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3.王子殿下のお言葉は




 ティア=アンは怯えていて、震えていて、黙りこくっていた。官女達は彼女を喋らせようというのか、しきりと菓子をすすめたり、詩の朗読を買って出たり、なにかしらの楽しみを提供しようとしたが、しかしティア=アンはすべて頭を振って断った。命ぜられれば屈辱的な仕種くらいするに違いない官女達は、ティア=アンが顔色を失って黙りこくっているのに、なんともいいがたい、奇妙な眼差しを寄越すだけだった。


 ティア=アンは、彼女達の気持ちを理解できない。考えられることは幾つかある。殿下に求婚されたティア=アンを、羨んでいるのかもしれない。このような任に就けて光栄だと、誇らしく思っているのかもしれない。どんな理由であっても、格下の家の娘にへいこらするのをいやがっているかもしれない。

 殿下に求婚されて、こんな馬車まで仕立ててもらって、なにが不満なのかと、ティア=アンに反発を覚えているかもしれない。

 ティア=アンは、自分だったらどうだろうかと考え、わからなくなってやめた。はっきりしているのは、自分なら、殿下と結婚できる娘を羨むことはない、ということだけだ。王家への輿入れなど、恐怖以外のなにものでもない。

 そう、自分ならおそらく、殿下と結婚することになったという娘を憐れむだろう。王家へ縛り付けられ、国民すべてから監視され続ける人生を強いられる女性を、心底憐れに思うだろう。




 馬車はずっと、さほど揺れずに動き、ティア=アンを少しずつ都へ近付けた。毎日、朝から昼まで、昼に休憩をとってそれから夜まで、馬車は絶え間なく動いた。途中々々、街に着くと、その度に馬はかえられた。あたらしい馬を買い求めることに、公爵はなんの躊躇もないらしい。気性の荒い馬は馬車をたまに揺らしたが、ティア=アンの首の骨が折れるようなことは、さいわいなかった。彼女にとっては残念だったのかもしれないが、ティア=アンは無事に、都へ近付いていった。

 公爵は気前がよく、なににつけ気がまわった。ティア=アンの馬車には毎日、極彩色の小さな、甘くて香りのいいお菓子が運び込まれ、香りのついた水も惜しみなく運ばれてきた。ティア=アンにはなににつかうかもわからない、見たこともないような遊び道具も、幾らかもたらされたが、それはすぐになくなった。

 ティア=アンは周囲の人間が考えているよりも、もっとずっと愚鈍だったのだ。遊びをさせると、長いこと考えこんで、すすまない。それはどうにもならないのだ。彼女はそうやって考えこむことを、いいことだとは思っていない。思っていないが、はやく決めようとしても、どうにもならない。迷って、なやんで、いつまででも考えこんでしまう。




 官女達が必要だとさえずれば、薔薇の蒸留水でも酒精で抽出した万作の水でも蓖麻子油でもはちみつでもなんでも、閣下はすぐに用意した。よいバターも、うみたてのたまごも、彼は懐からとりだすみたいに、どこからか手にいれてきた。その為に従者や私兵が走りまわっているのは、ティア=アンにでもわかった。少なくないお金が動いていることも、彼女は理解していた。


 官女達はそういうものをつかって、ティア=アンの肌をなんとかしようとしているらしかった。娘らしく滑らかな彼女の肌だが、しかし、官女らがあがいても色はどうにもならなかった。お肌()とても綺麗でらっしゃいますけれど、都の水で洗えばもっとお美しくになります、と、官女の無益極まりないお世辞は、ティア=アンを辱めた。酷くはずかしくて、ティア=アンは官女らに顔をいじりまわされる時間、肉体的な苦痛をたしかに感じていた。どうして、こうも、緊張状態を強いられないといけないのか、ティア=アンにはそれだけは、どうあってもわからなかった。

 自分の不器量さ、肌の色が、いやでいやでたまらない。蝶の(さなぎ)のように、みすぼらしいみっともない不器量な『自分』をぬぎすてて、なにか別のものになりたい。誰にも眉をひそめられず、陰口も叩かれないなにかに。

 或いは、そういう仕打ちをうけても、気にしないでいられるなにかに。




 公爵は気前がよく、多くのことに融通を利かせたが、ただひとつ、ティア=アンの姿が衆目にさらされることをいやがっていた。「あなたは殿下の許嫁ですから、無遠慮に眺めようとする者もある。そんな無礼はゆるせないからね」と、閣下はそれらしいことをいっていたが、要するに面倒なのだろうとティア=アンは理解した。

 少し考えれば、誰にだってわかる。ティア=アンは怯えて、目を伏せ、黙りこくるのが(つね)だ。殿下の許嫁に過剰に期待している民衆に、美しくもなければ朗らかでもない、おまけにちびで陰気な娘を見せるのは、心苦しかったのだろう。まわりまわって、王家の評判にまで響きかねない。

 ティア=アンだって、殿下が見初めたとあれば、美しく賢い娘を想像する。ところが、ふたを開けてみれば、みすぼらしいうすぼんやりした娘だ。それを間近で見せられたら、民衆の落胆はいかほどだろう。王子は、怜悧で学者とも議論し、のみならず槍の名手としても名の知られている。友好関係にある国へ留学していたような、活発で意欲も豊かなかただ。その妻になる娘が、おどおどした臆病者でゆるされる訳はない。


 だからティア=アンは素直に、官女達に囲まれて馬車を降り、民衆に姿をさらさないように努めた。民衆のがっかりした顔を見たくなかったし、王家の評判を落としたかどで罰せられたくもなかった。そうして、罪人のようにこそこそと民衆から姿を隠したティア=アンは、大概、その街の一番()()人間の家の、一番にいい部屋へ泊まった。

 宿などはつかわなかった。そのような場所に泊まってなにかあってはとりかえしがつかないから、だそうだ。一度だけ、どうにもしようがなくて、宿に泊まっている人間をすべて追い出して、ティア=アンがそこに泊まったことがあった。心苦しかったが、しようのないことだと閣下にいわれては、ティア=アンは黙るしかない。そもそも、彼女は常日頃から、ほとんど黙っているのだが。






 ティア=アンはずっと、疑っているし、信じていない。()()、自分のような愚鈍な娘が、王家に求められるのか。

 そんなばかげたことはありえないというのが、彼女の結論だった。どう考えても、どんな材料を思考のなかへほうりこんでみても、結論はかわらないのだ。まるで、すでに起こったできごとがかえられないように、ティア=アンの出す結論はどんな場合でも同じだった。これは()()()の、もしくは()()の失敗だ、と。間違って自分はここに居る、と。

 実際のところ、才もなく、美しくもなく、怯えていて黙りこくり、庭を眺めてぼんやりと夢想しているだけの娘など、誰も妻には求めないだろう。ティア=アンは、自分が男でも、自分のような妻はほしくないと考えていた。

 結婚などしたくはないが、もししなくてはいけないのなら、せめてびくついていない伴侶を求める。王家の男児であれば、結婚せねばならぬのは、そうだろう。しかも殿下は、歳のはなれた弟君以外に、兄も弟も居ない。いずれ玉座へ座るのは間違いないかただ。結婚は責務、せねばならぬのはティア=アンにもわかる。


 しかし、王家なのだ。財力だけでなく。権力も、それに不可思議な力まで持っている。王子ならば、どんな女性だって手にいれられる筈だ。王子に求婚されれば、大概の娘が喜ぶだろう。きらびやかな宮廷に住み、素晴らしいガウンを仕立て、好きなものを食べ、病をおそれることもない。家族や親族には、王家へ嫁いだことで誇りを持ってもらえる。王家の方々は整った顔立ちをしているから、そのことでも誰も文句はいうまい。

 第一、いやでも逆らえない。王家からの注文を断るなど、家が潰れてしまう。そこまでいかないとしても、断った娘はその後一生、誰とも結婚できないだろう。

 どんな美女でも、才媛でも、王子からの求婚を断る訳はない。誰だって選び放題なのだ。それなのに、殿下はティア=アンを選んだ。()()をほしがった。こんな途方もない話があるだろうか。これならばまだ、おとぎ話の亡霊やなにかのほうが、信憑性がある。






「力をつかえば、すぐに都へ行けるのだが」

 もうそろそろ都という頃になって、その街の執政官の(やしき)での、静かな食事の席で、閣下はいいわけのようにいった。「君に負担がかかるかもしれないのでね。あれは、慣れない人間は、酷く酔うのですよ」

 口振り、それに文脈から、不可思議な力の話をしているらしい、とティア=アンは判断する。

 不可思議な力は、王家と、限られた貴族にだけ発現する力だ。魔法、ともいうけれど、皆、単に力と呼んでいた。火をおこしたり、水を出したり、風を呼んだりできるという。それだけでなく、病を癒したり、長い距離を一瞬で移動することもあった。どれも、ティア=アン、そしてケーナ家には、無縁のものだ。ケーナ家は貴族だが、末端である。力はない。ティア=アンにも、そういう不可思議なところは、ひとつとしてなかった。


 王家と限られた貴族はつかえる、ということはティア=アンも知っているが、具体的に誰がどんな力を持っているかは、知らない。どうやら閣下は、長距離をすぐに移動でき、しかも、ひとをつれてそれをできるらしい。王家のひと達もそんなことができるのだろうか。

 護衛の為、壁際に立っているリスエロを、閣下は示した。リスエロはずっと、ティア=アンとつかずはなれずの距離で、一緒に行動している。彼はティア=アンをまもることに、心血を注いでいる。

「リスエロも力を持っているから、もしためしてみたければ、彼に頼むといい」

「閣下、お戯れはやめてください」

「戯れてなどいない……」

 閣下はくすっと笑い、どこかひややかな目でティア=アンを見た。ティア=アンは、手にしていたパンをひきちぎり、口へ運ぶ。官女がクラレットを注いでくれたが、それには手をつけなかった。ティア=アンは恐怖の為に、食が酷く細くなってしまっていた。やわらかいパンを食べ、あたたかいお茶を飲んだら、それでお仕舞だ。もともと痩せていたのに、体は尚更細くなり、ほとんど骨と皮だ。

 財力と、権力を持っていて、その上に不可思議な力まで扱えるひとに、妻として迎えいれられる筈がない。この世界でも特に優れたひと達が、陰気なちび娘を、王子の妻として認める訳がない。ティア=アンは、その思いを強くする。恐怖はどんどん大きくなっていく。






「姫さま」

 早手回しで、官女達はティア=アンをそう呼んだ。ティア=アンははじめ、自分が呼ばれていると思わず、反応しなかったが、今では一応、耳を傾ける姿勢になった。自分がいやがっても、どうにもならないものはどうにもならない。自らの意思とは関わりなく、婚約は結ばれてしまったし、そうなったら逃げようはない。

 とてもおそろしいことだった。ティア=アンにとって、王家へ嫁ぐというのは、途轍もなくおそろしいことだった。

 官女は微笑み、ガウンの裾を握りしめるティア=アンの手を、ちらりと見た。ガウンはあの、妹のお下がりではなく、道中あつらえたものだ。閣下がつれてきたなかには、お針も数人居た。その者らがすばやく、ティア=アンの為に縫い上げたのだ。目の覚めるような青のガウンは、ティア=アンを尚更痩せて、ちっぽけに見せたが、ティア=アンはそのことに文句をいいはしなかった。

 彼女は万事において、文句というものはいわないのだ。いったところでどうにかなるものではないと知っているし、不器量な娘が文句ばかりいっていると余計に不器量に見える、と、父に注意されているから。母も、不平不満はただでも美しくないお前を尚更醜悪に見せると、そう忠告してくれた。

「明日は都に到着いたします。殿下は首を長くして、姫さまを待っていらっしゃるでしょう」

 官女達は、曖昧に笑った。ティア=アンは笑わなかった。なにかの罠にかかった動物のような気持ちだったからだ。彼女は幼い頃、庭師がしかけた罠で、もぐらが死んでいるのを見たことがあった。自分に降りかかる不幸など考えもしなかったろうに、もぐらは溺れて死んでいた。小さく、やわらかい体は、ぐったりとして力がなかった。きっとあんな、みっともない、惨めな最期が、待ち構えているに違いない。


 例えば、名前の似た娘と間違われていた、とか。或いは、ティア=アンではなく、妹を望んでいた、とか。もしくは、殿下はなにか冒涜的な賭けでもしていて、それに負けたから渋々、ティア=アンを迎えることになった、とか。

 移動の間、ずっとそれを考えていた。幾らだってありうる。殿下ではなく、閣下が間違ったのかもしれない。ティア=アンではなく、誰か別の娘をつれてこいといわれていたのに、ティア=アンをつれてきてしまったのだ。そしてティア=アンは、宮廷で王子と謁見し、きっとこういわれる。『誰だ、この娘は?』『わたしはこんなみすぼらしい娘とは結婚しない』

 殿下はきっと、酷く怒るだろう。閣下もそうかもしれない。いや、閣下は後悔なさる。『みすぼらしい不器量な娘だから、違うと思ったのですが……』などと釈明しながら、ご自分が冷静さを欠いていたことを悔やまれるだろう。冷静に考えれば、わかることではないか。みっともない娘が、将来の王后になどなり得ないと。

 誰が失敗したのかが調べられ、その間にティア=アンはまた馬車へつめこまれて、領地へ戻る。長い時間をかけ、ちくちくと痛むおなかに下唇を嚙みながら戻ると、両親がティア=アンを叱責する。『お前などが殿下に見初められる訳がないのに、どうしてあの場で自分ではないといわなかったのだ? 少しでも自分に可能性があると、うぬぼれていたのか?』『ケーナ家は大きなはじをかかされたわ。ああ、それにしても、お前が人並み程度にでも見られる顔をしていたら、殿下だってこの娘でいいとおっしゃったかもしれないのに。少なくともお前を憐れに思って、いい縁談をまとめてくださるってこともありえたのよ』

 想像はついた。幾らでも、想像はできた。わかるのだ。両親のいうことは、ティア=アンはしっかりと、理解していた。自分がまったく期待されていないことも、邪魔にされていることも、家族からはずかしいと思われていることも。何故って、両親はまことに正直な人間達で、ティア=アンを面と向かって叱責するからだ。不器量で、みっともなくて、陰気で、ぐずで、()()()で、魯鈍だと。

 両親の気がすむのは案外はやいだろう。自分達だって手落ちがあった。(つね)から、陰気なこともぼんやりなことも、勿論ちびでみっともないご面相であることもわかりきっている娘が、王子に求婚されたことに、疑問を持たなかったのだ。両親は厳しいが、公正なところもあった。ティア=アンだけを責めるのはおかしいと、どこかで気付くだろう。

 両親に叱られたその後は、妹ふたりにくすくす笑われる。『まあ、都見物ができて、よかったじゃないの。シーズン以外の宮廷にもはいれたのだし、お姉さま、幸運だったわ』




 いやな想像に神経を圧迫されながら、ティア=アンは都へ辿り着いた。




 宮廷には、社交デビューの年に参じた。良家の子女は、年頃になると陛下に謁見するのだ。それが、貴族の間の通例になっている。

 シーズンのはじめに行われる舞踏会で、名前を呼ばれて陛下に謁見し、誰かしらと踊る。殿下がたのデビューの年とかちあえば、凄まじく盛大な舞踏会になるそうだが、ティア=アンのデビューは殿下とは重ならなかった。例年通りの舞踏会だ。といっても、貴族が主催のものや、田舎で催される舞踏会とは、比べものにならない。宮廷の大広間がきらびやかに飾り付けられ、デビューの印の黒いガウンに身を包み、宝飾品で飾られた令嬢達と、おろしたての黒い上着とシャツに丈の短いずぼん(ブリーチズ)、それにはやりの靴で誇らしげな貴公子達とが、ひしめきあっていた。


 ティア=アンはその年、たったふたりと踊り、後は壁際につったっているだけだった。当然だ。デビューの印の黒いガウンは、彼女を必要以上に痩せて見せた。もとが小さく、痩せているのに、余計に痩せて見えたのだ。それに宝飾品は、たいして財政的に余裕のないケーナ家のこと、祖母からかりたものや母のお下がりなどで、古くさく見場がよくなかった。おまけに、致命的にティア=アンに似合わなかった。やわらかい風合いの金をつかった首飾りであったら、彼女の顔色を少しはいいものに見せたかもしれないが、それは妹達のものになっていて、ティア=アンにはつかえなかった。

 彼女は骸骨のように痩せて見え、宝石だけがその外見に重量感を与えていた。あの年、彼女に踊りを申し込んだ貴公子達は、余程自分の膂力に自信がなかったのだろう。小柄で痩せたティア=アンは、令嬢達のなかでも一際、軽い。並みの男なら、簡単に抱え上げられる。踊りの時も、労せずして振りまわせる。


 翌年からは、ティア=アンは宮廷での舞踏会には顔を出さなかった。宮廷から招待されることはなかったし、両親はティア=アンの為に舞踏会のチケットを入手しようとはしていなかった。宮廷での舞踏会は、招待状がなくてもチケットがあれば参加できるが、チケットは高額だ。両親はティア=アンよりも、将来有望な妹達に、そのチケットをまわした。妹達なら、殿下に見初められるかもしれないと、そう考えたからだ。

 ティア=アンは両親の顔が利く社交場、或いは、招待状をくれた貴族の催す舞踏会へもいったが、それだけだ。行った、でお仕舞である。踊ることはあったけれど、上手ではない。ほとんど見ず知らずの男性と組むのがおそろしくて、ティア=アンは何度も気絶していた。まともに言葉を交わしたこともないのに、どうして体を密着させ、手を合わせ、踊らなければならないのか、ティア=アンにはわからない。そして、そのような間柄で、どうやったら器用に踊れるのか、それもわからなかった。

 そもそも彼女の体は弱く、長時間立っていることはつらいので、しばらく舞踏場に居るとそれだけで気分が悪くなった。ティア=アンは、控え室の長椅子の上で膝を抱え、ぼんやりしていることのほうが、ずっと多かった。






 デビューの年以来、訪れることのなかった宮廷に、ティア=アンをのせた馬車は静かに滑り込んでいった。

 宮廷の門を潜った馬車は、しばらく停まらなかった。宮殿の目前でやっと停まり、外から扉が開いて、ティア=アンは浅い息で馬車を降りる。人払いをしたと見え、傍に居るのは、ここまで一緒に移動してきた一行だけだった。ガウンこそ少しずつ違うが、同じ布を被っている所為で見分けのつかない官女達が、実に慇懃に頭をさげた。丁寧な仕種で、ティア=アンの手をとる。ティア=アンはひったてられた。上から覆い被さってくるような、威容を誇る宮殿へ、ひきずりこまれた。




 のしかかってきたら潰されそうな柱や、幾何学模様に配置された石畳、本物と見紛う黒いドラゴンの像などに、ティア=アンは眩暈を感じる。こんなにも巨大な建物だったろうか。まるで、デビューの年から背が縮んでしまったみたいに、以前よりも大きく思えた。彼女は圧倒され、萎縮していた。

「殿下」

 閣下の小さな声がして、それを遮るみたいに、忙しないあしおとがする。ティア=アンはびくつき、官女達がそれを咎めるみたいに、彼女をひっぱった。もう少し、歩かされる。

 ティア=アンは、おそれに俯けていた顔を、少しだけあげた。

「ティア=アン?」

 やわらかく、低く、甘い声がする。

 頬に手が添えられ、ティア=アンはそれに従って、顔をあげた。そこには、デビューの年に、遙か遠くから一度だけ見た、殿下が居た。


 濃い紫色の髪は、つやつやと長い。肩の辺りでひとつにまとめられていて、腰まで流れていた。はちみつのような色の肌をしていて、それはとても滑らかで、本当にはちみつを思わせる。瞳は、朝露に濡れた、やわらかくて愛らしいレタスのようだった。ごく淡い緑で、潤んでいる。切れ長の目に、はっきりした自己を思わせる眉、堅牢そうな輪郭、太い首。きちんとした服装の上からでも、鍛えられた体であるとわかる。厚い胸板に、乗馬に親しんでいるのであろう、長く筋肉質な脚、それから、頬にかすかに傷痕があって、ティア=アンは殿下が槍で鳴らしておいでだと思い出す。

 それにしたって、殿下は、絵に描いたような美男子だった。整った、麗しい顔立ちをしておいでだった。


 ティア=アンは、恐怖と不安で、はちきれそうになっていた。今に、殿下のあの美しい唇から、自分を拒絶する言葉が飛び出すだろう。『お前は誰だ。わたしが求婚したのは、こんなみすぼらしい娘ではないぞ』

 その瞬間をおそれて待つティア=アンに、けれど殿下は、微笑んだ。官女をおしのけ、まるでいとおしく思っているように、ティア=アンの手をとる。ティア=アンの、細く、肉付きの悪い、鳥の脚のような指に、自分の指を絡める。

「ああ、やはり君だった。ティア=アン、待っていたんだ。よく、わたしの求婚をうけてくれた」

 それは、ティア=アンがおそれていた言葉ではなかったが、結局のところティア=アンは恐怖した。間違いではなかった。このひとは『ティア=アン・ケーナ』を求めている。このひとと結婚する。王家へ嫁ぐ。王家の一員になる。これから一生、才覚があり容姿も優れたひと達のなかで、みすぼらしく愚鈍な自分をはじて生きないといけない。美しいひと達を見て、醜い自分を嘆かないといけない。




 恐怖は、激しい震えとなってあらわれた。顎の下で、帽子のリボンが揺れている。ただ、彼女はありったけの胆力をつかって、泣くことだけは避けた。泣いてどうにかなるものでもない。突然、訳のわからない婚約を望んだ王子が、ティア=アンが泣くことを想定しているとも思えなかった。ありとあらゆる力を持っているかただ。泣いて、機嫌を損ねたら、なにがあるかわからない。結婚がいやなのか、わたしを侮っているのか、といわれたら、ティア=アンは恐慌を来し。失神してしまうだろう。

 震えはどうしようもなかった。怯えて顔を伏せるティア=アンに、王子は気遣うような目を向けて、そっと彼女の肩を撫でた。大きな手はあたたかく、彼の生命というものを感じさせる。彼の血潮、魂というものが、たしかにそこにあるのだと思わせる。

 このひとはたしかに存在している。そして、『ティア=アン・ケーナ』を妻に求めている。


 殿下は気遣わしげに、ティア=アンの肩を撫でている。

「ティア=アン? 長旅で疲れたのか? 馬車がよくなかったのだろうか」

 返事はできなかった。ティア=アンは、喋ろうともしていなかった。殿下に対して、どのような口をきけばいいか、彼女の頭からはそれに関する知識というものが蒸発してしまっていた。散々礼儀を学ばされ、王家のかたにはどのような態度をとるべきか、賢くはない頭で、考えこみすぎる頭で、必死に覚えたというのに、それらは湯気のようにどこかへ消えてしまったのだ。


 さいわい、返事をしない彼女に、王子が怒ることはなかった。官女をひきつれた、きらびやかなガウンの少女がやってきたからだ。

「殿下、不躾です」

「ホー」

 少女は金髪をゆらしてお辞儀をし、ティア=アンと殿下の間に割り込む。ふたりの体がはなれた。ティア=アンは手を握られ、少女が手に汗をかいていることに気付いた。

 彼女の顔にも、ティア=アンはかすかに見覚えがあった。やはり、デビューの年に見かけただけだ。王家の人間の筈である。晴れた空のようなまっさおな瞳は、大きくて、きらめいている。少年を思わせる、きりりとした美貌だ。色に()()のある金髪は、不自然に短く切られていた。短すぎるから、病で伏せっていたのかもしれない。

 殿下は体を傾けるようにして、ティア=アンと目を合わせた。彼は背が高く、そうでもしないとティア=アンと目の高さが合わない。

「ティア=アン、彼女はホー。わたしの一歳(ひとつ)下の妹だ。君と同い年だよ」

「ご紹介どうも、お兄さま」ホーはどこかつめたく、突き放すようにいい、殿下を睨み付けた。「ご自分の名前も教えていないのに、妹を優先してくださってありがとうございます」

「ホー、そうつんけんしたものいいをするものではない」

 かすかに眉をひそめた殿下に窘められても、ホーはぷいと顔を背けるだけだった。機嫌がよくないようだ。しかしその美貌は、多少の無作法でかげるようなものではない。ティア=アンは彼女の顔に、しばし見蕩れる。こんなにも美しい妹を間近に見ていて、どうして、ちびで不器量な娘を許嫁にしたのか、理解できなかった。




 閣下が咳払いし、ティア=アンは我に戻る。憐れにも王子と王女の兄妹に邪魔をされた公爵は、ご自分の任をまっとうしようと、涙ぐましい努力をしている。

「ティア=アン、殿下にご挨拶を」

 促されたティア=アンは、ホーに片手を掴まれたまま、ぎこちなくお辞儀をした。その手を振り払うことがはたして礼儀にかなっているか、彼女にはわからなかったのだ。貴族の娘として、きちんと礼儀作法は学んでいるのに、肝腎な場面で知識が役に立たない。そもそも礼儀なるものをしっかり覚えていたのか、それすら自信はない。それらはどこかへ消えたきり、戻ってきていなかった。

 殿下は貧相なちびの娘のお辞儀に、ほうっと息を吐く。ティア=アンは、必死に息をして、実に小さく、言葉を絞り出した。「ティア=アン・ケーナともうします」

「ああ、知っているよ、わたしの花嫁」

 優しく微笑んだ殿下がそういうと、ホーは身をかたくした。どうやら、王女殿下には歓迎されていないらしいと、ティア=アンはそれにも恐怖する。怯える。きっと、王家のかた達のほとんどは、こんな反応をするだろう。いや、皆がそうかもしれない。少し……かなり()()()()殿下と違って。


 ティア=アンにはまったく理解できない殿下は、微笑んで、かすかに頷いた。

「わたしはカイツェルツという。カイでいい。そう呼んでくれ」

 ティア=アンは、もう一度、お辞儀をする。緊張と恐怖とで、動きは一度目よりももっとぎこちなかったが、誰もそれを咎めはしなかった。殿下などは、目尻を下げ、嬉しそうにしただけだ。ホーも、ティア=アンのお辞儀のみっともなさには、なにもいわない。閣下は微笑んで、黙っていた。ほっとしておいでなのだろう。彼は不器量な娘のおもりから解放された。無事、任務を終えたのだ。

 お母さまが居たらぶたれていたかもしれないと、ティア=アンはそんなことを、頭の隅で考えた。もっとしっかりおし、ティア=アン、どうしてお前は少しもまともに歩けないの。優雅に動けないのならじっとしていなさい、ティア=アン。まったくもう、お前とならば豚の子どものほうがずっと可愛げがあるわ。どうして何度もいわせるの、ティア=アン、どうして一度で覚えられないの。いつまでもだらだらと、本当にぐずなんだから、一体誰に似たのかしらね、あなた以外はみんなできてるのよ。お前ときたらねずみみたいにこそこそして、まったくもう、はずかしいと思わないのかしら……もごもごと喋るのじゃありませんティア=アン……ティア=アン、その顔はおやめ、胸が悪くなるわ、それでどうして殿方がお茶に誘ってくれると思っているの……ティア=アン、じっとしていたって刺繍はできあがらないのよ、お前が手を動かさなけりゃ針は勝手に動いてくれないんですから。それとも針が勝手に動くとでも思っているの? お前はそこまで愚かになったの?

 ……ああティア=アン、お前のようなみっともない子は、どこでだって見たことがない、ああ情けないったらありゃしない……。




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