1.木っ端貴族の決断は
つかえない娘、というのが、ティア=アン・ケーナに対する親族達の評価であった。
あまり美しいとはいえない、芥子色の髪に、濃すぎてほとんど黒に見える緑の瞳。怯えたように瞠られた、大きすぎる目は、髪と同じいろのまばらな睫毛でふちどられている。もう年頃だというのに、いつまでも子どもじみた顔立ちで、体は小さく、頼りない。いつだって怯えたように俯いていて、誰に対しても卑屈な眼差しを向ける。
彼女は自分から声を発することはほとんどなく、求められれば小さく甲高い声でぼそぼそと喋った。その内容は学識に富んでいる訳でも、かといって娘らしく愛らしい訳でもない。断じてわがままをいうのではないけれど、自己主張はしない。当たり障りのない、まるで秋口のそよ風のような、ただその場をやり過ごすだけの言葉しか、彼女は口にしなかった。――わたくしはわかりません。おとうさまにたずねないと……。
卑屈で、怯えていて、消極的。いつの間にやら自分よりも大きくなった妹達の影に隠れている。社交界でもティア=アンは、そんなふうに評価されている。主体性のない、影のように頼りない、おまけに不器量な娘だと。男と踊るどころか、話すのにさえ酷く怯え、悪くすれば気を失うような娘だと。
ティア=アンはいつもびくびくしている、美しくない、怯えきった娘だった。自覚はしているし、家族も理解している。それに社交界というものに顔を出す面々にも、知れ渡っている。そして、怯えきった娘であるという事実は、彼女の前途を多難なものにしていた。この国の――いや、この世界のどんな男だって、美しくもなければ賢くもない、びくついている、大人しいだけの妻など、ほしがらないからだ。
ティア=アンの親も、どちらかといえば彼女を迷惑に思っていた。控え目にいって美しく成長した妹達と比べ、ティア=アンはまともに背は伸びなかったし、さりとて勉学もさほどうまくはいかなかったからだ。幾ら親にしてみれば可愛い娘でも、限度というものがある。ティア=アンは今まで、みっつの縁談をだめにしていた。
男に対して怯えきって、ふたりきりになった途端貝のように口をぴったり閉ざしてしまった彼女を、婚約者達は嫌悪したのだ。辟易したのでも呆れたのでもなく、たしかに嫌悪した。不器量で才もない娘に不当におそれられたと、気分を害して、彼らはティア=アンの許を去った。はじめから彼女の許になど居なかったのかもしれないが。
今、ティア=アンのできることといえば、年老いて死の床にある祖父の話し相手と、大人しくて勿論喋ったりしない草木の世話くらいだった。
彼女は毎日午前中、祖父の部屋へ行って、寝台から移動できない老人の繰り言にひたすら耳を傾けた。幼い頃に覚えたのであろう数え歌を突然喚くようになってしまった祖父は、大変な書痴で、あらゆる本を書庫に集めているが、今はそこへ行くことも、そこから持ってきた本を読むこともできない。ティア=アンは、数え歌の合間にやはり喚くように発せられる祖父の言葉を聴き、書庫から本を持ってきて、たまに読んで聴かせた。彼女のか細い、途切れがちな声は、祖父には届いていないかもしれないが、彼女なりになんとかしようとはしていた。
午后は時折庭に出て、庭師の仕事を見たり、自分で木や花の世話をしたりする。といっても、所詮は貴族の娘のすることである。力は弱いし、たいしたこともできない。庭師達は、ぼんやりしていてのろまなティア=アンを、邪魔にはしなかった。階級が違いすぎるので、ほとんど無視していたのだ。ティア=アンにはそれは、ある意味でありがたいことだった。庭は彼女が、それなりに心穏やかにすごせる場所だったからだ。厳格な父も母も、そこまで追ってくることは稀だった。草の上に座りこみ、甘い香りの花を見てなにかしら夢想し、ティア=アンは落ち着きを得ていた。
貴族令嬢らしい遊びもせず、勉学にはげむでもない。かといって、いつでも考えこんでしまう性質なので、手を器用に動かすこともできない。裁縫や刺繍、あみものなどは、ティア=アンができるものではなかった。ティア=アンは、総合的に見て、のろまだった。おまけに、小さな体は病気がちで、決して強いとはいえない。勇気も、胆力も、体力も、彼女は持ち合わせていなかった。
邸の、もうほとんどつかわれていない談話室が、彼女のお気にいりの場所だ。庭にまで父母が来ることはめずらしいものの、ティア=アンが庭に出ていれば窓から見えるし、見ないとしてもめしつかいがご注進する。あまり外に出て植栽を触ると、令嬢らしくないといわれるから、毎日はできない。
かわりに、庭の見える、張り出した窓に座って、彼女はその小さな体をまるめるみたいにする。窓はそう規格外に大きなものでもないが、ティア=アンは規格外に小柄だから、充分スペースはある。ティア=アンは小さく、痩せていて、手足も小さい。
そこから、張り出している窓から、彼女は外を眺めるのだ。外には、彼女がたまに手を出す庭木が生い茂っていて、それを眺めながらティア=アンは、自分が木になったと想像する。いや、もとから木だったのだと想像する。大地に根を張り、すくすくと育ち、庭師や自然現象に不意に枝を落とされ、青々と葉を茂らせて、花を咲かせ、実をつける。落ちた実は地面で芽吹いて、またすくすくと……。
そうやって、自分は本当は木だった、と想像していると、気が楽になった。なにもできない、美しくもない、ちっぽけな人間だということを忘れられるその時間は、ティア=アンにとっては重要なものだった。
ただの『自分』というものが、彼女はだいきらいなのだ。
このどうにも耐えがたい『自分』という存在から、どうにか逃げ出したくて、彼女はそこで夢想した。空想した。自分が、不器量でなんの才覚もない、のろまなティア=アンではなくて、誰になんの文句をいわれることもなく、誰からも蔑まれることのない、そこにただ存在している木だと思うことで、彼女は自分をまもった。
精神を外界から隔絶させたのだ。自分は枝振りのいい、つやつやとした榎なのだと思い込めば、誰になにをいわれても傷付くことはない。大体、木には器量もなにもないではないか? 枝振りが悪かろうと、背が低かろうと、花はつくし実は生る。その実はいつか地に落ちて、芽吹き、あらたな命になる。木は必要以上に動かず、お喋りもしない。耐えがたいような、見た目やなにかに対する汚い言葉での噂だって、木にはわからないだろう。
ティア=アンは諦めていた。誰であっても、自分のようなぐずでのろまでどうしようもなく陰気な人間を、好きにはならないと。才がなく、特技もなく、喋りもしない、ただそこに居るだけの妻など、一体どこの誰が必要とするのだろう。
嫁き遅れ、そのままこの邸で、兄の世話になって肩身のせまい思いをしながら過ごし、気付かぬうちに朽ち果てる。なにもなさず。そんな未来が、彼女にははっきり見えていた。
貴族の娘ははやくに結婚するのが当然だし、少なくとも婚約だけはしっかりと交わすものだ。それをしないのは、家に特別な事情でもない限りは、体が弱かったり、或いは精神になにかしらの問題を抱えていたり、もしくは頭でっかちで学問をしていたり、要するに『結婚するには問題がある』娘達だ。
自分はそのうちの、精神に問題がある部類だろう、と、ティア=アンはそんなふうに考えている。体は強いとはいえないし、ひとよりもだいぶ小柄だけれど、この性分の前にはそんなものかすんでしまう。
いつでもびくついていて、口ごもってうまく喋れず、考えこんでいる間に物事がとりかえしのつかないところに達している。それに、もめごととか厄介ごとというのは、なにもかもがもうどうしようもない段階になってからやってくる気がする。婚約の解消だって、与りしらぬところですべてが決まってから、報された。そもそも、婚約自体も、なにも知らないうちに交わされていた。
ティア=アンはもう、十六にもなる。それで婚約もしていないのは、死刑宣告のようなものだった。
ケーナ家としても、ティア=アンの婚約相手をさがしているが、才も美貌もなく怯えきったこののろまな娘は、どこの家からも求められなかった。貴族であっても、それ以外でも。
ティア=アンはたまに、昔のことを夢に見て、思い出した。それが本当にあったことなのか、想像なのか、今ではもうわからない。ただ、記憶がある。祖父母につれられて、山へ行った。山の上には邸があって、そこに逗留した。ティア=アンはそこで、同年代の男の子と、影踏みをして遊んだ。そこには、同年代の女の子も大勢居たのだけれど、その子達と遊んだ覚えはない。そんなことが二回か三回、あった気がする。
男の子の顔は思い出せなかったし、名前も知らない。その子と喋ったことも、ほとんどなかった。ただ、活発で、笑うと可愛らしい子だった。ティア=アンはその笑みを見るのが好きだった。ずっとそんなふうに笑ってくれていたらいいのにと考えていた。
思えば、奇妙な記憶だ。祖父母と、めしつかいが居たのは覚えているが、両親もきょうだいも、その山には居なかった。どうしてそんなところに居たのか、思い出せない。
その記憶についてティア=アンは、祖母に訊いたことがある。祖母の答えは、単純なものだった。ティア=アンは幼い頃、今よりももっと病気がちだったから、空気のいい場所で静養していたのだそうだ。その当時のティア=アンは、静養などという言葉は知らず、そこに居た。となると、あの邸は、病院だったのだろう。
山へ行ったこと自体は事実のようだが、男の子がそこに居たかどうかはわからない。居たとしたら、あの子も静養に来ていたのかもしれない。あの女の子達もそうなのだろうか。或いは、あの子達のうち数人は、医師の子どもかもしれない。祖母は死んでしまって、祖父は自分の読みたい本の話題以外には耳をかさないから、もう訊くこともできなかった。
山は彼女にとって、生まれ育った邸よりもずっと、居心地のいい場所だった。邸よりも、そして、シーズンが来ると行かなくてはならない、憂鬱な都よりも。ごちゃごちゃしていて、ひとばかりで、息の詰まる都。ちびで見栄えがしないと罵られ、踊りもまともにできないと陰口を叩かれ、喋るのにも時間がかかると辟易され、だいきらいな窮屈なガウンに身を包んで壁の花になるだけの夜を散々繰り返す、二度と訪れたくもない場所よりも、ずっといい。
その日もティア=アンは、窓に座って体をまるめ、ぼんやりと外を眺めていた。外を眺めて、夢想していた。ああ、あの木のようになれたらどんなにかいいだろう。誰からも、不器量だとか、ぐずだとか、そんなふうにいわれなかったら。美しい妹達と比べられ、勇ましい兄達と比べられ、聡明な母と比べられ、弁舌爽やかな父と比べられ、惨めな気分になるようなことは、きっとあるまい。惨めで、死んでしまいたいような、耐えがたい気分にならなくてすむのだ。植物はなにも気にしなくていい。少なくとも、誰かに暴言を吐かれることはない。
その日の朝、ティア=アンの妹のひとりが、婚約した。そう聴かされた。家族は皆知っていたようだ。そのような会話がなされていた。
ティア=アンはなにも知らなかった。
ティア=アンに報せたら婚約がうまくいかないと思ったのかもしれない。魯鈍な姉が悪気なく邪魔をするとでも。
それともティア=アン自体を、疫病神のように思っているのだろうか。
それはありそうなことに、ティア=アンには思えた。
扱いにくい、芥子色の癖のある髪を、ティア=アンは両手で忙しなくすいていた。そうやってなんとか自分を落ち着かせないと、泣きそうだったのだ。そこで泣くのはいやだった。
いや、どこであっても泣くのはいやだった。泣けば余計に惨めになる。彼女はわかっていた。泣いても手足は伸びてくれないし、やせっぽちの体がどうにかなる訳でもない。賢くもならないし、口ごもる癖はなくならない。みすぼらしい芥子色の、扱いにくい髪が、まっすぐになってくれる訳でも、艶めく若葉のような色になってくれる訳でも、ないのだ。これまで散々泣いて、なにも思い通りにはならなかった。泣き疲れて眠って、目が覚めたらなにかがかわっていないかと思うのに、なにひとつかわっていない。ティア=アンはのろまなままで、ちびのままで、ぐずで魯鈍なままだった。
「ひとつめは、いちのめさいころ」
低声でぼそぼそと、ティア=アンは、祖父がこのところ頻繁に奏でている歌を、口にする。祖父があんまり繰り返すので、頭からはなれなくなったしまった。簡単な童歌だ。数を学ばせる為のもので、ティア=アンも小さな頃に歌っていた。
それをぶつぶついっていると、多少は気分が楽になった。それをつぶやいている間は、ほかのことはできないからだ。「ふたつのはしらにぬのたらし、さんわのとりのたてふせて、くびかざりがよん、ごほんゆびのてぶくろに」
このあとも、祖父は歌っていた。ティア=アンは聴いたことがないものだ。多くの子どもがそうだろう。この辺りまで覚えてしまう頃には、後は節をつけなくても数を数えられるようになっている。これ以上続きを覚える必要がない。でもティア=アンは、祖父が繰り返すそれを、覚えていた。覚えていて、こういう時に、ぶつぶつといっている。
感情が凪いでくる。
もやもやしたなにかも、憤りともいえないようなちくちくと痛い気持ちも、ティア=アンの体のなかからぬけおちていく。感情的になっても、なんにもなりはしない。それはわかっていた。努力もなにも、むなしいものだということも、彼女は知っていた。努力でなんとかなるというのは、なんとかなった人間だからだ。なんにもならないことはたしかにある。身長は頑張っても伸びないし、ひとがこわいのも、慣れることはない。
ティア=アンはまた、自分は木なのだという想像を、ふくらませる。枝振りはよくないけれど、しっかりと地に根を張った、青々と葉を茂らせる木だ。きっと、榎だろう。
木なら、疎外されているとか、邪魔にされているとか、そんなふうには考えない。
平気な筈だ。
ティア=アンは深く呼吸しながら、ぼんやりと外を見ている。濃い緑の瞳に、幼い頃のようなかがやきは、もうありはしない。彼女はいろいろなことを諦めていた。諦めて、見ないようにした。ほしいものも、したいことも、自分にははじめからなかったのだと考えた。
気が狂れれば、あの山へつれていってもらえるだろうか、と、ティア=アンはかすかに思っている。
また、山で影踏みをする夢を見たティア=アンは、のろのろと体を起こし、寝台を降りた。ぼんやりとしたまま顔を洗い、素裸になって、濡らした浴用布で体を拭う。普通は服を着たままするものだけれど、彼女は不器用で、それはできないのだった。どうせ、頭から被るだけの寝間着だから、ぬぐのも手間ではない。
さっぱりしてから、部屋着を身につけた。貴族令嬢ならば普通、侍女が大勢居て、すべてしてくれるものだが、ティア=アンにはそういう人間は居ない。
両親がなんとか用意しようと心を砕いてくれているのだが、陰気で結婚できそうもない令嬢の侍女など、よほど給金を弾まないと誰もやりたがらなかった。
誰だって、自分の得になるように動くものだ。ティア=アンは、侍女になっても得にならないと思われている。ケーナ家は、歴史はあまりない貴族で、階級もさほどではない。不可思議な力を扱える家系でもなかった。王家とは血のつながりがないのだ。
陰鬱な令嬢であっても、家の力がもっと強ければ、侍女は幾らでも居ただろう。或いは、美貌であれば、高位の貴族と縁付くこともできるかもしれない。ティア=アンには魅力がない。その人間にも、家柄にも。
寝台に腰掛け、ぼうっと庭の楡のことを考えながら、髪を梳かす。かたい櫛は、歯の間隔がひろい。ティア=アンの扱いにくい髪をどうにかする為に、それはつくられていた。妹達がつかっているような細かい櫛は、とてもではないが、つかえない。普通ならこれも、侍女がしてくれることだが、ティア=アンにはそれは望めない。侍女でも女中でも、ティア=アンになにか命ぜられるのはいやなようで、彼女を避けている。ティア=アンも、ひとになにか命じるのはこわいので、あえて彼女らに近寄ろうとも思わない。
もつれた髪を必死に解していると、誰かが走っているような、無作法な音がした。扉が激しく叩かれ、ティア=アンはびくついて櫛をとりおとす。それを拾おうと、寝台を降りたところで、扉が開いた。顔をのぞかせたのは女中頭で、ティア=アンは櫛を拾いあげながら、彼女の金切り声を聴いた。「お嬢さま、すぐにお越しください! 旦那さまの書斎です!」
ティア=アンはぼんやりしている。
手には、櫛を握りしめたままだった。女中頭と、その部下達、それから常は妹達の侍女である女性の集団が来て、なんでもいいからとにかく書斎へと、ティア=アンを寝室からひっぱりだしたのだ。彼女はなにもいわず、女達に従った。常日頃からのことだが、ティア=アンは大勢人間が居ると、口をきけなくなる。黙って、顔を俯け、指示に従うしかなくなってしまう。女中であろうと、誰であろうと、ティア=アンは大人数をおそれていた。
ティア=アンは、項垂れている。父の書斎には、父と、見知らぬ男性が居た。服装や装飾品から、かなり高位の貴族とわかる。
服はつやのある絹で、仕立てが素晴らしかったし、持っている杖についた紋章が見えたのだ。王家の覚えもめでたい、ノウェスパル家のものだった。ティア=アンは愚鈍だが、貴族の娘として覚えるべきことは、なんとか覚えようと努めてはいる。ノウェスパルは公爵家、王家と血も近く、時の王子や王女と婚姻を繰り返している。忘れていい家ではない。さしものティア=アンも、ノウェスパルは忘れなかった。ティア=アンであれば、相手が貴族だろうとそうでなかろうと、このような威圧感のある男を前にしたら、結局は口を噤んで項垂れただろうが。
ティア=アンは女達の手で書斎へほうりこまれ、扉の傍でじっとしていようとしていた。じっとする、というのは、しようとしているができていない。彼女はかすかに震えていた。動いたら殺されるかもしれないと、どうしてだかそんな不安がふくれあがって、それが形を持って咽の奥につかえたような心地がする。まるでそこに、本当になにかがあるみたいに、呼吸は苦しくなっている。
ノウェスパルの男からは、奇妙な緊張感とでもいうべきものが発散されていた。優しそうな、穏やかな顔立ちをしているけれど、目は鋭くティア=アンを見ている。さらりとしてつやのある、裏葉色の髪と、金の瞳は、ティア=アンを更に怯えさせた。男からはたしかに、なにかしらの力、圧力が、放出されている。それは確実に、ティア=アンへ向かっていた。彼女にはそれが、はっきりしないものの、害意のように感じられた。この男に命運を握られていると、そんなふうに妄想がむくむくと大きくなっていく。
なにが起こるのかわからない。どうでもいいからはやく終わってほしい。ティア=アンはそう願っている。はやくここから逃げ出して、祖父の部屋へ行きたかった。そこで、祖父の数え歌とよくわからない話を聴き、本を朗読し、午后には庭へ出て……。
「ティア=アン」父の険しい声がする。「閣下の前でなんだ、その格好は」
突然、呼び出され、部屋着のままだった。きがえる時間は、誰も与えてくれやしなかった。ティア=アンは反射的に父へ遣った目を、はずかしくなって伏せる。綿の部屋着は、綿であること以外には評価のしようがなかった。『綿地! 素晴らしい。型は最悪だけど』とでも、きょうだい達にはいわれそうだ。仕方のないことなのだ。ティア=アンは小柄だから、あう型紙がないと、女中に面と向かっていわれた。だから邸では、体の線のはっきりしない、だらんと布をさげたような衣裳ばかり身につけている。
女中達も侍女達も、ティア=アンにきがえが必要だとは思わなかったらしい。父がいわなかったのだろう。そしてティア=アンも、きがえてから行く、とは、いえなかった。いえば、腐っても貴族令嬢、時間の猶予はもらえたかもしれない。しばらくぶりに、女中達に囲まれて、きがえさせられたかもしれない。髪をひっぱられて結い上げられ、帽子を被せられただろう。
だが、そんな要望を口にする勇気は、ティア=アンにはない。婚約もできない娘を食べさせてくれる親だ。それに逆らったり、くちごたえしたりは、できない。父が急げといっているのだから、すぐに書斎へ行くべきだと思ったのだ。
底抜けに陰気で、人並みの賢ささえ持ち合わせず、顔貌を誉められたことは終ぞないティア=アンは、弁えているつもりだ。自分が父に呼びつけられることはあっても、その席に他人が同席するとは、考えてもみなかった。当然今まで、そんなおそろしい事態は起こったことがない。起ころうものか。一体誰が、ティア=アンのような愚鈍な人間と、好き好んで話すというのだろう。
だから、書斎に居るのは父だけで、またなにかしらの不始末を叱られるのだと思っていた。祖父に余計なことを喋るなといわれるか、妹達の邪魔をするなといわれるか、談話室はお前の部屋ではないのだぞといわれるか、そのような用事だと考えたのだ。
見知らぬ殿方が居るなどとは、考えもしなかった。おまけに、その殿方がどうも、ティア=アンと話そうとしているなんて。
ティア=アンは頭をさげ、なにもいわない。父の言葉で、ノウェスパル家の男性が公爵そのひとだということがわかって、体がより、震える。
誰かが自分に会いに来る、というのも想像できなければ、それが公爵閣下となれば、尚更想像がつかない。このひとはなんの用事で来たのだろう。言動を咎められるのだろうか。なにか、不敬になるような文言があったのか。つまり、王家を怒らせたのだろうか。
この国で王家に睨まれたら、なにもできない。どれだけ高位の貴族でも、失言ひとつで進退窮まる。些細に思えるような理由で潰れた家も、ティア=アンの知る限り、みっつはあった。ひとつは後に、王も怒りを解き、高い位へ復したが、そうなるまでに十年以上の時を必要とした。ティア=アンはあまり、賢くはないけれど、『恐怖』は彼女をある範囲の話題に敏感にしていた。ひとを怒らせ、それによって不利益を被るというのは、ティア=アンにとっては恐怖だ。だから、失言で潰れた家のことは、覚えている。
冒涜的な詩を読んだとか、そういう理由で呼び出されたのかもしれない。祖父の為に読んでいる本は、部屋の外の人間には本は見えず、ティア=アンの声だけがかすかに響いている。ティア=アンの頭では、祖父が読んでもらいたがる詩は特に問題のあるようなものには思えないが、ティア=アンにはわからないなにかまずいことがあるのかもしれない。賢くなければわからないなにかがあるのかもしれない。それを読んでしまったことで、自発的に王家を侮辱した、と勘違いされたのか。
或いは、毎シーズン訪れる都での言動が、なにか王家の気に障ったのかもしれない。都から戻って、数ヶ月経つ。その場ですぐに咎められず、後からこのように位の高いかたがわざわざ咎めに来るのかは、わからない。
それ以外の理由で、このようなご立派なかたが来るだろうか。
叱られる、咎められる以外で、公爵が自分に用事があるということを、ティア=アンは想像できない。
起きぬけの令嬢を呼び出した公爵は、鷹揚に笑う。その表情からは、あの妙な緊張のようなものは消えていた。ただの穏やかそうな、壮年の殿方に見える。ティア=アンは少しだけ、緊張を解いた。悪い話ではないのかもしれない、という気持ちと、きっとなにかの罰を与える為に来たのに違いない、という気持ちとが、せめぎいう。
閣下は父を見遣り、すぐにティア=アンへ目を戻した。
「いいんだ、フェク。わたしがはやくに来たのが悪かったのだから。急がねばならなかったからね」
「閣下、普段はもう少ししっかりした子なのです。その……」
父はなにか、ティア=アンを庇う為の言葉を出そうとしたようだが、それは終ぞ、出てこなかった。当然だ。ティア=アンは愚鈍で、魯鈍で、貴族令嬢として誉められるような部分はない。父の頭には、具体的な例はなにもうかばなかったのだ。なにひとつ、ティア=アンには誉められるような部分はない。
またしてもはずかしさに項垂れるティア=アンに、公爵は笑みかけた。
「ティア=アン、急ぎのことで申し訳ないが、これから一緒に都へ来てもらう。殿下が君との結婚を望んでいるんだ」