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5.女達の誤解は




 時間は瞬く間に過ぎ去り、ティア=アンにとって不幸にも、カイは気持ちをかえなかった。結婚式の日取りは、またしてもティア=アンの与りしらぬところで決まり、与りしらぬところで一度延期され、彼女はもう少ししたら都にほど近い山へ行くことになっている。伝統的に、王家の結婚式はそこで執り行われる。伝承の黒いドラゴンが棲むのも、そこであるという。

「でも、ただのおとぎ話だわ。こわいことなんて、なんにもないわよ」

 何度もティア=アンの部屋を訪れ、親しげな口を利いてくれているカレンが、安心させるみたいにいった。ティア=アンはあおくなっていた。王后や王太后が、なにくれとなく気を遣ってくれ、優しい言葉をくれて、おまけに、あなたは少し病がちだそうだから、と、体にいいという食べものまで届けてくれている。おかげでティア=アンは、少しだけ肉をつけた。宮廷へ来てすぐの頃こそ、食べても吐いていたが、今はそんなことはない。

 しかし、ほんのちょっとばかし体重が増えたからって、どうにもならない。ちびはちびのままだし、自分でもうんざりするような優柔不断、臆病は、どうにもならなかった。


 カレンに対して、ティア=アンは少しだけ、笑みを向けた。すぐに顔を伏せる。よくしてくれるひとに、少しくらいは恩を返したい。だが、ティア=アンにできることは、ごく少ない。精々、しあわせそうにしていないと、ここまでしてくれるひと達に、無礼極まりない。

 皆、ティア=アンに対して、非常に優しかった。カイは王子としての責務があるのだが、時間を見付けてはティア=アンに会いに来てくれる。ふたりは何度か、庭を一緒に歩いた。すぐに疲れてしまうティア=アンに、王子は優しく腕をかしてくれて、ティア=アンは許嫁にすがって少し歩き、庭にある長椅子に並んで座った。そこで、カイがなにか喋り、ティア=アンは頷いたり、頭を振ったりする。ティア=アンが極度に無口でも、彼は気にしなかった。ティア=アンも、カイに対する緊張感はまだあったものの。ほかの男性へ対するものほど酷くはない。不思議と、カイとふたりになっても、ティア=アンにしては軽い緊張ですんだ。カイには、ひとの気持ちを和ませるなにかがあるようだった。


 優しいのはカイだけではない。この貧相な小娘の栄養状態に気を配ってくれる王后や王太后もだし、王も、時折ティア=アンの顔を見に来た。ほしいものがあったらなんでもいいなさいといわれ、ティア=アンは返答に窮した。ほしいものなど、ないからだ。いや、あるが、それはいかな陛下といえど、どうにもできない。不器量な自分から逃げたい、など。

 結局なにも要望をいわず、無欲と見えるティア=アンに、陛下はいたく感激され、反対に、ガウンや宝飾品を惜しみなく与えてくれた。今も、王家に長い間つかえているという、盲目の職人が、ティア=アンの為に立派な冠や、首飾り、指環、腕環などをつくってくれている。それを身につけ、結婚式をするのだ。


 カレンもまた、ティア=アンに優しい。何度もティア=アンの許を訪れては、似合いそうだからと、可愛らしい花飾りをくれたり、わたしの好物なの、と、焼き菓子を持ってきたり、まるで親しい友人にするようにしてくれた。

 今も彼女は、持ってきた焼き菓子を食べながら、朗らかに笑っている。

「昔ね、わたしの妹が、体があまり強くなくて、静養でその山に居たのよ。空気が澄んだ、素晴らしいところなの」

 静養に訪れる山、というのが、ひっかかった。

 もしかしたら、あの山だろうか。

 あの男の子がいるだろうか。




 カイは優しくしてくれる。とてもいいひとだ。だが、階級の隔たりはどうにもできない。ティア=アンはずっと、彼に対して引け目がある。彼に対してだけではなく、王家そのものに引け目があり、自分がそこに加わることをどうしても想像できなかった。王家の肖像画は、宮殿の奥のいろんな場所で見ることができ、そこに自分が加わるのはどうにも、想像できないのだ。

 一緒に影踏みをした男の子は、ティア=アンにとって、家族以外で唯一、心を開けそうだった相手だ。できればもっと話したかったし、一緒に遊びたかった。でもあの頃、もうすでにティア=アンは口が重たく、会話は非常な苦労を伴った。言葉が出てこず、自分の気持ちもなにもいえないうちに、相手は居なくなってしまう。

 あの男の子が、山の病院の医師の息子などだったら、会えるかもしれない。

 もしかしたらあれは、ひとを好きになるという気持ちだったのかもしれないと、遅ればせながらティア=アンは気付いた。






「ティア=アン、少し話せない?」

 宮廷で、ティア=アンと顔を合わせる人間ほとんどすべてが、彼女に優しくしてくれる。だが、ひとりだけ、例外があった。

 ホーだ。カレンよりももっと高い頻度でやってくる彼女は、どうにかしてティア=アンを、宮廷から追い出そうとしているらしい。といっても、いじわるをしてくるのではない。直接いわれたこともない。ただ、立場を思い出させたり、ケーナ家があまり歴史ある家柄ではないことをいったりする。それをされると、ティア=アンは身がすくんだ。わかっているからだ。自分が王子の妻に、相応ではないと。

「あなた、きちんとご飯を食べている?」

 その日もやってきたホーは、そういってから、ティア=アンの居間を見渡した。官女がひいた椅子へ腰掛け、短い髪を撫でつける。あれはやはり、病で伏せっていたからだった。カレンが教えてくれたのだ。ホーはほんの少し前まで、寝込んでいたらしい。世話をしやすいよう、王后の指示で、官女達が髪を切ったそうだ。ティア=アンもよく病を得ているが、髪を切られることは稀だった。髪を切るほどならば、相当悪かったのだろう。よくよく見てみれば、ホーは少し痩せ気味で、それは病み上がりの人間らしかった。


 ホーは、ティア=アンがひとりで居るのを見て(勿論、官女は居るけれど、彼女らは幾ら家の位が高くても、宮廷では頭数にいれない)、深く頷いた。身をのりだし、隣へ座ったティア=アンの手を軽く掴む。ティア=アンは、官女の指示でそこへ座っていた。彼女には相変わらず、主体性というものはなかった。

「カレンが居ないなら、丁度いい。あなたとはしっかり話したかったの」

 ホーは声を低める。彼女はカレンを苦手にしているみたいで、カレンと同席することをいやがった。カレンのほうから歩み寄ろうとしても、うまくいかないらしい。カレンはそれを、残念そうにしていた。当然の話で、王女にきらわれるというのは、この国では大変生きづらいだろう。かわりにカレンは、王后や王太后に気にいられているらしいから、今はまだなんとかなっているようだが、王后も王太后も永遠に生きる訳ではない。

 ホーがカレンを苦手にしている原因は、当事者の一方から聴いていた。カレンからだ。以前カレンが、侯爵家のヴォスという若者と話したのを、ホーは誤解した。ヴォスはホーの許嫁なのだ。カレンに他意はなかったのだが、ホーはその行動を、疑った。

 それから、王女殿下はわたしとまともに喋ってくれないの、と、カレンはいっていた。殿下がわたしのことを悪くいっていても、話半分にしていてね、あのかたはまだ誤解しておいでだから、とも。


 カレンからだけではなく、ほかのひとも、ホーの気難しさを時折こぼした。おもに、官女や従僕、それに、庭を歩く時についてくる儀仗兵も、ホーのわがままについて苦言を呈していた。ティア=アンの傍まで来る人間は、官女だとか従僕だとかであっても全員、貴族の関係者だ。それも、歴史が古く、不可思議な力を持つ者を排出してきた家柄である。

 王子、それも、王位を継ぐことがほとんど決まっているカイの許嫁なのである。宮廷内だろうとなんだろうと、ティア=アンの為には相当な警護体制が敷かれていた。なにかあってはならないと、皆神経を尖らせていて、一度官女がティア=アンの髪を()かしていて、櫛が折れて血が出てしまった時など、大騒ぎだったものだ。その官女はまっさおになって、すぐにつれだされ、それ以降姿を見ない。傷は小さなものなのに、医師がふたりがかりで診察し、べたべたするいやな匂いの薬をたっぷり塗られた。式の日取りは、怪我が完治してからと、それで一度延期したのだそうだ。怪我が治ってから、ほっとした顔の官女がそうもらしていた。

 怪我の原因になった官女は、家へ戻されたと聴いている。その家からは謝罪されたので、どれだけ高位の貴族か、ティア=アンは把握していた。


 そういう力のある家の者だけが、彼女の周囲をかためているのだ。だからか、カイに対して、ティア=アンではありえないくらいに平然と口を利く。王女殿下が……と、ホーの傍若無人を訴えるのも、平気らしい。そもそも、カイの気が優しくて、そういう訴えをきちんと聴き、対応するのが、彼らの口を余計に軽くしているのだろう。カイは、場合によってはホーを直に窘めてもいるときく。

 それにホーは、『王女らしからぬ行動』も、宮廷で問題視されている。王后や王太后が窘めているらしいが、ホーはそれをききいれない。カイに、母や祖母のいうことをきけ、といわれても、ホーは反発して、反抗的な態度を崩さないそうだ。具体的に、彼女のなにが王女らしからぬのか、それは誰も教えてくれなかった。ティア=アンはそれを訊ねる口を持たない。皆は、ティア=アンがそれを気にしているなどとは考えていない。それとも、説明するまでもないと思っているのだろうか。うすのろのぼんやり娘に話しても、通じない、と。


 だが、いろいろなひと達の会話を耳にして、ティア=アンも流石に、あたりくらいはつけていた。おそらく、ティア=アンとカイの婚約に反対していることを、皆、王家らしくないといっている。

 今、王家のなかでも一番の力を持っているのは、王太后陛下だが、しかしそれは、単に個人的な人間関係での話だ。王にとっては母だから頭が上がらず、カイにとっては祖母だから礼を尽くす。

 しかし法的に一番力を持っているのは王で、その次は王子だ。王太后や王后には、(おおやけ)にはさほどの権力はなかった。家庭では、長く生き、家を平和に保ってきた祖母が偉くても、対外的には父が偉い、というのは、ティア=アンにもしっかりと想像できる。

 この国で王の次に『偉い』王子の、そのたっての願いで呼び寄せられたティア=アンを認めないというのは、たしかに王家らしい行動ではない。それはつまり、王子、ひいては王の権威にたてつく行為だろう。ホーはそれをしてしまっている。だから、王女らしくないと、陰口を叩かれる。どうしてホー殿下は平気なのだろう。陰口を叩かれるのも、悪くいわれるのも、叱られるのも、こわくないのかしら。こんなふうにお美しいから、どんなことがあっても大丈夫なのかも……。

 ティア=アンは、ホーに手を掴まれて、我に戻った。




 ホーは真剣な眼差しで、こちらを見ている。「ティア=アン。考え直さない?」

 王女がなんの話をしているかは、まったく脈絡がなくても、ティア=アンにはわかった。カイとの結婚のことだ。すでに日取りも決まり、五日(いつか)後には執り行われる予定の。

「あなたがいやがれば、幾らお兄さまでも、強引にはしない。山へ行ったらもうひきかえせないの」

 勿論、鈍い彼女にわかるのだから、官女達も理解している。年嵩のがひとり、さっとすすみでて、ホーを睨み付けた。控え目ではあったが、たしかに睨んでいた。王家のなかでも力は弱いといえ、王女である。それを睨むなど、異常なことだ。

 官女はホーを睨んだまま、はっきりと、単語をひとつひとつ強調するような喋りかたをした。

「殿下、幾ら殿下であっても、おっしゃっていいことと、悪いこととがございます。儀式を控えて、ただでも繊細なティア=アンさまは、いつもよりももっともっと、傷付きやすいのですよ。お言葉を」

「わたくしはなにも間違ったことはいっていない」

 ホーは切りつけるみたいに、激しくいった。官女は気圧されたのか、口を噤む。彼女も高位の貴族の出だし、年でホーに(まさ)っているが、生まれながらにして王女であるホーの迫力にはかなわないのだ。

 しかし、官女らには、団結力というものがあった。さっと、多くが一歩すすみでて、年嵩のと歩調を合わせるみたいに、ホーを見詰める。睨んでいる。

 ホーは目を半分瞑り、首を動かして、官女達を眺めまわした。どこか不安げな、心配そうな声を出す。

「お前達だって、思っていることでしょう。ティア=アンが花嫁に相応しいと、()()()思っている者は、ここには居ないのでは?」

 ティア=アンの気持ち、ほとんどそのままだったといえ、やはりはっきりと言葉にされると、衝撃はあった。ティア=アンは、ぐっと下唇を嚙む。こうしておけば、泣くようなみっともないことにはならない。ホーは、カイとの結婚を邪魔してきているが、ティア=アン自身には優しくしてくれた。だから、少しは友情のようなものが芽生えていると思っていた。けれどそれは、幻影だったのかもしれない。カイの花嫁に相応しくないと、断言するのだから。


 予想に反したことが起こったと気付いたのは、数秒後だ。官女らはひややかにホーを見ている。少々ばかにしたような視線だった。ティア=アンはそちらを伺い、戸惑って、大きすぎる目をしばたたいた。官女のなかには、顔を見合わせてくすっとする者さえあった。

 年嵩のがいう。

「なにをおっしゃっているのやら……ティア=アンさまほど相応しいかたも居ないでしょう。わたくしは、カレンさまのようなかたが花嫁でなくて、ほっとしています」

「お前こそ口を慎みなさい」

 ホーはあおくなって、鋭く、官女を叱りつけた。カレンとホーは不仲な筈だが、公爵閣下の娘への侮辱だ。ききずてならなかったのだろう。

 ティア=アンはそう考えて、その後、ぽかんとしていた。官女達が、カレンと比べても自分のほうが、王家の花嫁に相応しいと考えている、そのことが信じられずに。

 結局、ご機嫌伺いにノウェスパルが来たのを機に、官女達はホーを追い出した。ホーは最後に、わたしはあなたの味方だから、助けてあげたいの、といいながら、官女らにつれられて、出ていった。











 結婚の日は着々と近付き、ティア=アンは馬車に揺られて、山へ移動した。都から山へは思ったよりも近く、移動はすぐに終わった。王家にまつわる土地であるから、大切に管理されているし、都もその山の近くにあえて築かれたのだそうだ。山は、王家に信任され、管理している一族が住んでいる以外は、人間は誰も居ない。一般市民だけでなく、貴族であっても、きちんとゆるしを得ないと立ち入れない。ゆるしを得る為には、煩雑な手続きが必要になる。

 そういう諸々を、ティア=アンは、馬車に同乗したカレンに聴いた。カレンは公爵の娘だからか、式にも出るそうだ。ほかの公爵家や、有力な貴族の家からも、貴公子や令嬢が来るらしい。いずれカイが玉座へ座った時、その年代の貴族達が議会をまわすことになる。それを見越してのお披露目だというのは、ティア=アンにもわかった。結婚式で、自分がどんなにみっともなく見えるかを考え、血の気がひいた。




 山にはまあたらしい建物はあったが、王家の伝統で、花嫁は天幕ですごす。だからティア=アンは、官女やカレン、それから、王家のホー以外の女性達につれられて、すでに設営されていた天幕へはいった。傍にある岩の形や、そびえ立つような巨木に、かすかに既視感を覚えながら、ティア=アンは天幕のなかで座りこむ。

 女達の手で座らされ、甘い香りの菓子を、ひと粒口へ含まされた。それらも、儀式の一端であるらしい。ティア=アンは素直に、出されたものを口へいれ、官女やカレンに髪を()かれた。

「ティア=アン?」

 外からカイの声がして、女達はさっと立ち上がる。ティア=アンものろのろと立って、皆と外へ出た。

 カイは旅装で、山の斜面を歩きやすいようにか、長靴(ブーツ)をはいていた。ティア=アンがぎこちなくお辞儀をすると、彼は嬉しげに微笑む。「やあ、ティア=アン。式が待ちきれないで、来てしまった。少し歩かない?」

 ティア=アンは返事をせず、傍らの王后を伺った。いつもよりは装飾品の少ない、けれどきらびやかなガウンの王后は、にっこり笑った。完璧な笑みだ。

「ああ、いいことだわ、カイ。ティア=アンは緊張しているの。気持ちを解しておあげなさい」

「かしこまりました、母上」

 カイは嬉しそうに、王后へお辞儀し、こちらへ向き直る。さしのべられた手に、ティア=アンはおずおずと掴まった。妹のものだったのを仕立て直したガウンの、裾を掴む。

 ふたりはゆっくり、天幕をはなれていく。と、王后がすばやく、天幕をとおまきにしていた兵を手招いて、なにやらささやいた。そのなかから、リスエロがさっと、ふたりに駈け寄る。カイは足を停め、ティア=アンもそうした。「母上?」

「カイ、お前を疑うのではないけれど、間違いというものはありますから、兵をつけるわ。彼女に無礼な真似をしないように」

「そんなことはしません」

 なんの話かはわからなかったが、カイは憤慨したらしい。王后はそれに、奇妙に、ほっとしたような顔をした。「ならいいの。でも、兵はつけます。危険があるかもしれないわ。獣も居ますから」

「かまいませんとも」

 カイは切り口上で、ぷいと顔を背けた。常になく、機嫌が悪そうだ。ティア=アンはそれに怯えたが、しかし、どうしてこんな顔をするんだろうと、とても気になった。彼の笑顔を見ていたい。いつだって、しあわせそうににこにこしているから。あの、眉間によった皺を、なんとかしてあげたい。




「君を相当、気にいっているんだ、母上は。わたしがばかなことをすると思ってる。そんなことはない」

 天幕、それに建物からもはなれ、大きな岩をまわりこんだところに、開けた場所があった。濃い黄色の、背の低い花が、咲き乱れている。ティア=アンはそれに、寸の間見蕩れた。

 その花に、見覚えがある。ああ、やはりここだと、そうティア=アンは思う。


 あの、影踏みをしていた場所だ。こんなに花が多くはなかった。もっと小さな花畑で、あの木立の奥に泉がある。とてもつめたい水が、こんこんと湧き出ているところだ。そこで水を飲んで、あの男の子がふざけて、水をかけてきた。あとから、ティア=アンは熱を出してしまった。

 そう、それから、さっきのあのおおきな木。あの裏には絶対にいってはいけないといわれていた。近寄ってはならないと。


 いつもと違って結い上げていない髪を、彼が、そっと指で掬った。ティア=アンは夢想からさめ、許嫁を仰ぐ。真正面から目が合って、おそろしくて、顔を伏せる。

「……君はいつも、わたしをしっかり見てくれないね」

 甘ったるく、低い声がして、ティア=アンは尚更項垂れた。殿下はどうして、こんな貧相な娘を選んだのであろうか。ティア=アンにはそれはまだ、わからない。カレンのような美人が幾らも居るのに、わざわざ、子どもっぽい、ちびの、才もなにもないだんまり娘を、どうして選んだのか。


 カイは傍らのリスエロを見て、にんまりした。リスエロもそうする。「リスエロ、花を摘んでこい」

「合点」

 リスエロは笑うみたいにいって、花畑へと向かっていく。大きな体をうずくまらせて、ぷちぷちと、花を摘みはじめる。似合わない仕種だが、どことなく愛らしい。

 カイの腕が、ティア=アンの体にまわった。「ティア=アン。君に謝らなくちゃならないことがある。子どもの頃、風邪をひかせてしまった。申し訳ない」

 ティア=アンはゆっくりと、顔をあげる。

 許嫁の顔、直視できないほどの整ったそれを、けれどティア=アンは、胆力をかきあつめて、見詰めた。

 彼女は小さく、小さく、いう。

「……かげふみの?」

 カイは満面に笑みをうかべた。






 ふたりは、ゆっくりと、互いの影を踏む。リスエロはまだ、花を摘んでいた。ふたりが子どもっぽく、影踏みをして遊んでいるのを、見て見ぬ振りで。

 ティア=アンは息を切らし、微笑んでいる。


 カイがあの子だった。あの子がカイだった。


 カイは微笑んで、とても満足そうだ。

「君をさがすのに、時間がかかってしまった。あの場に居た娘達は、死んでしまったと聴いていたんだ」

 体の弱い娘達が静養していたと、祖母がいっていた。ここは王家の管理する土地らしい。王家の厚意で、病がちな娘達が療養していたのだ。ティア=アンは運よく生き延び、ほかはそうではなかったということだろう。

 生き延びたことを、幸運だと、心の底から思えた。

 『ティア=アン・ケーナ』であることが、嬉しいとさえ思えた。


 殿下はどうしてあの時、山に居たのだろう、と、ティア=アンはかすかに疑問に思ったが、それはすぐに、頭の隅へ追いやられた。可能性は幾らもある。妹のホーが、重い病で伏せっていたくらいだから、カイもあの頃は体が弱かったのかもしれない。貴族の男児は、十歳(とお)くらいまでは田舎で育つのが普通だ。王家も、空気の悪い都に居させるよりも、ここでのびのびと育てたほうがいいと考えたのかもしれない。

 カイは微笑む。

「君は優しくて、わたしが遊ぶのに何度も付き合ってくれた。あまり喋らなくても、気持ちが通じ合っているみたいで……本当に嬉しかった。君に、お嫁さんにすると、いっただろう?」

 そんな会話は、ティア=アンは覚えていなかった。そもそも、この山に関する記憶は、あやふやだ。

 カイは、ティア=アンの体を、そっと抱いた。「覚えていなくてもいいんだ。わたしは覚えている。君は承知してくれなかったんだよ。芥子色の髪がふわふわとなびいて、わたしの前から君は逃げていってしまった」

 求婚されて逃げるというのは、自分らしいような気がして、ティア=アンはほっとした。カイが勘違いをしているのではないかと思ったからだ。その反応は、とても、『ティア=アン・ケーナ』らしかった。


 カイは、さほど苦もなく、ティア=アンの体を抱え上げた。ティア=アンは手の置き場がなくて、彼の肩へそっとのせる。カイは、とても楽しそうだった。

「芥子色の髪のご令嬢を、ひとりひとりたしかめた。留学している間は、リスエロに手伝ってもらって。父上達には、カレンをすすめられていたんだが、わたしには彼女はあわないから……戻ってきてから、君しか候補者が残っていないといわれて、名前を聴いたら思い出したんだ。うまくティア=アンといえなくて、悔しい思いをしていたと」

「……ごめんなさい」

 言葉は、ひっかかりがちだったが、彼女の咽から出てきた。「おぼえていなくて……」

「いいんだ。これから、ずっと、わたしの傍に居てくれるだろう? ティア=アン? ほら、もう、きちんと君の名前を呼べる」

 カイの笑顔は、ティア=アンの気持ちを解す。求められているのも、王子の妻になるのも、こわいことだけれど、我慢できると思った。カイがこんなに優しくて、それに、こんなに、素敵な笑顔だから。

 少しだけ、勇気を出そう。そんなものないのかもしれないけれど、勇気を持って、カイの傍に居る。こわくても、つらくても、カイを笑顔にしたい。

 小さく頷くと、彼は本当に嬉しそうにした。






 リスエロは黄色い花を、器用に花束にしていた。三人はとぼとぼと、来た道を戻る。「ティア=アン」

 顔をあげると、ホーと、細身の若者が走ってくるところだった。三人は足を停め、カイは顔をしかめる。

「ホー。はしたないと、母上に叱られるぞ。ヴォス、君はホーを自由にさせすぎている」

「ティア=アン、これを」

 ホーは兄をまるっきり無視した。あおざめた顔で、ティア=アンになにかを握らせる。

 それは、やわらかい布の、巾着だった。小さなものだ。ホーは真剣な顔で、ティア=アンへいう。「困ったらこれを開けて」

「ホー、わたしの許嫁になにを」

「お兄さま、ティア=アンは繊細なひとなの。()()()ね」ホーは、ぱっと、兄を見た。嚙みつくようにいう。「これの中身は、緊張に効く薬。倒れたりしたら、彼女を悪くいうひとが出てくるでしょう」

 カイは片眉を吊り上げたけれど、それだけだった。ホーはティア=アンの手を握る。

「ティア=アン、ガウンのなかにこれを隠しておいて。わかった?」

 ティア=アンは、やはり、ティア=アンだった。強くいわれたから、頷いて、従うことにした。

 ホーは息を吐き、傍らの貴公子と腕を組んで、踵を返した。「困った時にあけるの。いい? わたしからの贈りもののことは、母上達には黙っていて」そういって、ふたりは逃げるみたいにいなくなった。




 天幕の傍まで戻ると、ティア=アンはカイからひきはなされ、婚礼衣装へのきがえがはじまった。支度を手伝ってくれるのは、王家の女達、それに高位貴族の娘や妻達だ。そこに、ホーの姿はない。カレンは着ぶくれていて、山は寒いわとぼやいた。

 カイも、あの建物で準備をしているという。あれは、最近建てられた離宮で、以前は別の建物があったそうだ。おそらく、ティア=アンの記憶にあるのは、古い建物だろう。

 婚礼用のガウンは、黒く染め上げた、はりのある絹でできていた。その黒は、本当の黒だった。光をすべて吸い込んでしまうような、漆黒だ。この国で、それほどまでの黒を婚礼衣装につかえるのは、王家のみである。

 黒いドラゴンは王家の印で、それにちなみ、この国で尊い色といえば黒だ。デビューの年のガウンも黒である。しかし、一般市民、そして単なる貴族風情は、王家のような黒はつかえない。

 盲目の職人がつくったという、宝飾品も、女達の手でティア=アンの体を飾っていく。華奢な宝冠、重たい腕環、豪華な首飾り、繊細な指環。すべて、真珠があしらわれている。遠く海から運ばれる真珠は高級品で、ひと粒でも家が建つ。それが、幾つもあった。

 光を吸い込むような漆黒のガウンの袖口に、女達の目を盗み、ティア=アンはあの巾着をねじこんだ。細いティア=アンの腕では、ガウンの袖は随分余裕があり、それくらいの芸当は可能だった。




 日が暮れていく。




 夕日に照らされ、山は赤くなっていた。

 天幕で、女達と一緒にじっと座りこんでいたティア=アンは、外から呼ばれて、女達に促され、出ていった。

 カイは居ない。王や、公爵達、その息子達、兵ならば居た。

 式の段取りを誰も教えてくれていない、と気付いて、ティア=アンは恐怖を覚えたが、カレンに背中を撫でられ、王后に優しく手をひかれて我に戻った。

「ティア=アン、さあ、いきましょう」

 四辺を見ると、皆、嬉しそうに見えた。微笑んでいたり、もっと大袈裟な笑みだったり、いずれにせよ()()()()()()()()ように見える。

 そのことに、ティア=アンは、ほっとした。皆、結婚式を、喜ぶべきものだと思っている。みんなが祝ってくれる。

 かすかな恐怖が、胸の底で芽を出したけれど、ティア=アンはそれに目を瞑った。






「ティア=アン、こちらよ」

 その『結婚式』は、ティア=アンの知識とは少し違っていた。

 大勢でぞろぞろと歩き、何故か、もう日があたらなくなったあの木の傍へと向かったのだ。離宮、もしくはその内部にある礼拝室で式を挙げると思っていたティア=アンは、戸惑ったけれど、促されたから従った。女達は、手に手に、ティア=アンのガウンや装飾品を持っている。それがどのような理由で、女達の手で運ばれているのか、そしてなににつかわれるのか、ティア=アンは気になったけれど、口にはしない。言葉はまた、彼女の咽から出てこなかった。

 先頭の貴族の男が、木の裏へまわりこむ。皆、それに続く。




 近寄るな、と命ぜられていた場所。

 頭のなかでなにかが警告している。

 心臓がはねるように動いている。




 次第に、ティア=アンの脚は、重くなっていった。なにかがおかしい。変だ。これは、変だと、そう感じた。ガウンのなかにある巾着が、どことなく気になる。脚をもつれさせ、転びそうになった彼女を、王家の男性が抱え上げる。ティア=アンはそれに恐怖したが、恐怖故に、寧ろ彼女は動けなくなった。誰かが、静かにいった。「そのまま運んでさしあげろ」「絶対に怪我をさせるなよ」「花嫁だ。丁寧に扱いなさい」

 あの、天をつくようなおおきな木を、まわりこむ。

 そこには、道があった。山を貫くような、隧道が。

 先頭の男性が、たいまつを掲げる。

 皆、吸い込まれるように、隧道へはいっていく。

 ティア=アンは息をひそめている。

 なにかこわいことがおこっている。それはわかった。わかったが、彼女はそれに抗う術を持っていない。

 心臓が高く、どくどくと脈打っている。うまく呼吸できない。なにかがおかしい。ついさっき、みんなとても嬉しそうで、とても喜んでいて、ほっとしたのに、これはなにかが()()。おかしい。絶対に、おかしい。




 隧道は徐々にひろがり、一行はまた、開けたところに出た。もう日は落ちているけれど、空は本当にかすかに、月か星のおかげで、明るい。

 そこは、おおきな石がごろごろしていて、苔や羊歯や蔦の多い、空気の淀んだ場所だった。木や草の匂いにまじって、なにかまた別の、いやな匂いがする。そこかしこに、ティア=アンのガウンよりは控え目な黒があった。

 一際おおきな石と石の間の地面には、裂け目がある。そこから、かすかに風が吹いてきていた。

「ティア=アン、あなたはとびきりの名誉を賜るの」

 王太后がいうのが聴こえた。

 ティア=アンはびくりとして、四辺を見る。

 その時、彼女は直感した。自分を見詰める、王家や、高位の貴族達の顔を見て、わかった。この場の誰も、自分を愛してくれてなどいないと。

 だが、必要としている。

 好きではなくても、必要ではある。

 彼女の()()()が、この国の高位の人間達に求められている。


 欺かれていたとわかった瞬間だった。彼女はあの裂け目へと放り込まれた。




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