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2.公爵閣下の手腕は




()()()()()()()、お姉さまなの?」

 女中達が古ぼけた、けれどしっかりと礼儀にかなうガウンを寝台へ並べるのを見ながら、妹は不満げだった。

 ティア=アンは汗を拭い、涙をこらえている。嚙みしめた下唇が痛い。これからなにが起こるのか、今なにが起こっているのか、わからない。

 手が痺れ、酷く震えていた。暑くもないのに、(てのひら)に汗がにじんでいる。無作法にもその(てのひら)を、部屋着の裾で拭いて、彼女は小さく息を吐いた。すべてが夢なら、と考えながら。もしくは、これが公爵の悪質な冗談、悪ふざけならと、願いながら。

 ティア=アンは端的に、おそれていた。これから起こることを恐怖していた。これまでにあった()()()を、両親がひとつも報せてくれなかったことも、彼女の非常な恐怖の原因だった。誰しもが隠しごとをしている。誰しもが、なにも教えてくれない。一から十まで知りたいのに、皆、ティア=アンはなにも知らなくていいと思っている。知らなくてもティア=アンは、いわれれば従うから、誰も配慮してくれない。


 妹は不満げに顎をしゃくり、その指示で侍女がガウンを一着、ティア=アンの体へおしあてる。腰がすぼまり、たっぷりした裾のそれは、ティア=アンの身長ではみっともなく見えるのがわかりきっていた。袖を通すまでもない。妹にもそれはわかったのだろう、無言で頭を振り、侍女達がガウンを提げる。

 邸のなかではめりはりのない衣裳を着ていてもゆるされるが、外へ出る、その上宮廷へ参るとなったら、礼を失しない格好で行くほかない。妹はティア=アンにあうガウンがないか、見繕ってくれている。正式な衣裳といっても、型は幾つもあった。千年以上前、時の王が定めた決まりに沿うていれば、融通をきかせていい。

「これならお姉さまでも着られるわ。少し調整すれば……お姉さま小さいから……」

 妹が示したのは、古くさい、くすんだ色合いのガウンだった。ティア=アンはそれが、年若い娘達が着るようなものではないとわかったが、口にはしない。

 ケーナ家は貴族ではあるが、王家とはまったく以て血がつながっておらず、領地もたいしたものではなく、したがって財政は豊かではない。美しい妹達は高位の貴族と縁付くことができるかもしれないから、毎シーズンガウンを新調できるが、ティア=アンにその望みはない。だから、ガウンは数シーズン前に仕立てたものしか持っていなかった。母は妹達を優先した。


 それで別に、不都合はなかったのだ。ティア=アンは体が小さく、最後にガウンを新調した時から、ほんのちょっぴりしか背が伸びていない。とりあえず寸法はぴったりだから、着ていても変ではなかった。遙か以前の流行だったものだが、野暮ったいと思われるだけで、無作法だと眉をひそめられることはない。

 彼女自身、自分が高位の貴族に気にいられると考えてはいない。幾ら親でも、自分に期待してくれていないのはわかっている。そんな情況で、あたらしいガウンをくださいとはいえなかった。ティア=アンにはそれは、どうせ、そんなにほしいものでもないのだ。人並み外れて小さな自分に似合うガウンなど、この世にありはしない。美しくもない娘を美しく見せてくれるガウンなど、あろう筈はなかった。

 だからティア=アンは、毎シーズン代わり映えのしないガウンで、壁の花になっていた。花飾りをかえてはいたが、それだけだ。何度も々々々花飾りを縫い付けられては外されて、ティア=アンの一張羅の胴着(ボディス)は、酷く傷んでいた。彼女が本当にほしいのは、美しい布のガウンでも、自分を美しく見せてくれる装飾品でもなく、誰からも干渉されず、したがって値踏みもされない、静かな時間だった。

 それはこれまでに、ほんのわずかしか与えられなかったし、今後は一切与えられそうにない。人間というのは位が高くなるにつれ、他人に振りまわされるようになるものだそうだが、王子の妻というのは一体全体どれだけの位だろう。


 婚約していない下の妹が選んだガウンは、ほとんど新品のような代物だった。妹がもっと小柄だった頃に身につけていたものだ。しかも、もとは大叔母のものだった。

 妹がどうしてもとわがままをいうから、大叔母のガウンを仕立て直したものなのだ。仕立て直して着てみたら、思っていた程素敵ではなかったとかで、妹はそれに数回しか袖を通さなかった。大叔母にしても、まだまだケーナ家が財政的に余裕を持っていた頃に娘時代を過ごしたから、シーズンごとに数着のガウンを手にいれることはなんでもなくて、仕立てたものの気にいらないガウン達は長いこと仕舞いこまれていた。そのうちの一着が、これだった。

 黒に近い濃い緑の厚い生地は、ほとんど同じだが少しだけ明るい色で、細かいパターンが織り込まれていた。優美で洗練された布地だが、布地が素晴らしくても型は古い。襟が高かった。正式な場に出ても無作法だといわれはしないが、古い型のガウンを着た野暮ったい娘だといわれるだろう。

 ティア=アンは、それくらいは我慢できるつもりだったが、妹が示したガウンを見た途端に口さがない連中のさえずるのを思い出して、自分がいかにそれをきらっているかを思い知った。だからといって、妹が選んでくれたものを、それはいやだといえるティア=アンではない。彼女は、異議を申し立てなかった。


 侍女がガウンを、丁寧に持ち上げた。淡い、くすんだ黄色のフリルが、胸許や袖口についている。前時代のフリルは、繊細で、ところどころ虫にくわれていた。()()らしきものもある。集まっているお針達が、見場のよくない部分をはさみで、また針で、とりのぞきはじめる。三人がかりのすばやい作業だ。妹はそれを横目に、首を少しのけぞらすようにして、ティア=アンを見る。

「お姉さま、いいでしょ」

 ティア=アンは、フリルが削りとられていくガウンを見ながら、小さく頷いた。ガウンの腰は酷く細いけれど、それに関しては彼女は、めずらしく不安を覚えなかった。ティア=アンは小柄で、痩せていて、なんにせよ服がはいらなかったということがない。布地があまってしまってみっともない、と母に叱られ、ガウンの腰まわりを(つづ)めたことなら、何度もある。

 妹が顎をしゃくると、妹の侍女達が近寄ってきて、ティア=アンを立たせた。ティア=アンはなにもいわず、彼女達の望むままに動いた。ティア=アンは臆病なのだ。誰かに逆らうことは、こわくてできない。それが誰であっても。




 妹の見立てはたしかだった。その古ぼけたガウンは、ティア=アンの背丈にはほとんどぴったりだったのだ。お針達が、すぐに腰の辺りを約めてくれて、体格にはぴったりになった。裾をひきずるのがみっともないように思えたけれど、妹はそれについてはなにもいわず、ティア=アンもだから、なにもいわなかった。フリルは、少々問題のある部分はなくなり、ほつれないようにきちんとした処置も施されて、どことなしぱりっとして見える。単に、垂れ下がるようにたっぷりしていたのが、()()や日焼けや虫喰いをごまかそうと、幾らか切りとられて、ぴんとはねるように元気になったのが、ぱりっとしていると感じただけだろう。

 濃い緑の優美な布に、もつれた芥子色の髪が、重なっている。次はこれを結い上げないといけない。ぐいぐいと髪をひっぱられる、おそろしい時間だ。だが、ティア=アンはそれにも逆らわない。女中達が何本もの櫛で、ティア=アンの髪を精々まっすぐに見せようとするのを、黙ってたえている。もつれ、ひろがった髪は、酷い香りの油をつけられてしつこく()かれ、きっちりとまとめられて、幾つものピンをうたれた。

 さいわい、化粧はまぬかれた。単純な話だ。ティア=アンに丁度いい白粉がない。真剣にさがそうとする侍女はなかった。どうせ、化粧などしてもしなくてもみっともないと、そういうことだ。


 妹はガウンと同色の帽子をどこからか持ってきて、ハットピンも見繕っていたが、いいのはなかったらしい。不満げに口を尖らせて、自分がつけていたものを外した。澄んだ金色の石がついているものだ。それと帽子を女中はうけとって、ティア=アンのまとめた髪をそれらで隠した。

 顎の下で、するりとした手触りのリボンが、結ばれる。

「まあ、いいのじゃない」

 姉を眺めまわして、妹はそういった。気のない様子だ。それから、ティア=アンの頬に、おざなりに口付ける。甘ったるい、白粉の匂いがする。妹とは三歳(みっつ)違いだが、彼女のほうがティア=アンよりも背が高かった。ティア=アンは小さすぎ、妹は年の割に大きすぎる。「お姉さま、それじゃあ、お元気で」

 あっさりとした別れの言葉に、ティア=アンは返事をできなかった。する前に、母の侍女達が来て、彼女を廊下へとつれだしたからだ。

 ありがとう、といいたかったのに、咽にひっかかって、出てこなかった。ティア=アンは、ガウンの裾を両手でおっかなびっくり持ち上げ、転ばないように神経を尖らせて、母の侍女達に促されるまま、外へと歩いていった。






 兄達は都に居て、この邸には居ない。妹は、どちらも出ては来なかった。見送りをしたくないのだ。それがどんな感情からの行動か、ティア=アンにはわからない。単に、公爵などというとんでもない位のかたと近付きたくないだけかもしれない。少しでも失礼があれば、家にまで累が及ぶ。それを考えると、両親がふたりを部屋へとじこめた可能性もあった。

 両親は、体裁を整えたティア=アンがのろのろと歩いてくると、顔をしかめた。体裁を整えたといったって、器量がどうにかなる訳ではない。ティア=アンは項垂れ、成る丈誰にも顔を向けないで歩いていた。

 誰に見せられるというのだろう。みっともない小さな鼻に、情けなく下がった眉、大きすぎる目、うすっぺらい唇。おまけに肌は、母がどれだけ気を配ってくれても、白くはならなかった。パンかクッキーかケーキか、そんなような色だ。食べものならば食欲をそそるが、妙齢の娘の肌ならば、子どもでもないのに日にあたってみっともないといわれる。日にあたっていても、あたっていなくても、ティア=アンの肌はそれくらいの色だった。気を付けても、どうしようもない。母が手にいれた化粧品でもどうにもならなかった。ひんやりつめたい化粧水をぬったくっても、クリームでどうにかしようとしても、どうにもならないのだ。妹達は、ぬけるように白く、美しい肌をしているのに、ティア=アンは窯から出てきたパンのようだった。だから、丁度いい白粉がない。


「ティア=アン、だらしないわよ。背筋をきちんとのばしなさい」

 めしつかい達に命じて、馬車に荷物を運びこませてながら、母はぴしゃりといった。ティア=アンはなんとか背中をまっすぐにし、両親からは顔を背ける。申し訳ございませんと口のなかでいい、それに母は、尚更顔をしかめた。「そうもごもごと喋るものではないと、何度いったらわかるの」

 ティア=アンは今度は、なにもいわなかった。ただ、頭をさげ、目を半分閉じて、嵐をやり過ごす体勢にはいっただけだ。母はこのところ、ティア=アンがなにをしても、こうやって厳しく指導をする。ティア=アンはそれを、非常に情けなく思っていた。いわれなくても、自分の態度が清々しくなく、見ていていらいらするものだということは、わかっている。わかっていて、どうにもできない。注意されてどうにかできるのなら、はじめからしている。


 母は呆れたように息を吐き、ティア=アンを一際激しく睨み付けた。時折、自分はこの、美しくて気位の高い、貴族女性然とした母の、血を分けた娘なのかと、そう思うことがティア=アンにはあった。あったけれど、それは間違いのないことだ。母とはひとつだけ、そっくりな部分がある。母もまた、ティア=アン同様、扱いづらい芥子色の髪をしている。

 母に自分のような時期があったとは思えないし、おそらくなかっただろう。だから、母娘であっても、気持ちが通じ合わない。聡明で、見目麗しく、はきはきと喋る母には、魯鈍で、不器量で、口ごもってばかりの娘の気持ちなど、理解はできまい。だから、ティア=アンは諦めていた。母に自分を理解してもらうことを、はじめから期待していなかった。『お金』というものを知らないひとが、そのつかいかたを想像できないように、母にも自分の気持ちは絶対に理解できない。彼女には、考えこむ性質(たち)も、言葉が出てこなくなる瞬間も、みっともない顔も、ないのだから。




 ティア=アンは母から顔を背けた。そうすると、荷物が運び込まれている馬車が目にはいる。その隣には、また別の馬車がとまっていた。どちらも、立派なものだ。そしてどちらも、ケーナ家のものではない。公爵閣下が持ってきたものだ。

 だが、閣下のものでもなかった。閣下はそれを、王家から託された。

 ティア=アン、魯鈍で不器量な、怯えきった娘をもらいたいと、頭がどうにかしているとしか思えない要望を出した王子が、結納の品をのせた馬車を閣下へ託した。それが、十日程前のことだ。その馬車には、ティア=アンとひきかえにする為のものがのっていた。金貨の詰まった袋が幾つも、宝石のはいった小さな箱がふたつ、磁器のセット、素晴らしい絹が何疋も、それに、価値の高い絵画や、薬材、めずらしい植物など……。

 ティア=アンは、自分にそれだけの価値があるとは考えていない。寧ろ、法外な持参金がなければ結婚できないだろうと考えていた。金貨の袋、それも相当な量がはいったものでもついていなければ、愚鈍な娘を妻にしたくはない。


 ()()、いつでもびくついている娘を、妻にしたがる。


 だから王子の行動は、ティア=アンにはまったく理解できない。貴族ではあるが、家柄はさほどよくはない。今年十七(じゅうなな)だという王子と、歳はつりあうのかもしれないが、それだけだ。

 ティア=アンが居ても居なくても、この世はうまくまわる。いや寧ろ、居ないほうがいいのかもしれないと、そんなふうにさえ彼女は思っている。自分が誰かの役に立ったとか、誰かに求められたとか、そんな経験はない。ぼんやりしていて誰かに迷惑をかけたり、黙りこくって相手を困らせたり、そんなことばかりだ。

 居ないほうがいい『自分』を、誰かがほしがっている、そのことが信じられない。理解できない。多くの人間が、金貨一枚とティア=アンを天秤にかけて、金貨をとるだろう。そもそも、天秤にかけるまでもない。比べるべくもなかった。

 そんな自分に、反対に沢山のものをくれて、頼むから王家へ嫁いできてほしいと願ってきたのだ。なにかしら、儀礼的な行動なのかもしれない。普通なら、こちらが頭をさげ、全財産をさしだしても、おいそれと結婚はしてくれないかたである。何故、自分なのか、あらためて考えてみてもティア=アンにはまったくわからなかった。


 からっぽの馬車のかげから、閣下があらわれた。従者や、私兵が一緒だ。兵は、ノウェスパル家の紋章のついたサーコートを着ているか、揃いの装備を身につけていた。大柄で屈強な男達に、ティア=アンはまた、体を震わせる。

 閣下はティア=アンの前まで来ると、にっこり笑った。

「やあ、先程は失礼した、ティア=アン。素晴らしいガウンだね?」

 ティア=アンは項垂れ、もごもごと、はい、といって、後は黙っている。従者も、兵士も、ティア=アンにへりくだった態度をとった。大柄な男性達にかしずかれ、ティア=アンは恐怖を覚えて、隠れる先をさがした。そんなものありはしないのに。

 閣下はどこかひややかな目で彼女を見ていたが、ティア=アンの父へ目を移し、謎めかした表情をうかべた。それはティア=アンにはなじみのないもので、一体どんな感情の発露か、はっきりとは判断しかねた。なんだか少しだけ、にやついているように見えなくもない。だが、根底にはたしかなつめたさがあった。

 ティア=アンの父は、謎めいた閣下の表情に、うっすら顔をしかめたが、それだけだ。ティア=アンは密かに、ふたりの顔付きを見ていた。閣下が父に目配せし、父は気まずそうだったと、それを覚えた。


「ティア=アン、これはわたしの息子だ。リスエロという」

 閣下はやわらかくいいながら、サーコートを着た大柄な青年を、集団からひっぱりだした。単なる私兵ではないことに、ティア=アンは少し驚いたが、青年がやわらかい顔立ちをしているので、少しだけ緊張が和らいだ。リスエロは父親とは違い、もっとはっきりした緑の髪で、彫りが深く、笑ったような目をしている。優しげな水色にかがやく瞳は、彼がまだ幼いことを報せていた。

「まだ十五(じゅうご)になったばかりだが、この体格で、頼りになる。野盗に襲われた時にも、彼に助けてもらった。都までまもってもらうことになっているから、安心してもらいたい」

 リスエロは喋らず、丁寧にお辞儀しただけだ。ティア=アンも喋らず、小さく頷いた。彼女は()()()だけれど、貴族社会で育っていたから、閣下とリスエロの間の、なんともいいがたい、かすかな空気に気付いた。おそらくリスエロは、閣下の庶子なのだろう。正式な妻以外にうませた子どもを、なにか理由をつけて家へと近付けるのは、殿方のよくやることだった。


 閣下の従者が、丁寧に手をさしのべてきて、ティア=アンはそれに掴まった。踏み台が用意され、馬車のステップの傍へ置かれる。これまでティア=アンに見向きもしなかっためしつかい達が、それをした。へりくだって、媚びるような笑みを見せて。

 めしつかい達にガウンの裾を持ち上げられ、踏み台に小さな足をのせて、ティア=アンは、馬車へのりこむ。閣下がつれてきた女性達が一緒だ。宮廷仕えの官女である。全員が、うすぎぬを帽子がわりにしていた。遙か昔のように思えるデビューの年、宮廷で見かけたことがあるから、それが官女の装いだというのはすぐにわかった。

 彼女らは、ティア=アンの身のまわりの世話をする為に居るそうだ。宮廷には宮廷の決まり、作法というものがあるから、それを教える係でもあるという。とはいっても、殿下の許嫁ですから、少しくらいの無作法はゆるされます、と、かすかな声で付け加える官女に、ほかの全員がお追従のように笑った。

 皆、二十歳前後で、ティア=アンに対して丁寧な口を利き、決して彼女の目を見ようとはしなかった。なのることもない。なにか用事があれば、名前を呼ばなくても声を発しさえすればいいのだそうだ。そのように、といわれて、ティア=アンは声を出さずに頷いた。


 官女らは全員、貴族の紋章のついた指環をしているから、その貴族の娘かなにかだろう。なかには、ケーナ家よりも余程、位の高い家の紋章も、あった。その家の、おそらく娘に、こんなふうに対応されるというのは、とても奇妙な経験だ。本来であれば、へりくだるのはティア=アンの仕事で、彼女達はティア=アンになど目もくれなくてもゆるされる。貴族といっても序列はあり、ケーナ家は下のほうだった。高位の貴族にとって、ケーナ家のような木っ端貴族は、ないようなものである。

 それが、今は反対に、彼女達がティア=アンにへりくだっている。いつでもティア=アンの要望をきけるようにだろう、やはり官女と思しい女性達が、菓子の箱や、香りのついた水の壜などを持ってきて、積み込んでいった。夢のようないい香りがして、きらびやかな菓子の箱が、ティア=アンの隣に置かれた。官女がはりついたような笑みで、箱を開ける。到底食べものとは見えない、極彩色の小さななにかが、そこには詰まっていた。


 両親が閣下と喋っているが、その声は小さく、近場で官女達が喋る声が大きく、また距離もあったので、彼女は父の唇の動きを見るだけだった。都、とか、無礼、とか、そんな言葉を口にしているらしい。

 ティア=アンの鼻先で扉が閉まり、彼女は項垂れて、膝の上で組んだ自分の小さな手を、じっと見る。きっちりとひっつめられた髪が重く、頭が痛かった。髪油の酷い匂いが、目をちくちくと刺すようだった。それと、極彩色の菓子の甘く、夢のような香りがまざると、ティア=アンには悪夢としか思えない匂いが発生した。突き刺すような鋭い香りに、頬を撫でられるようなやわらかく甘い香りが、同時に襲いかかってくるのだ。彼女は気を失いそうだった。気を失ったら楽だろうなと思い、そんなことをしたら両親がどれだけはじをかくか、とおそれた。

 両親とは別れの挨拶を交わさなかったと、ティア=アンが気付いたのは、馬車が走り出してしばらくしてからだった。




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