10.数え歌の最後には
目を覚ましたのは、ぐうぐうと声がしたからだ。
たいまつは消えてしまっていた。かわりに、あの犬もどきが数匹居て、おかげで視野は明るい。黒いのはばさ、ばさ、と、緩慢に翼を動かし、飛んでいた。甲高い声でなにかいっている。
犬もどきが一匹、なにかをくわえて走ってきた。蛭だ。蛭みたいなやつだ。ティア=アンはそれを視野にいれ、どういうことなのだろう、と、戸惑う。
そいつは、半分くらいに千切れていた。もう死んでいるだろう。ぴくりともしない。犬もどきはそれを、ティア=アンの腕へ置いた。ぐうぐうと鳴いている。今度はそれは、心配そうに聴こえた。心配してほしくてそんなふうに感じるのだろう、と思う。気持ちが弱っているから。弱い人間だから。すぐになにかにすがるから。
蛭みたいなのの死骸は、ひんやりつめたくて、痛みが少しひいた。
ふっと意識が途切れ、顔にもひんやりしたものがおしあてられて、ティア=アンは目をうっすら開ける。しっかり開けることはできない。さっきとは別の犬もどきの顔が、すぐ近くにあった。目の数が違うからわかる。そいつはなにかを、ティア=アンの口許へ持ってきていた。食べさせようとしているのかもしれない。集まっている犬もどき達からは、どうも、好意的ななにかを感じたから、ティア=アンは素直に口を開いた。
病を多く経験した彼女は、自分がどれくらい酷い状態か、わかっていた。今までのどの病とも違う。もっとずっと、悪い。黙っていても、遠からず死ぬだろう。ならば、助かるかもしれない行動をとるべきだ。少しでも、助かるかもしれないことをするべきだ。
あまりおいしくはないものが、口へはいってきた。獣の匂いがする。反射的に吐き出しそうになるけれど、ティア=アンは我慢して、それを嚙みしめた。簡単に解れ、のみこむ。
「ありがとう」
掠れた声に、ぐうぐう、と犬もどきの返事があり、黒いのがわさわさ飛んできて、小さな声で鳴いた。ティア=アンはまた、目を閉じ、黙る。息をすることだけ考える。呼吸をしないと死んでしまう。ここで死んでしまうのかもしれない。死んでしまうのなら、それはもう、仕方のないことなのだろう。
次、目を覚ました時には、犬もどきは居なくなっていた。菓子箱がふたつ、なくなっていたから、とられたのかもしれない。だが、はらはたたなかった。看病代にしては、菓子箱ふたつは安い。
袖は破れてしまっていたし、ガウンの裾も、もっと裂けていた。脚が見えてしまって、みっともないことだ。おまけに、短剣を一本失った。川へ落ちていった百足に突き刺したっきりだ。
ティア=アンは激しい咽の渇きを覚え、水の壜を開けた。水が傷むのがいやで、手にうけて飲む。ほんのふた口程度だ。その程度でも、今のティア=アンには相当な贅沢だった。
壜を戻し、腕を見る。破れた袖は血で汚れ、酷い有様だ。腕自体も、傷がついていた。くっきりと、咬み痕がある。
だが、それだけだった。腫れはひいているし、異常な熱さもない。黒ずんでいたり紫色になっていたりもしなかった。傷がある、という以外は、普通だ。
傍に落ちた、蛭みたいなものは、干からびて小さくなっている。あれで毒を中和できるらしい。便利なものだ。
それとも、食べさせられたなにかが、解毒剤だったのだろうか。なんにせよ、あの犬もどきには、助けられた。彼らのおかげで生きているのは、間違いない。
甲高い声をたてて、あの黒い、羽根のある井守みたいなやつが、のそのそやってくる。少し、大きくなった。というか、おなかがふくれている。虫を食べたのだろう。近くには、百足もどきの残骸が散らばっていた。この井守みたいなのがやったのかもしれないし、あの案外強いらしい犬みたいなのがやったのかもしれない。蛭を半分に引き裂いてしまうのだから、百足もなんでもないだろう。
井守みたいなのは、ティア=アンになついているらしい。彼女がおずおずと手をのばすと、それに頭をこすりつけてきた。それで、見ただけではわかりにくいけれど、小さな耳があると気付く。
そもそも、猿にしても井守にしても、この国には居ないと図鑑には書いてある。ティア=アンも、直に見たことがある訳ではない。図鑑で得た知識だけだから、それが間違っているかもしれないが、井守にははっきりわかる耳はなかったのではなかろうか。
「ありがとう。たすけてくれて」
疑問を頭のなかで転がしつつ、礼をいう。ティア=アンの声はぎこちなかったが、文句をつける人間は勿論居なかった。黒いやつは、笛みたいな声で鳴いただけだ。それが嬉しいのか哀しいのか、満足なのか不満なのか、感情はわからない。
植物がないのは、日光がささないからだろうか。湿気はあるが、植物は乏しい。時折、苔を見付けるくらいだった。黴臭いところが多く、そこで長い間とどまっていると咳やくしゃみが出た。ティア=アンはだから、休憩をとる場合、場所を考えた。黴臭くなく、攻撃的な獣や虫の居ないところで、荷物をひろげるようにしたのだ。あの百足もどきにやられた時みたいなのは、二度とごめんだった。あれはどう考えてもすきがありすぎたと、思い出して反省した。
袖をあたらしくしたティア=アンは、たいまつを点し、とぼとぼと歩いている。咬まれた肩はまだ痛むが、痛いからといってじっとしては居られない。あの場所に居たってどうにもならないのは、幾ら魯鈍なティア=アンにでもわかる。誰かが救いに来てくれる訳でも、その場に外への出入り口ができる訳でもない、というのは。
なら、動くしかない。ティア=アンがその結論を出したのは、すぐにだった。彼女は裂け目へ放り投げられたあと、最初に考える時間を多めにとって、それからはただ脱出の為に行動していた。考えこむことはやめなかったけれど、考えながらでもたいまつをつくったり、歩いたりした。脱出する、と決めたから、それ以降はその目標へ向かってひたすら、地道な行動をとっているのだ。彼女は不器用で、普通は考えながら行動することはできないのだが、自分で決めたはっきりした目標へ向かうことは、案外できた。考えこみながらでも。
どうせ、一度死んだ。
一度殺された。
ここで死んでしまっても、ティア=アン以外には同じことだ。彼女の苦闘も、ささやかな成功も、誰もなにも知らずに終わる。別にそれでもいい、とティア=アンは思った。悔しいとか、憤ろしいとか、そういう感情は彼女はもともとが希薄なのだ。怒ることもさほどなかった。だから今も、王家をおそろしいとは思うし、大変な目に遭っているとも思うけれど、恐怖が強くてそれ以外は微々たるものだった。
カイと結婚式をできなかったのは、悔しいかもしれない。
カイを喜ばせることができなくて、悔しい。
居なくなってしまったのを、カイはどう思っているのだろう。王家の伝統的な儀式だとしたら、カイにもそれを報せる。なにかしらの理由でティア=アンを殺した、と。カイは怒ったろうか。それとも、仕方のないこととして、受け容れたろうか。
ティア=アンが逃げたとか、結婚をいやがったということにされていたら、いやだ。カイを裏切ったことになっていたら、いやだ。
それはゆるせない。
とぼとぼと歩くティア=アンのすぐ後ろには、あの、羽根のある井守が居た。ティア=アンはなにもいっていないし、あいつもなにもいわないのだが、のそのそとついてくる。はじめ、虫をあげたので、ついていったら食糧にありつけると、そう思っているのかもしれない。今のところ、彼(便宜上、ティア=アンはその井守もどきを、雄だと捉えている)の食欲を充たすものはあらわれていない。菓子はきらいなようだ。百足もどきから救ってもらった恩義があるので、なにか食べさせてあげたいのだが、今のところ彼が興味を示したものはなかった。
百足もどきに襲われて怪我をする直前、右へすすむか左へすすむかで迷った道の、ティア=アンは右へすすんでいた。単純な理由だ。たいまつの火で見てみたら、その道の入り口辺りに、彫像があった。彫像自体は反対にもあったのだが、右は首飾りをよっつしていたのだ。
こんなものを誰がつくったのか、いつつくったのかもわからないけれど、そんなことはどうでもいい。考えてもわからない、それに、脱出に関係のないことを、深く考えなくていい。王家にゆかりのある地だというけれど、こちらのほうが王家よりも歴史があるのではないだろうか。ずっと昔、まだ王家が山を管理させていなかった頃には、沢山のひとがなかへはいっていたのかもしれない。
そう考えれば説明のつくこともあった。あの鳥のような石は、人工的な匂いがした。それから、犬もどきがティア=アンを見て怯えるのも、ティア=アンのような人間が以前は出入りしていて、そのひと達が犬もどきを攻撃したからかもしれない。犬は賢いから、多くの人間に攻撃されれば敵だと認識するだろう。あの犬もどきの記憶力がどれほどかはわからないけれど、犬よりも大きく、頭も大きいのだから、その分頭脳もありそうだ。
それから、この道もおかしかった。ここは明らかに、均されている。これまでの石のような地面ではなく、土に石畳が敷かれていた。都の通りのような均等な石畳ではなく、ばらばらの形状の石が組み合わされているが、充分手が込んでいた。これなら、馬車などでも通れるだろう。それに、川の反対側は斜面になっており、横道もあるのだが、たまにたいまつのようなものがある。突き刺された燃えさしの棒があるのだ。灯が点っていたら、道は明るく照らされ、歩きやすいだろう。もしかしたら、ここまでは、今もひとが出入りしているのかもしれない。
それは単純な希望ではなく、可能性だ。可能性として、考えた。ここへ誰かが出入りしているかもしれないとして、それは決して、ティア=アンにとっていいことばかりではない。
ひとが今もこの辺りまで来ていたとして、そのひとがティア=アンを助けてくれるとは限らない。王家のいいつけで、運よく生きている娘を見付け、殺しているかもしれない。それくらいのことは幾らでも考えられた。王家には権力、そして財がある。権力に従うことを渋る人間は多くないし、居たとしても金や宝石には従うだろう。脱出できたところで王家の差し金の人間が待ち構えていて、殺される、という可能性は、充分にあった。
それでも、命がある限り、なんとかしようとあがく。ここへ放り込まれ、死んでしまった娘達だって居る。運よく生き延びた以上、努力もせずに朽ち果てることはできない。
植物がない、などと考えていたからだろうか。道の向こうには、植物で覆われた部屋があった。
部屋、というか、空間だ。こちらにまで植物がはみだしている。羊歯……に、似ている。空間の内部は、茶色いふわふわのついた、花のある、濃い緑のそれで覆われていた。地面も、壁も、天井も、すべて。
ティア=アンは内部を見詰めていた。はいることはためらっている。その空間には、植物以外のものもあるからだ。地面を覆った羊歯から中途半端に見えている、人間の死体らしきものが。
人間以外にも居た。虫みたいなもの、猿みたいなもの、犬みたいなもの。どれも、生きているのとあまり見た目がかわらないけれど、生きていないのはすぐにわかった。ぴくりともしないし、一部は腐れはじめている。あの羊歯に殺された、ということか。
ティア=アンはそれを見ても、たいした恐怖は感じなかった。気持ちがどこかへ消えてしまったみたいに、こわいと思えない。
一度殺されたのだ。恐怖は、あの裂け目へ放り込まれた瞬間が最高潮だった。それ以降は、ゆるやかに下降している。まったくこわくない訳ではないけれど、考えるのが優先されることが増えた。ティア=アンは不器用で、複数のことを同時に考えられない。考えこみすぎても彼女を叱る人間はここには居ないから、ティア=アンは妙な獣を見付けたり、虫に飛びかかられたりしても、好きなだけ思考を巡らすことができた。そうしていると、恐怖は減る。
すすみたくはないのだが、来た道を戻ろうとも思えない。その部屋のような空間の手前、植物に浸食された地面に、指を伸ばした手のような形の石がある。五本指の。
井守もどきが、笛のような音をたてる。ティア=アンはそれを見た。彼は短い腕の短い指で、なにやら示している。天井だ。そこにはびっしりと、花が咲いていた。花はほとんどがそこへ集中している。白と、ピンクだ。斑なのではなく、白い花とピンクの花があり、まじりあって咲いている。天井から逆しまになって生えているらしい。つまりこの辺りは、ティア=アンが放り込まれたあの近辺とは違い、壁面も天井も土でできているのだろう。それとも、天井にへばりついているだけで、根は別のところにあるのだろうか。
羊歯が花を咲かすのかは知らない。羊歯に似ているだけで、ティア=アンの知らないなにかなのだろう。花はぼんやり光っていた。その光のおかげで、室内がよく見えるのだ。黄色っぽい花粉が、ふわふわと漂っているのも、わかる。
ばさ、ばさ、と、井守もどきが飛んでいった。おそれる様子はなく、その空間へはいっていく。天井へ近付いていって、花をむしりとった。ふらふらと戻ってくる。
短い指でさしだされたそれを、ティア=アンはうけとった。井守もどきは地面に落ち、小さく鳴いているが、意味はわからない。
花の匂いを嗅いでみる。菓子に似た、甘い香りだ。食べられそうだった。花粉も、なにかおいしそうな装飾に見えてくる。宮廷で毎日のように食べさせられた菓子は、見た目も凝ったものが多かった。はなびらが散らしてあったり、細かい砂糖を振りかけていたり。
じっと見詰めていて、ぴんときた。
ティア=アンがしたのは、単純なことだ。部屋へ、たいまつを投げ込んだ。
瞬きすらする間もなく、充満した花粉に引火し、爆発した。
ティア=アンは爆風でふっとばされ、気を失った。
目を覚ますと、井守もどきが鳴いていた。ティア=アンは体を起こし、髪を手櫛で整え、そちらへ向かう。
植物は燃えてしまっていた。黒焦げだ。炭だ。油分の多い植物だったようで、すっかり燃えてくすぶっている。とりこまれていた死体も、黒く焦げている。
井守もどきはそこへのそのそとはいっていったが、体が汚れそうなので、ティア=アンは彼を抱え上げた。井守もどきはいやがらない。ティア=アンは、黒焦げになったその空間を横切り、通りすぎた。
溜め息が出る。
奥に、これまで見たよりもずっとひろい道がのびているのだが、そちらも植物で埋まっていたのだ。そのうえ、また、奇妙な生きものが居る。烏の羽根のように黒くつやつやした、大きめの虫だ。細長く、楕円形で、前後はわからない。人間の上半身くらいはある大きさだ。あの植物を食べているらしい。それが、大量に居た。
通らせてもらえるか、ためしてみた。通路へ足を踏みいれたのだ。その瞬間、虫達は一斉にティア=アンへ向かってきた。成程、あちらが前なのか。口を開いて、ティア=アンの爪先へ嚙みつこうとしている。氷のつぶてみたいなものを飛ばしてくるのも居た。不可思議な力を持っているらしい。
ティア=アンは数歩戻り、井守もどきは荷物へ掴まらせて、たいまつへ火を点けた。更にさがって、今度はかなりはなれたところから投げたので、爆発にはまきこまれない。虫は火に弱いのか、爆発の時通路に居たものは動かず、ただじっとして、焼かれていた。火は奥へ々々と延焼しているようで、爆発音が遠くから聴こえる。
たいまつが減ってしまったので、ティア=アンは幾らか戻って、斜面につきささったたいまつを拝借した。布がたっぷりまかれ、油脂もしみこませてあるそれは、頼りになった。
井守もどきは、素直にティア=アンの荷物に掴まっている。焦げで汚れるのはいやなようだ。だが、虫には興味を持っていた。通路から追ってきた数匹を、ティア=アンは苦労して短剣で殺し、井守もどきはそれをうまそうに平らげた。これで、少しは恩を返せたろうか。
食事の後、しっかり用足しもしていた井守もどきは、けふけふと数回おくびをだした。よくよく見てみれば、目はむっつではなく、やっつだ。黒焦げになった虫を脚で退かしながら歩き、ティア=アンは、もう少し食べさせてあげればよかったかなと、少しだけ思う。しかし、物資に乏しいので、ここに長時間居たくはない。申し訳ないが、成る丈はやく出ていきたかった。
通路は随分長く、くねくねと曲がりながら続き、やっと終わったと思ったら、また、明らかにひとの手のはいっているらしい場所に出た。壁に武器が掛けられ、火の消えたたいまつがあり、きっちり封をした木箱が数個置いてある。あまりいい雰囲気ではないので、ティア=アンは木箱には近寄らなかった。おそろしいものでもはいっているのではないかと、しばらくぶりに恐怖がふわふわとふくらんでいく。開けた途端に、百足もどきが飛びだしてくるのを想像してしまう。
壁にかかった武器は、宝石などの飾りの少ない、大振りなものだ。剣に槍、戈などである。それらにも、ティア=アンは近付かない。見るからに重たそうだし、手にしたところで扱える自信はなかった。短剣だって、むやみやたらと振りまわしているだけなのだ。あのような大物を持ったら、自分を傷付けてしまう。不器用で、のろまで、愚鈍だから、武器を正しく扱うことはできない。
井守もどきは、ティア=アンの持つたいまつの火を反射する、大振りの剣に、短い手を伸ばした。ぱたぱたと上下させている。ティア=アンの荷物から、べちゃりと地面へ落ち、そちらへのそのそと移動していった。大きさ、それに重量の割に、井守もどきは動きがすばやい。
ティア=アンは武器に興味を示した井守もどきを放って、その場所からのびている通路を覗きこんだ。部屋のようになった場所は円形で、通路は複数ある。大体どこも、覗きこめる範囲の壁に、人工的に見える彫刻があった。幾つかはあの植物に占拠されていたが、占拠されていない場所はすべて、武器のような彫刻をしてある。
そのうちのひとつの通路は、矢をつがえた弓の彫刻がしてあった。弓のまわりには矢が五本描かれている。つがえたものとあわせて六本だ。数え歌の通りに。ティア=アンはそこへ足を踏みいれ、剣をとるのを諦めた井守もどきがついてきた。
その先には、猿もどきのもっと性質が悪いようなのが居た。二足歩行で、ティア=アンよりもずっと大きい。赤黒いつるりとした肌で、頭らしきものがなく、こちらは猿もどきと違って、やけに腕が長い。縫い目を隠すみたいに、布を被っている。帽子、とティア=アンには見えたが、よく見ると単なる布がほとんどだった。たまに、きちんとした鉄兜を被った者も居たが、人間用のものみたいで、だから頭のないそいつらには無用の長物である。ころりと落ちるのがほとんどだ。それ以外にもところどころに、悪い冗談のように、布をまきつけていた。猿もどきというより、人間もどきだ。そいつらは、時折あるやけにひろい空間や、部屋のようなものに、数体かたまって立っている。
最初は、一体だけ見付けた。あちらが即刻向かってきたので、対処した。
短剣を振りまわすのは、まず愉快なことではない。当然だが疲れる。楽しいとは思えない。だが、誰かが肩代わりしてくれるでもなし、こちらも命がかかっているしで、せざるを得ない。ティア=アンだって本意ではない。少しでも体力を温存したいのに、どうして戦わねばならぬのか。無駄極まりない行動など、誰もしたくはない。特に、訳のわからない場所へとじこめられていて、どうにかして脱出しようと頑張っている時ならば、尚更無駄な行動はしたくない。
ティア=アンはけれど、やむにやまれぬ事情というものの所為で、またしても、むやみと短剣を振りまわした。たいまつを振りまわした。猿もどきと同様、肩口の糸のようなものが急所らしいし、そいつらは火に相当弱かった。おまけに、なんの為なのか、燃えやすい。たいまつをおしつけて、身にまとった布を燃やしてやると、そいつらは自分もたいまつであるかのようにめらめらと燃えた。井守もどきはそいつらの味には興味がないらしく、燃えたのも、燃えていないけれどどうにか殺したのにも、目もくれない。
途中、さしこむように腹部が痛んで、ただでもうんざりするのに、尚更うんざりすることになった。予定と違う。用意はないというのに。
うんざりする一本道の終わりに、道を塞ぐように、人間の死体があった。
まだあたらしいように見えるが、あの金髪の娘や黒髪の娘ほどではない。それでも、表情はわかるし、生前はかなり美人だったのだろうと感じる顔立ちだった。身につけている、破れた漆黒のガウンや、宝飾品で、彼女が自分と同じような目に遭ったのだということはわかった。
その娘は、わずかに微笑みを湛え、細身の剣を抱くようにして息絶えていた。
ティア=アンは、その娘の傍に座りこんでいた。彼女を悼んでいるのではない。そんな余裕は、ティア=アンにはなかった。
娘が寄りかかっている壁に、酷く震え、不格好な字を見付けたのだ。おそらく、彼女が彫り込んだものだろう。それは乱れた筆致だったが、ある程度判読はできた。
『わたしの後にここへ来るかもしれない娘達へ』
『わかっているでしょうが数え歌の通りにすすんでください わたしは忘れてしまった』
『このすぐ次の部屋の水はいけません 毒ですひ とつ向こうのものを』
『もしあなたが 出られたら ミーグァ家へこの指環』
『王家』
『黒いドラゴンよ どうしてわたしがこのような目に遭うのですか』
『みな しんで しまえばいいのに』
『ラル殿下に特大の不幸が訪れますようにあの卑怯者クソ女も無残な死にかたをしろ弑逆されてしまえ』
ほかにも彫りあとはあったが、文字としては意味をなさない。力尽きたのだろう。文章を読んでから確認すると、死体は黒ずんだ銀の指環を握りしめていた。破れ、裂けたガウンの裾の間に、錆びた短剣もある。その刃先に泥がついているので、文章はそれで彫られたらしい。
ラル『殿下』、とあるのだから、王家の関係者だろう。彼女はその人物の妻になるつもりで居たのに、ここへ放り込まれたらしい。ミーグァという家名には、覚えがあった。もともと伯爵家だったが、たしか、些細な失言で改易されている筈だ。今の王にたてついたというのが理由だった。ティア=アンはそれを、祖父が読みたいという本から知った。下らない、醜聞を集めた本で、普段祖父が好むようなものではなかった本だから、余計に覚えていた。
ティア=アンは死体を観察し、迷って、結局指環をとった。自分の手につける。剣を持ち上げようとしたが、細身といっても重量はあり、ティア=アンの腕力ではどうにもできない。諦めて、立ち上がり、憐れなミーグァの娘へ頭をさげた。
ミーグァ家は改易の憂き目に遭ったが、一族が死に絶えた訳ではない。さがせばどこかにはいるだろう。外に出て、それをする余裕があればするし、自分でさがせなくとも、金を積めばしてくれる人間は居る。同じようにここへ放り込まれ、ろくでもない目に遭った娘の、最期の頼みだ。それに、水の情報をくれた。恩に報いたい。
ティア=アンは頭を上げ、歩をすすめる。
娘の書いていた通り、次の部屋(もう、はっきり部屋でいいだろう。石を打たれた床に、均された壁、しっかりした天井まである)には水があった。部屋の隅に水が湧いているのだ。それは綺麗なように見えたが、ティア=アンは手をつけなかった。いきものがひとつも居ないし、植物もその周囲にない。水になにかしら、問題があるのだろう。もしかしたらあの娘は、その毒にやられたのだろうか。
次の間へ行くと、壁の傍に石造りの台があり、そこに水がたまっていた。壁を伝ってくるもののようだ。台には黴と藻がはえ、汚い。井守もどきがそこへふらふらと飛んでいって、水を飲みはじめた。害はないらしいから、ティア=アンは手でそれを掬い、すすった。ぬるついているし、臭く、味は悪いけれど、のみこめないことはない。毒さえなければかまわない。
ティア=アンは、まだ水を飲んでいる井守もどきから目を逸らし、その部屋にあるふたつのアーチを見て、息を吐いた。ミーグァ家の娘が憐れだったのだ。アーチの片方には、雫のような模様があった。きっかりななつだ。もう片方は、四角がななつ。どちらも『七』だから、彼女は判断つかなかったのだ。
ティア=アンはたいまつを掲げ、雫のアーチを潜る。水を飲んで元気が出たのか、井守もどきがついーっと飛んでついてきた。
しばらく行くと、霧が出てきた。体にまといつくようなそれは、非常に不快だ。ティア=アンは息を浅くして、ゆっくりすすんだ。不快なだけでなく、霧のなかから不意に、なにかが出てくる。それはティア=アンに敵対的な行動をとるので、ティア=アンもそうせざるを得なかった。さいわい、がたの来ている短剣で突き刺しても、それは落ちて動かなくなった。虫に似た形状のものだ。ひっくり返っているそれを見て、井守もどきは嬉しげにした。食べはじめたので、分割して持っていった。それは沢山出てきた。そいつらも不可思議な力を持っていて、攻撃的だった。氷のつぶてや火の塊や、雷まで飛んでくる。
通路をぬけると、また部屋がある。そこには、木箱にいっぱいのたいまつがあった。それも、数箱。蓋はされておらず、つかえるかどうかわからなかったが、ためしに火を点けてみるとしっかり燃えた。だからティア=アンは、そのうちの数本をもらい、帯へはさみこんだ。
きっと誰か、あの場所からこの道を通って脱出した。そして、道すがらにあったものを数え歌の形で後世に残した。そういうことなのだろう。
その部屋で、布でできた百合を見付けたティア=アンは、そう確信した。正しい道を知った誰かが、数え歌にしてそれを遺し、そのあとでまた別の誰か(複数人かもしれない)がここを整備した。その時に、数え歌の通りになるように、アーチに雫を彫ったり、偽物の百合を置いたりした。雫とか百合とかは、おそらく昔は、そのように見える自然のなにかだったのだろう。『手袋』や『首飾り』も。してみると、数え歌をより強固にする為に、こういう諸々が用意された、のだろうか。
布の百合は、ほとんど朽ちていたが、二本だけ残っていた。部屋は四方向にアーチがあり、そのうちひとつはティア=アンが来た通路へ通じている。残りみっつの通路の傍には、それぞれ百合、葡萄の花、薔薇の偽物がある。ティア=アンは迷いなく、百合を選んだ。
通路にはいる前に、もし次にここへ誰かが来たら、と考えて、短剣で壁に百合と彫っておいた。
道は何度か曲がった。霧のなかからふわふわと飛びだしてくるものが居て、それはティア=アンを攻撃してきたので、彼女はお得意の短剣振りまわしでどうにかしようとした。相手は宙にういているのだが、夜光貝に似ている。かたくて、棘まである。おまけに不可思議な力を持ち、光線を放った。ティア=アンは何度もそれに刺された。顔や頭、頭を庇った腕がおもに被害に遭ったけれど、肩や腹部にも襲いかかられた。ガウンはあっという間にぼろぼろになり、ティア=アンは血に塗れた。
だが、対処方法はある意味簡単だった。その飛ぶ夜光貝もどきは、貝殻の一部に割れ目がある。そこに短剣を突き刺せば、地面に落ちて動かなくなった。ティア=アンは地道に、夜光貝を退治しながら、ひたすら歩いた。頬が破れても、ガウンが裂けても、頭にぶつかられて片方の耳から血が出ても、たいしたことではない。実際に起こるこわいことよりも、想像する恐怖のほうが、ずっと大きいと、ティア=アンは気付いた。
落ちた夜光貝を、井守もどきは食べた。殻がおいしいのか、それをばりばりかじっている。随分簡単に嚙み砕くので、驚いた。最初は、虫をかじるのすら難儀していたのに。
血が出てしまっている左耳が聴こえないが、ティア=アンは特にそれを気にはしなかった。音を立体的に捉えられなくなるのは不便だけれど、まだ右耳はつかえる。起こってしまった物事より、起こるかもしれないなにかのほうが余程おそろしいというのは、一体どうしてだろう。
空飛ぶ夜光貝が出なくなったところで、さっとガウンを脱ぎ、あたらしいものにかえた。あの、くすんだ緑のガウンだ。ぼろぼろになった花嫁衣装は、申し訳ないけれど、その場へ放置した。荷物になるものは、捨てていくしかない。
九は、杖。十は、剣。十一は、サンダル。その要領で、数え歌は続いていく。ティア=アンは、祖父ががなるように歌っていたのを思い出した。おじいさまは今、どうしているだろう。元気だといい。少しばかり頭がぼんやりしてしまっても、元気なら。
耳が聴こえなくなっても、傷だらけでも、血まみれでも、生きている限りは生きなくては。
疲れているし、眠りたかったが、妙な生きものの所為で簡単には眠れなかった。ティア=アンは痛む足をひきずって歩き、気付くと寝ていた。おそらく気絶したのだろう。そういうことは数回あった。日も差さず時間はわからず、そうやって気絶したり、以前虫に遣られて高熱を出したこともあって、自分が果たしてどれだけここに居るのか、どれだけの時間が経ったのか、ティア=アンにはまったく見当もつかない。
二足歩行する守宮のようなものも居たし、宙にういた雲丹も居た。ひとに非常によく似たなにかも。みな、攻撃してきたから、反撃した。不可思議な力をつかうやつらで、大変だったが、なんとかティア=アンは生きていた。猿もどきや虫もどきにもまた会った。犬もどきはやっぱり、好戦的ではなかった。奇妙な生きもの達は当たり前のようにやってくる。ティア=アンは自分に好戦的な相手には、やりかえした。どんなことをしてくるか、どんな生きものなのかを、観察し、考察した。それは、このような場所で、指示を出してくれるひとの居ない彼女にできる精一杯だった。精一杯生きようとし、どうにか脱出しようとした。
次第に、どれにどう対処すればいいか、わかった。わかっても、どうしてできるのかは不思議だった。のろまな自分が、相手に攻撃をあてられるというのが、変な感じだ。
食べるものがなくなって、菓子箱は幾つか捨てた。井守もどきが食べているものを分けてもらって、少量食べた。下すようなことはなかったが、おいしいものでもない。ティア=アンは蓄えが少なすぎて、そんなものでも食べない訳にはいかなかった。なにも食べなくたって出ていくものは出ていくのだ。毒がないのなら、御の字だった。
武器庫らしきところで、短剣を一本手にいれた。ほかにも立派な剣や、槍や、盾などもあったけれど、ティア=アンの膂力ではどうにもならない。それまでよりも少し大振りな短剣だったので、それで充分だと考えることにした。
長い階段を、それもぐるぐるとらせん状になっているものを、のぼった。くだった。のぼった。坂もあったし、長い梯子もあった。好戦的な生きものはいろんな場所に居た。ティア=アンは攻撃されたらやりかえした。犬もどきのようになにもしてこないものには、手を出さなかった。無駄だからだ。
膝までの水路も通った。虫に嚙まれたふくらはぎと肩は、そこで洗った。というより、体を洗った。こわいからガウンは着たままだったが。綺麗な水だったし、水路には魚も泳いでいたから、害のある水ではないと彼女は考えたのだ。ティア=アンは魚を捕らえようとしたが、のろまにはそれは到底無理だった。井守もどきが請け負ってくれて、捕れた魚を彼はそのまま食べ、ティア=アンは焼いて食べた。ティア=アンは井守もどきに何度も虫を捕ってあげたし、井守もどきはティア=アンによくしてくれた。言葉はないが、お互いに相手を、できる範囲で大切にした。ティア=アンにとっては、彼は命の恩人である。虫を少しあげたところで、その恩に報いたとは思えない。
水路を越えると、生きものはほとんど見なくなった。ねずみや、小さな虫くらいだ。そいつらはティア=アンに気付くと、さっと逃げていく。そうなると本格的に食糧は枯渇して、ティア=アンはふとったねずみを捕まえ、捌いて食べた。たいまつが沢山あったから、焼くことはできた。あとからおなかが痛くなって、もう二度と、ねずみには手を出さなかった。かわりに、井守もどきが捕まえてくれる虫を、炙って食べた。
うすぎぬが数え切れないほどつりさがった、薄気味悪い部屋も通った。ドラゴンの像も見た。宮廷に飾られているものとそっくりで、同じ人間がつくったのだろうとティア=アンは思った。井守もどきはその像のまわりをとびまわり、ぺたぺたと叩いて楽しそうにしていた。
出発地点から相当はなれた場所まで来たことは、わかっている。戻ろうにも、もうできまい。
ティア=アンは、二十一、たまごの模様の扉を、おした。これが最後の数字だ。これ以上続きがあったら、もうどうしようもない。息は苦しいし、血まみれだし、数回きがえたけれど、ガウンはまたぼろぼろになっている。風呂敷代わりにしていたものを着て、ぼろ数枚で荷物を包んでいるのだが、綺麗だったガウンもどんどん汚れ、裂け、破けるので、どうにもならなかった。水も底をつき、口のなかがからからだ。短剣も、あと二本しかない。
ふたまわりくらい大きくなったように見える井守もどきが、扉をおすのを手伝ってくれた。扉はやけに重く、分厚い。だが、井守もどきはなかなかの力で、それをおしきった。
甘い、お茶の香りがした。
扉の向こうには、座りこんだふたりの兵士が居た。その間には、お茶のはいったマグがある。
ふたりの向こうに、短い階段があって、曇り空がかすかに見えていた。
ティア=アンは、山が都のすぐ傍だったことを思い出す。
彼女は、関わり合いにならずに逃げようと考えていた相手の、懐へ出てしまった。あの裂け目の下、憐れな娘達が遺棄されてきた場所は、宮廷の地下へ通じていたのだ。




