正式な装いとして認められ、認められる頃にはまたあたらしい型がもてはやされるようになっている。それが、無用に繰り返されているのが現状だ。
条文に追加されるのは、流行から少し時間が経ち、大勢の娘達が非公式な集まりなどで着るようになってから。そうすると、正式なガウンとして議会で認められる可能性がある。議会で承認されると、条文に追加されるのだが、それは追加された順に表記される。
ティア=アンの記憶が正しければ、まだ肉が残っている彼女達が着ているガウンは、ずっと昔にはやったものだ。それ以降、正式なものと認められはしたけれど、あえて婚礼衣装の形に選ぶかといわれたら、首を傾げる。候補にはあるといっても、目立ちたがり屋の令嬢が、ほかの娘達と違うことをしたくて着るようなものだ。はやった頃、もしくはその直後の人間だとしたら、もう数百年程度、ここにあることになる。目立ちたがり屋の令嬢だとすれば、もう少し近い年代かもしれない。
その辺りだと、ティア=アンが確認できる限りでは五・六人分だった。たいまつの光は頼りないし、動かしてたしかめたのではないから定かではないが、ひとりふたりではない。腕や脚の本数があわない。
上には、羽虫のたかるものが二体。これが一番、あたらしい。睫毛さえもしっかりと残っている。頬はまだふっくらとしていて、髪にもつやがあった。きっちりと結い上げられたそれは崩れてさえおらず、娘達は宝冠を戴いている。黒髪の娘が大きな琥珀をあしらったものを、金髪の娘が紫水晶を大量にちりばめたものを。
数年前に、異常な勢いではやり、すぐに正式なものとして認められた袖をつけているのが、見える。妹達がほしいといっていたから、覚えている。ティア=アンはほしいと思わなかったし、いわなかった。思っていてもいわなかったろう。
この子達は、死んですぐだと、ティア=アンは思った。思って、あらためてぞっとした。妹達がほしがっていたような袖をつけている、自分とそうかわらないような娘達が、そこで死体になっていることに、ぞっとしたのだ。
完全に痕跡を消してしまった娘が、どれだけ居るか、ティア=アンには判断つかない。引き裂かれたようなガウンがあることも、ぐしゃりとひしゃげた宝冠や腕環があることも、見ていてわかる。そこに重なっている憐れな娘達の、仲間にはいりそびれたらしい者も、見付けた。
骨が、ぱらぱらと散らばっている。
獣が居て、憐れな娘を食べたのかもしれない。
その獣は、今も腹をすかしているかもしれない。
考えこみ、呼吸さえ詰めていた彼女は、はっと我に戻った。周囲が一層、くらくなったからだ。
おそるおそる、上を向く。
おそれていたとおりだった。完全に、日が落ちたのだ。或いは、あの裂け目のまわりから、誰も居なくなった。もしくは、裂け目のまわりに居る人間が、たいまつを消した。
いずれにせよ、結果はかわらない。裂け目の位置がわからなくなっている。明かりがまったく、なくなっている。
ティア=アンは喘ぎ喘ぎ、拾い集めた木の枝を右腕で後生大事に抱え込んで、安全な場所をさがした。ここから逃げようか、それとも日が昇るのを待って、もう少し物資を得るか。考えた彼女は、寸の間で、とどまることを選んだ。
ここにどんな危険があるか、それはわからない。わからないけれど、ここから移動した先にどれだけの危険があるかも、また、わからない。情報がほぼない今、危険度は同じだし、仮にここから、これくらいの頼りないたいまつだけを持ってどこかへ移動したとして、そちらにまた同じように木の枝が転がってくれているとは限らない。大きな怪我はないといえ、ティア=アンはかなりの距離落下していたし、無傷な訳ではなかった。その状態で、乏しい光源を手に移動し、いい成果を得られるとは思わない。
それに、ここには可哀相な娘達の遺骸が積み重なっている。先程、ばらばらになった骨を見て、肉食の獣が居るのかもしれないと怯えた。だがもし、人間を食べるような獣が居るとしたら、娘達の遺骸の一部が、こうやってほとんど完全な状態で残っているのはおかしい。なら、ここは案外、安全な場所なのかもしれない。
生きているものだけを狙っている獣がいないとはいえないが、それに関してはティア=アンは考えないことにした。考えても無駄だからだ。ここに来て彼女は、『考えるべき事柄』と『考えるべきでない事柄』とを区別する、ということをあみだした。しようとしていた。
今、「肉食の獣が居るかもしれない」と考えるのは、無駄だ。居なければその対策を考える必要はないし、居たとして、ティア=アンにはなにもできない。彼女は貴族の娘で、不可思議な力もなく、貴族や王族のなかでもとりわけひ弱な類の体をしている。まったく以て、これで獣と戦うなどというのは、お話にもならない。獣が来た瞬間、ティア=アンは逃げることも抵抗することもできず、捕食されるだろう。勿論、獣がティア=アンを食べようとすれば、だが。
肉食の獣は居ないと仮定する。娘達の宝飾品が散らばっているのを見る限り、水がはいってきて溺れたり、流されたりする危険性もないようだ。なら、ひと晩体を休め、落下の際に負った小さな傷を少しでも癒しつつ、朝の強い光がさしこむのを待つ。そして、その光の許、脱出に役立てられそうなものを集める。
そう結論した。
さしあたっては――。
ティア=アンは、安堵の息を吐いた。地面に大きめの亀裂を見付けたからだ。そこへ速成のたいまつをねじこむと、それは驚くほどに安定した。
その亀裂傍の壁際へ木の枝をまとめ、走って戻り、菓子を拾い集める。落下の衝撃で本体と蓋へ分かれてしまった菓子箱へ、それをいれる。落ちて汚れているとか、そんなことは関係ない。ここには草や苔がほんのちょっぴりあるだけで、その植物達だって、食べられるかはわからない。動物は姿を見ない。見付けたとして、ティア=アンの力でとれるとも限らない。
なら、多少汚れていても、食べられそうなものを確保する。ここから出るのにどれだけの時間がかかるか、わからないのだ。その間なにも食べないでいるのは不可能である。
ティア=アンは目につくだけの菓子を拾い集めると、箱へ蓋をした。手がかすかに震え、本体と蓋がぶつかってかたかたと音をたてた。音は反響し、それからティア=アンは、この空間の天井にあたる部分が半球形をしているらしいとあたりをつける。はっきり見えはしないけれど、音の感じがそうなのだ。
菓子箱は、枝の束の傍らへ置いた。落下にも耐えた菓子箱も見付け、そうする。運よく、割れていない水の壜もある。たった一本だが、あるとなしとでは雲泥の差だ。ティア=アンは天に感謝して、それをしっかり両腕で抱き、壁の傍へと運んだ。
ティア=アンは何度も、なんども往復し、たいまつの光の届く範囲をくまなくさがした。草のなかに足をつっこんで掻き分け、手のはいりそうな亀裂をのぞきこんだ。そうして、目についた食糧をすべて、壁際まで持ってきた。菓子箱はまったく無事なものがみっつ、壊れて中身が散らばっていたものがみっつ。古いけれど、中身が砂糖菓子で、痛んでいないように思えたものがよっつ程あった。壊れたものは正確にはもう少しあったのだが、かなり古いものらしく、周囲からも中身が消えてなくなっていて、ティア=アンもそれまで集めはしなかった。
集めたものらの傍へ座り、彼女は深呼吸して、脚を伸ばす。ごつごつした岩のような地面をひたすらに歩き、時折亀裂にあしをとられて、彼女の布靴は幾らか裂けていた。彼女の足裏も、まったくの無事ではない。水ぶくれが幾つかできている。ティア=アンはみそっかす扱いされてきた、木っ端貴族の娘だが、それでも貴族は貴族だ。妙齢の娘が、長時間歩くことはないし、なによりこのようなごつごつした場所を歩かない。彼女の足の裏はゆでたまごみたいにやわらかく、簡単に傷付いた。歩く為の筋肉というものが乏しい脚は、突然の重労働に、悲鳴をあげている。
うすよごれてしまった菓子をつまみ、口へ含む。甘ったるい。妙な味はしなかった。いつも通りの、甘さの塊のような味だ。
だから、ティア=アンはそれを嚙んで、のみこんだ。落ちたものを拾って食べているのを見たら、母がなんというかを想像してみたけれど、あまりに疲れていた為か、なにも出てこない。ただ、なにをいわれるかはともかくとして、ひっぱたかれるだろうとは思った。
数個、小さな菓子を口へ運んで、憐れな娘達を見詰めながら、彼女は段々と、眠りへひきずりこまれていった。眠ったらよくない、と思ったが、どうにもできない。