2 新天地
東京から新幹線に乗って南下し、更には北へと向かう在来線に乗り、揺れに揺られて到着した山奥の駅に降り立つ。単線で、車両は一両編成だ。
ここに来るまでの間、七月という緑の色濃い壮大な景色にただひたすら圧倒されていたが、目的の駅に降り立った時の感動はそれ以上のものだった。
「うわあ……!」
その空気の美味しさに、思わず感嘆の声が漏れる。
東京では、どこもかしこも何かしらの匂いがして、とてもではないが深呼吸など出来たものではなかった。広々とした公園等に行けば木々の匂いに囲まれて比較的平穏な気分で過ごすことも出来たが、だからといってずっと公園に住む訳にもいかない。
木や動物などの自然界の匂いであれば、一般的に臭いと言われるものであってもこの鼻は拒否をしない。やはり化学物質過敏症かと推測していたが、検査したところで何も変わらない、と検査はしていなかった。
もう諦めていたというのが正直なところだったが、まさかここまで爽やかな空気が存在し得る土地がこの日本にまだ存在していたなんて。
私がただひたすらに感動していると、背後に気配を感じる。ハッとして振り返ると、思ったよりも近くに爺むさい鼠色のくたびれたスーツを着たぬぼっとした男が立っていた。
「うわっ!」
「あ、す、すみません」
思ったよりも若い声だった。癖のある伸びた前髪で目元は殆どが隠れている上に、黒縁の何ともダサい眼鏡を着用している。耳元も襟足も微妙にうねる髪が、何とも言えない地味で暗い印象を醸し出していた。
「は、花坂、さ、咲さんでしょうか?」
「あ、はい」
「ぼ、僕、町役場の者で、ええと」
男がもう一歩近付いて来る。思ったよりも、背が高い。姿勢があまり宜しくなく肩が内側に入り込んでいるので小さく見えたのだろうが、一八〇センチはあるのではないか。
もっさりし過ぎて顔がよく分からないが、剃り残しの髭が硬そうな顎にあるところを見ると、とりあえずあまりきちんとした性格の持ち主ではない様だ。
男はガサゴソとスーツのポケットから名刺を一枚取り出すと、折れた端を手で戻しつつ、それを渡してきた。
ポケットにむき出しで入れてるのも驚きだったし折れている名刺を渡してくるのも驚きだったが、まあ田舎はそんなものなのかと無理矢理納得してみる。ついでに指に指輪がはまっていないことも確認したが、だからどうということもない。
「堀江寅之助といいます」
「あ、どうも」
名刺には、○○町町役場○○庁舎の堀江寅之助と確かに書いてある。地域復興担当とその横に小さく書かれているので、それではこの人が私の新生活をサポートしてくれる人なのだ。もさいからと引いている場合ではない。
「よ、宜しくお願いします!」
急ぎペコリと頭を下げると、男からふんわりと嗅いだことのない匂いが漂ってきた。――何だろうか。ほんのり甘い、石鹸に近い香りの様だが、石鹸とはまた違う。
顔を上げてじっと男の顔を探る様に見つめると、男は黒くも白くもない肌をぽっと赤らめて俯いた。
「さっ咲さん、さすが東京から来られただけあって、垢抜けて綺麗でびっくりしました。あ、僕のことは寅之助と呼んで下さいね」
いきなり下の名前で呼び合うとはこいつ案外やるなと思ったが、もしかしたらこれが田舎の距離感なのかもしれない。
「ふふ、お世辞が上手なんですね」
「そ、そんな! 事実です!」
「ありがとうございます」
社長秘書という職業柄、身だしなみにはかなり気を付けていた。清潔感がある様に見せる為、前髪なしの黒髪ストレートを後ろでキュッと縛るのが私の定番の髪型だ。化粧もなるべくナチュラルに見えるものを選び、口紅の色も控えめ。
華美な装飾も避け、それでいて女性らしさを演出するには仕草が重要だった。
もうそんなどうでもいいものは捨て去ろうと決意してここに来たというのに、身についた仕草というのはなかなか抜けないものだ。
笑う時に口元を隠すのもその一つで、本当だったら大口を開けて笑える様な人間になりたかったが、作り込みを念入りにし過ぎた所為でそんなことすら咄嗟に出来ない自分が歯がゆい。
「さ、咲さん! まずは一旦お荷物を置きに、用意させていただいた家にご案内しますから!」
私の作られた洗練さに緊張してしまったのか、寅之助は私の大きなスーツケースをヒョイと持つと、両手両足を同時に出しながら先導し始めた。所謂ナンバ歩きというやつである。
悪い人ではなさそうだと安心した私は、くすくすと笑いながら寅之助の後をついて行ったのだった。