1 転機
舞台となる町は、モデルがあります。気持ちのいい空気を作品から感じ取ってもらえたら幸いです。
全21話、連投しますのでお楽しみ下さい。
もうその臭いは嗅ぎたくない。それが、私が春樹に言った最後の言葉だった。
花坂咲、齢二十九歳。所謂、匂い過敏症。そろそろ結婚もしないと今後色々とスケジュールがやばかろうという年齢にさしかかった地点に、正に今立たされている。
二十代後半の貴重な三年間付き合った春樹が好む柔軟剤やら香水やらは、何とか我慢した。だが、あの煙草の臭い。
あれだけはどうしても無理で、お願いだからやめてくれと言い続けて三年。この箱が終わったらやめる、電子煙草に切り替えたら臭くないだろ、と煙草の臭いが染みついた髪と服で抱き締められ、我慢出来ずにとうとうその言葉を言い放った。
最後通告は、もうとうに終わっていた。
春樹と同棲していた部屋から、宣言後すぐに出て行った。煙草をやめる気など初めからないことは、十分に理解していた。
大型の荷物は予めトランクルームに預け、とりあえずの身の回りの物はトランク一つにまとめていたから、私の行動は非常に素早く見えたに違いない。
ウィークリーマンションに入ると変な臭いがしたが、奴と住んでいた部屋の腐った様な臭いに比べれば遥かにマシだ。持参した炭をあちこちに配置すると、別れと同時に失った職を何とかするべく、スマホで複数の就職サイトをザッピングする。
幸い預貯金はそれなりにあるので明日の食費に困るほど困窮はしていないが、今後の収入がないのは非常に痛かった。
私は、春樹が社長を務めるベンチャー企業の秘書をしていた。別れて同居はあり得ないし、別れて秘書業務を続けるのもあり得ない。退職金は惜しかったが、もうあいつとは金輪際関わりたくないと思い、見事なトンズラを決めたのだった。
「もういっそのこと、遠くに行こうかな……?」
都内は便利だが、あちこちに様々な臭いが立ち込めており、私の様な人間には生き辛い。人々がいい香りだと顔を綻ばせる柔軟剤の香りは、私にはツンとした化学臭にしか感じられないのだ。
ニオイ、要らない。それが私の長年の思いだった。
「いいのないかなー……お?」
それは、とある地方にある小さな町が募集しているものだった。自然に囲まれ、古民家を格安で借りられる。仕事内容は、町が力一杯紹介しますとある。
余程過疎化が進んでいるのだろう、必死感がその余裕のない文章から窺えた。
地図アプリで、場所を検索する。とりあえず辺り一面山しかない様だ。
結婚を取るか、臭みのいない生活を取るか。
「……死ぬ時に誰かに看取ってもらえりゃもういいか」
天涯孤独の身だ。田舎ならきっと情も厚いだろうという適当な根拠で、そのど田舎行きを即決したのだった。