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11.乱心した許嫁は




 兵士達は、なすべきことをなした。彼らの職務をこなそうとしたのだ。突然出てきた、不審な、ぼろぼろのガウンの娘へ、槍を向けた。

 だが、天はティア=アンへ味方した。兵士達はおそらく、休憩でもしていたのだろう。座っていたのに槍を持って動いたから、体勢を崩し、その場へ伏せた。兵士達は喚いているが、ティア=アンはそれを無視して、ふたりを通り越し、小走りで外へ出た。

 しばらくぶりの屋外だ。空気は甘く、澄んでいる。ティア=アンは自分が血まみれなことも、ぼろぼろのガウンを着ていることも、宝冠がさがった(ベルト)をしていることも、すべてに目を瞑った。とにかく、外に出られたことが嬉しくて、すべてのことが頭からなくなったのだ。

 数回、深呼吸して、澄んだ空気で肺を充たすと、彼女が次に考えたのは、カイだった。


 カイ。


 ティア=アンは、気配に振り返った。兵士達が出てきて、槍をこちらへ向けている。どれくらいぶりかわからない、人間の眼差しは、やっぱりこわい。ティア=アンは目を伏せて、槍も兵士も見ないようにしていた。人間の本質なんて、そう簡単にかわりはしない。

 だから、ティア=アンは考えていた。兵士達が次になにをするのか、考えた。きっと、彼らは誰かを呼ぶ。ここから見える景色は、ティア=アンの記憶通りなら、宮廷の奥まったところだ。そこに不審者があらわれたのだから、単純に殺すようなことはしない。あの扉から出てきた娘は等しく殺せといわれているのなら、こうやって槍を向けて暢気に待ったりせず、すぐに殺している。

 彼らは対処を考えている。宮廷の奥深くで、唐突に出てきた、ガウンはぼろぼろだけれど宝飾品を呆れるほどに体にくっつけている娘を、さあどうしようか。そんなふうに迷っている筈。


 兵士達が顔を見合わせる。「どうしましょう」

「わからん」

 思った通り、ふたりは戸惑っているらしい。ティア=アンが咳込むと、ふたりともびくついて、彼女を見た。

 ティア=アンは、のそのそやってきた井守もどきを、そっと抱え上げた。大きくなったので、重さは増えた。抱え上げると、彼は器用にティア=アンの肩へのるので、重さはそんなに感じない。先程、捕らえた虫を食べたばかりで、機嫌はいいみたいだ。雲の向こうの太陽へ顔を向け、ふしゅふしゅと鼻息を吐いている。

 兵士達は、日光の許でティア=アンを見て、どうも、同情したらしい。小柄な娘が、ぼろぼろで血に塗れたガウンを身にまとい、ぼろきれで荷物をまとめて体へくくりつけているのを見て、憐れに思ったのだ。頷き合い、同時に構えを解く。

「とにかく、誰か呼ぼう。君、卿に報告してくれ。それから、(くりや)でなにか食べものももらってきてほしい。わたしはこの娘さんに、落ち着いてもらう」

 兵士の片方がそういって、短い(きざはし)を降りていく。口調から、おそらく貴族だろうとティア=アンは考える。耳になじみがあるからだ。或いは、貴族と接している所為で、喋りかたが移ったのかもしれない。どちらにせよ、兵士のなかではそれなりの階級だろう。鎧はぴかぴかに磨かれているし、槍も立派なものだったし、剣を佩いていた。マントもつけている。宮廷の奥にある場所で番をしているのだから、下っ端の訳はない。ここまではいれるだけの身分ではある。


 指示された兵士が、ティア=アンを安心させるように微笑んでから、肩のマントを器用に外した。

「失礼します」

 マントをティア=アンの肩にかけ、礼儀正しく頭をさげてから、走っていく。井守もどきがのっそり、マントをおしのけて、ティア=アンの頭の上にまで移動した。

 指示したほうが、お茶のマグを手に戻ってきた。ティア=アンがマントを掻き合わせるのに、ほっとしたような表情になる。裂け、破れたガウンは、ティア=アンの肌をだいぶさらしていた。それを隠したので、ほっとしたのだろう。そういう反応も貴族らしかった。

 井守もどきが肩へ戻る。兵士は、こちらへマグをさしだす。

「娘さん、咽が渇いているのじゃないか。お茶を飲む気はあるかい」

 咽は渇いているなどという大人しい言葉ではいいあらわせない状態だったから、ティア=アンはこっくり頷いて、彼の手からマグをうけとった。

 しばらくぶりのお茶は、甘く、あたたかく、いい香りがした。この数日(ティア=アンの感覚では、数日)は、虫ばかりだったから、信じられないくらいおいしく感じる。

 のみほしてから、ようやっと、声が出た。「ありがとうございます」

「いや。なにか食べられそうかな?」ティア=アンのかぼそい声に、余計に心配になったようで、彼は腰にさげた袋をとった。「生憎、ビスケットくらいしかないが」

 兵士は目をぎゅっと細くして、井守もどきを見る。どう対応したらいいかわからないようで、ティア=アンへ目を戻した。手にした袋を開ける。「ビスケット、食べるかい、娘さん」

 甘美な響きだった。ティア=アンは深く頷く。井守もどきが口を開け、舌なめずりした。兵士がびくっとして、声を一瞬震わせる。

「落ち着いたら、どこから来たのか話してもらいたい。知っているだろうが、宮廷は今、忙しい。王子が乱心した所為で、貴族達はもう何日も話し合っているんだ」






 心臓が停まるかと思った。

 兵士は袋を帯から外しながら、尚もぼやく。「貴族も混乱しているが、民達も混乱している。ご立派な王子殿下が、一体全体どうして、カレン嬢や官女達を殺そうとなんてしたのか。こちらが教えてほしいものだが、民達も不安なのだろう」

 カレンを殺そうとした。カレンを?




 カイが、カレンを、殺そうとした?




 喘ぐティア=アンに、兵士はぱっと、なにか合点したような目を向けた。同情的なのはかわらない。

「もしか、君は、それでここへ忍び込んだのか? ゆるしなく宮廷へはいるのは、罪になるんだ。知らなかったではすまされないよ」

「……でんかは……」

 ティア=アンは唾を()む。心臓がいやな動きかたをしていた。あの、裂け目へ放り込まれる直前のような、いやな感じだ。

 兵士は不審げに眉をひそめる。手が停まる。

「殿下は幽閉されている。そう発表があったろう。公爵閣下がえらくご立腹だそうだ。カレン嬢との結婚間際だったとかで」

 ティア=アンは踵を返し、歩き出した。兵士が呆気にとられた顔で、数歩ついてくる。しかし、彼はあの扉を見張るようにいわれているのだろう、階を振り返ったり、ティア=アンを見たりを繰り返す。「君、娘さん、待ちなさい。君、怪我をしているだろう。治療できる者を呼ぶ。それにここは宮廷だ。ゆるしをえた者しかはいってはいけないんだ」

 それなら心配はない。

 王子の婚約者が、宮廷へはいれないなんてことが、あるだろうか。

 ティア=アンはマグを捨てて足をはやめ、兵士が誰かを呼び寄せようと声を張り上げるのを、背中に聴いた。時間がない、と思う。大勢、兵士が来る前に、カイを見付け出さないといけない。あの兵士に不可思議な力がありませんように。どこかへ行って誰かへ報告してすぐに戻るようなことができないひとでありますように。

 誰かに邪魔をされる前に、カイを見付け出す。




 ホーに教わったから、宮廷内の構造は、赴いたことのないところでも、ティア=アンは知っていた。ホーは丁寧で、わかりやすい説明をしてくれた。そのおかげで、ティア=アンの聡明とはいえない頭でも記憶できた。

 井守もどきは、ティア=アンが走り出したからか、今は飛んでいた。ティア=アンの腰くらいの高さを、滑るように飛んでいる。高く飛ぶのはうまくないらしい。翼の大きさの割に重たいので、難儀するのだろう。

 幽閉、といわれて、ティア=アンが考えたのは、地下か、塔だった。どちらも逃げにくい場所だ。カイは王子で、不可思議な力を扱えるし、槍の腕も凄まじいと噂されている。そういう人間をとじこめておくのだから、しっかりとした錠のある場所だ。そして、大勢の、不可思議な力をつかえる人間で、見張っている。

 誰かに邪魔される前に、というのは、だから端から無理な話なのだけれど、それでも邪魔をしてくる人数が多いよりは少ないほうがいい。カイを見張っている連中は、多くても十人は居まい。ティア=アンにはさいわい、あの悪夢のような場所から持ってきた宝飾品が、大量にあった。さほど手間をかけずに買収することはできるだろう。

 見覚えのある区画へ走り込んで、官女達の姿を見た途端、水を浴びせられたような気がした。


 ぶわっと、これまでさほどでもなかった恐怖が、ふくれあがる。心臓が早鐘のように打つのを聴きながら、なんだ、と、ティア=アンは自分に失望していた。奇妙な生きもの達と不本意ながらも戦い、自力で外へ出ることができたから、恐怖には打ち勝ったのかと思っていた。

 だが、ティア=アンはたしかに恐怖を覚えていた。かつて自分が宮廷に居た頃、世話をしてくれた官女達に。

 その者らが、おそらく不可思議な力を持っているだろうと思ったからだ。あの頃、ティア=アンのまわりは、貴族、それも歴史の古い高位の貴族の縁者でかためられていた。彼女らが不可思議な力を持っていないなんてことは、考えられない。

 立ち停まったティア=アンに、官女達が気付いた。配膳でもしようとしているらしい。皆、手に々々食器やパンかごを持っている。

 官女達は立ち停まり、きょとんとした。とても不思議そうに、ティア=アンを見ている。どうしてティア=アンがここにいるのか、わからないのだ。わかる訳がない。穴へ放り込んで殺したつもりなのだから。

 彼女達もあの場にいた。ティア=アンに、婚礼衣装を着させる為に。

 カイ……。

 恐怖と、カイへの気持ちとが、せめぎ合い、恐怖が競り負けた。彼女らが不可思議な力を持っていようがいまいが、そんなのは関係ない。それをつかってくるかどうかもわからない。ここで死んだとしても、カイを見捨てるよりはいい。見殺しにするよりはいい。

 ティア=アンはぐっと口をひきむすび、帯から短剣をぬく。彼女らを買収することは考えなかった。何故なら、彼女らは、ティア=アンを攻撃してきたことがあるからだ。攻撃されて、宝飾品をさしだすのは、それは命乞いという。自分の命はどうでもいい、カイを助けたい。

 カイの居場所を喋らせる。

 短剣を手に走ってくるティア=アンに、官女達は息をのんだ。


 食器が落ちる。勿体ないことに、水が床へこぼれた。じゅうたんが水浸しだ。

 ティア=アンは先頭の官女の腕を掴む。震える手で、その喉笛へ、短剣をつきつけた。井守もどきが、足許へ落ちる。暢気に欠伸していた。

 ティア=アンは唾を()み、精一杯、先頭の官女を睨み付けた。器量よしでもない彼女がそうしても、平素なら官女らはなんとも思わなかったろう。威風堂々とした美形の王族や貴族らに、散々睨まれてきているのだ。ちびで子どもっぽい顔の、目ばかり大きい貧相な娘に睨まれたところで、どうとも思わない。

 しかし、今は情況が違った。死んだ筈の娘が、ぼろぼろのガウンをまとい、血まみれで走ってきたのだ。それも、ぴかぴかと光る短剣を手に、まっさおになって。

 効果は絶大だった。官女らは悲鳴をのみこむ。皆、驚愕に目を瞠り、紫色になった唇を震わせ、年若いのが粗相をした。声もなく涙をこぼしている。みんな恐怖というものがあるのだと、ティア=アンは頭のどこかで考える。それなのにどうして、怯えやすい、こわがりの人間を笑えるのだろう。自分にだってある感情なのに。


 みすぼらしい、ちびの()()()娘に、ちゃちな短剣をつきつけられてくらいで、怯えているくせに。


 怯えきって、がたがたと震える官女達なら、質問に答えてくれるだろう。ティア=アンはそう思った。

「カイはどこ」

 もしかしたら、官女へ向けて初めてまともに喋ったかもしれない。以前は、彼女らからいわれたことをこなすか、頷いて承知するかだけだったから。

 官女は震える手で、廊下の奥を示した。声も震えている。「と……塔……おしょくじをさしあげに……」

 ティア=アンは短剣を下ろし、彼女が示した方向へ走り出す。井守もどきがまた、低い位置を飛んでいる。

 カイの居場所を教えててくれたことに対して、礼はいわなかった。心のせまい自分を、ティア=アンは笑う。ただ単なる私的な感情で、彼女らに礼をいわなかった。

 ティア=アンは彼女達をきらっていた。心の底から。






 まともな覆いもしていなかったし、カイの幽閉場所はそう遠くはあるまい。ティア=アンは、一番近くの塔へ行った。短い階段をふたつのぼった先、せまい廊下を走っていくと、奥に、淡い黄色のガウンがちらちらと見える。

 ホーだ。その横顔が見える。金髪は少し伸びている。そのかわりみたいに、げっそりと面やつれしていた。可哀相に、首や手も、肉が減って筋がういている。ガウンがやたらと重そうに見えた。

「おねがい」ホーは、番をしているらしい兵士へ、掠れた声で懇願していた。「ひとめ、見るだけでいいの。お兄さまのお顔を見せて。謝らせて」

「殿下、困ります。何度いらっしても、お帰り戴くしかないのです」

 対応する三人の兵士は、弱り切った顔だ。「大罪人と殿下をあわせることはまかりならぬと、陛下が……」

 兵士のひとりが、走っていくティア=アンに気付いた。残りふたりも、ぽかんとしてティア=アンを見る。頭をさげていたホーは、ふっとこちらを見た。

 彼女もきょとんとした。それから、表情が崩れる。大きな目に涙がたまり、あっという間に頬を滑り落ちる。「ティア=アン、ああ、よかった、よかった……!」


 泣き崩れるホーに、ティア=アンは軽く頷いて、息を整えながら兵士達を仰いだ。全員、知らぬ顔だ。あの場には居なかった。それにまだ、攻撃されてはいない。

 ティア=アンは借りもののマントで顔を拭い、帯をゆるめた。宝冠や首飾りの大半を落とし、帯を締め直す。

「あげるからとおして」

「は……」

 意味がわからなかったのか、兵士達は怪訝そうに足許を見、ティア=アンを見た。ティア=アンは三人を睨む。宝冠を拾って、投げつけると、兵士はびくっとしてそれをうけとった。彼が手にしているのは、憐れな娘の誰かが身につけていたものだ。誰が見たって、ちょっとした城とひきかえにできるような代物だとわかる。


 口をぱくつかせる兵士に、ホーが泣きながらいった。「おねがい、彼女だけでも通して。彼女はティア=アン。ティア=アン・ケーナ。わかるでしょう。兄の許嫁です」

 その言葉で、兵士達の顔色がかわる。居住まいを正し、顔を見合わせた。

「殿下の許嫁といえば」

「リスエロにさらわれた」

「逃げてきたのですか、姫さま? あの武辺者から?」

 リスエロ?

 ティア=アンは眉を寄せる。

「リスエロはかかわりない」

「なんですって!」

「しかし、殿下は腹心のリスエロに裏切られ、あなたを失った所為で乱心されたと」

 なんとなく、筋立てが見えた気がする。リスエロは公爵の庶子だ。それも、不可思議な力をつかえる。つまり、嫡子や公爵の妻にとっては、厄介極まりない存在だ。なにかでもめて面倒になり、リスエロを追い払ったのだ。ティア=アンを口実にして。


 兵士のひとりが、背後にある扉に手をかけた。帯にさげた鍵をつかって、錠を外している。ほかのふたりが怯え声を出す。「おい!」

「いい。殿下はあんなにご立派なかただったんだ。姫さまが戻られたなら、正気をとり戻されるかもしれない」

「しかし」

「俺達は誰も殿下にあわせるなといわれてるんだぞ」

「知ったことか!」

 重苦しい音がして、錠前が外れた。兵士は潤んだ目で、仲間達を見る。「貴様らも、あのリスエロが殿下を裏切るなど信じられないといっていただろう。姫さまが戻り、リスエロは裏切っていないとわかれば、殿下は……」

 あとはもう、言葉にならない。兵士は泣きながら、座りこんだ。ティア=アンは大の男三人をおしのけ、扉をおしあけて、その奥にあるやけに急な階段をのぼっていく。背後で扉が閉まり、とじこめられたかもしれないと思った。




 階段は急勾配で、すぐに終わった。上にはかんぬきのささった扉があって、ティア=アンは重たいかんぬきを苦労してぬいた。ごとんと音をたて、ほうりすてる。

 両開きの扉をおしあける。

 彼は窓際に座っていた。そこに寝台があって、その上でまるくなっている。まるで、談話室から庭を見るティア=アンのように、鉄格子のはまった窓の外を見ている。

 紫色の髪は脂染み、ところどころ赤茶がへばりついている。結ばれていなかった。うすぎたない、頭から被るだけの服を着ている。

 部屋はひろびろしていたが、あるのは今にも壊れそうな寝台と、長いことまともに磨かれた様子のない便器だけだった。窓には鉄格子以外なにもなく、風は吹きこんできているが、空気は悪い。

 ティア=アンは浅い息で、そこへはいる。

 あの悪夢のような場所のほうが何倍かはましに思えるような、息の詰まる、殺風景な場所だ。

 カイが振り向いた。

 ティア=アンは悲鳴をのみこむ。

 カイの顔は、傷だらけだった。こびりついた血と、流れる膿に、虫がたかっている。首も、腕も、脚も。

 ティア=アンは駈け寄っていって、寝台へ上がろうとしたけれど、つまずいて転んだ。ぐっと下唇を嚙み、立ち上がろうとする。

 ばたん、と重たい音がして、顔をあげると、カイが寝台から落ちていた。脚がうまく立たないらしい。それでも、両腕をつかって、ティア=アンへと這いずってくる。

 ティア=アンは彼を、両腕で迎えた。ぎゅっと抱きすくめる。血と膿の匂いがした。カイは声を発しない。彼がなにか、想像したくもないような目に遭ったことは、わかった。怪我をさせられ、治療もしてもらえず、ここでただ生かされているのも、わかった。


 カイの頬を、そっと撫でる。

 ティア=アンは立ち上がり、マントを外した。カイの肩へかける。それから、すっかり細くなった彼の腕をひっぱった。彼は素直に立って、ティア=アンに導かれるまま、肩へ腕をまわす。

 ティア=アンは黙って、彼をその部屋からつれだした。カイは右脚がうまく動かないようで、ゆっくりと歩いた。ティア=アンはなにもいわず、彼と一緒に、階段を降りた。頭のなかで、ずっと考えている。誰が彼をこんな目に遭わせたのか。誰が彼を攻撃したのか。






 扉は半分閉まっていたが、とじこめられてはいなかった。ふたりに気付くと、兵士達が扉を開け、はっと顔色を失う。その足許には井守もどきが居て、なにか食べていた。兵士達の持っていた干し肉のようだ。先程、兵士の腰にさがっていた袋が落ちていて、そこから干し肉が覗いている。

 ホーは、兄を見て、まっさおになっていた。彼女も知らなかったのかと、ティア=アンは意外に思う。それから、面会できないようになっていたらしいことを思い出した。先程、兵士達とホーは、そのことで話していた。兄の顔を見たいと懇願するホーに、兵士達は申し訳なげにできないといっていた。

 ティア=アンは、カイをそこへ座らせた。兵士のひとりが走っていく。「水を汲んでくる」

「厨で酒をもらってこい。きついやつだ」

「合点」

 酒をもらってくるように指示した兵士と、もうひとりは、応急処置用らしい、清潔な手巾をとりだす。「殿下、失礼いたします」

 断ってから、ふたりでカイの顔を拭きはじめた。ティア=アンは、片方の兵士の手から、手巾を奪う。兵士はそれを咎めず、ティア=アンがカイの顔を拭くのを、悲痛げに見ていた。


 ホーが声を震わせる。「お前達、お兄さまがこんな状態だと知っていたの」

「知りません、断じて」

 兵士が強く否定した。

「われら、日に二回、官女らが世話に来る時にここを通す以外は、誰も通れないようにしているだけです。奥の階段をのぼらないように命ぜられていました」

「では……では……」

 ホーは喘ぎ、忙しなく目許を拭う。泣くまいとしているようだ。

 ティア=アンは汚れた手巾をたたみなおし、成る丈汚れていないところで、カイの顔を拭う。膿はある程度とりのぞけたが、こびりついた血はしつこい。洗うほうがいいだろう。

 ホーを振り返る。

「なにがあったの」

 ホーはしゃくりあげ、小さく嗚咽した。




 ホーは聡明で、その説明は端的でわかりやすく、要点をおさえていた。

 ティア=アンが居なくなったあと、カイはカレンと婚約し直した。

 ティア=アンが居なくなった直後にカレンとの結婚をすすめられたが、カイはその場では拒んだ。だがそのあとは、素直に陛下達のいうことをきいた。

 おそらく、そういう計画をたてていたのだろう。ティア=アンではなく、カレンがカイの妻になる筈だった。ティア=アンは不幸にもさらわれたことにして、カレンがかわりに妻になる。そういう筋立てだったのだ。

「あなたが居なくなって」

 ホーは洟をすすっている。「お兄さまは、なにもかもどうでもよくなったみたいに、見えた。あなたのことはどうでもいいのといっても、もうすんだことだとおっしゃって」

 ホーはしゃくりあげ、両手をぎゅっと拳にした。

「わたくしは、なんて配慮のないことをしてしまったのか。なんて心ないことを……お兄さまは、式の直前に、カレンを殺そうとした。お付きの官女達も。公爵にも襲いかかって……」

 理由は、いわれなくてもわかった。

 カイは、()()()、ティア=アンを愛してくれていた。

 ティア=アンを殺す計画に加担した者らを、ゆるせなかったのだ。


 兵士が走って戻ってきた。顔色が悪い。手にした酒壜を、一番階級が高いらしい兵士へ渡す。指示を出していたひとだ。もうひとりには、水のはいった把手付きの桶を渡した。

「まずいぞ」

「どうした?」

「騒ぎになってる。宮廷に無断ではいりこんだ娘が居ると。おそらく、姫さまのことだ」

「姫さまは殿下の許嫁だ」

 酒壜をうけとった兵士は顔をしかめ、キルクをぬいた。中身を、清潔な布へしみこませる。もうひとりが、水へ布を浸し、濡らして、カイの顔を拭う。

「殿下の許嫁で、以前こちらへいらしてて、宮廷へはいれない訳があるか」

「だが、そうらしい。陛下がおっしゃったといっていた。娘を見付けたら殺せと」

「しかし」

「殿下への沙汰も決まった。死罪だそうだ」

「そんなばかな話!」

 兵士達は絶句した。

 三人は黙って、カイを見る。ティア=アンは立ち上がった。ホーと目を合わせる。

 王女殿下へ軽くお辞儀してから、ティア=アンは、兵士達を見下ろした。「カイをつれてにげて」

「姫さま」

 兵士達は怯えたような顔でティア=アンを見上げ、ティア=アンは小さく頷いて、走り出した。来た道を戻った。

 井守もどきが飛んでついてくる。






 貴族達は話し合っていると聴いたから、ティア=アンは議場へ行った。兵士達とすれ違ったが、走ってくるぼろぼろのガウンのちび娘に、彼らは呆気にとられてしまっている。なかには、ティア=アンを知っている兵士も居て、そういう者らはおそろしそうに顔色を失い、武器をとりおとした。当然だ。殺された筈の娘が、元気に走りまわっている。悪霊か幻覚か、はかりかねているのだろう。

 議場の扉をまもっている従者も、ティア=アンを見知っていた。彼女が息を切らし、裂けたガウンで走っているのを見て、泡を吹いて倒れてしまった。

 なにがおそろしいのだろう。ただの小娘を、どうしておそれるのだろう。

 そんなふうに考えると、ティア=アンは笑ってしまった。


 扉が動かなくて、ティア=アンは従者を蹴った。跳ね起きた従者達は、彼女がなにもいわなくても、扉を示すと、おっかなびっくり把手にとびついた。

 ぎしぎしと重たい音をたて、扉が開く。

 奥には、貴族が雁首揃えていた。

 脂粉の香りがする。一段高いところに王が座り、隣に王后が居た。

 ティア=アンは、平伏し、震える従者達を尻目に、議場へはいった。




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