悪夢 後編
「きゃあああっ!」
悲鳴が聞こえた。楓はサッと立ち上がる。少年は思わず、術式の詠唱を止めてしまっていた。これでは術式は発動しない。楓は術式が完成していない事に安堵する。しかし、そんな事で警戒を解いてはいけない。楓は悲鳴の方に顔を向け、神経を張り詰めさせた。
「仁美ちゃんっ!」
楓は親友の名を叫んだ。楓の目に映ったのは恐怖に目を見開き地面にへたり込んだ仁美と、牙を剥いて仁美に襲いかかろうとする霊獣の姿だった。霊獣の大きさは大きめの車ほど。その姿はネコ科の猛獣のようでもあり、爬虫類のようでもあった。鱗の生えた足が鈍色に光る。霊獣は身体をしならせた。楓は必死で地面を蹴り、無理矢理仁美と霊獣の間に身体を割り込ませる。
「がるるるっ!」
楓の肩から腕の辺りに霊獣の歯が深々と突き刺さった。
「がっ、うっ!」
霊獣は楓の肉を噛みちぎる。血が宙を舞い、鮮血が視界を染めた。楓は焼けるような痛みに顔を歪める。視界が遠ざかりかけ、膝からガクッと力が抜けた。
「楓ちゃん!」
仁美は目に涙を溜めて叫ぶ。自分は大丈夫だと、楓は傷に手を当てて、微かに仁美に笑って見せる。仁美は首を一生懸命振って楓を止めようとする。しかし、楓はそれを無視して霊獣を睨みつけた。
何分にも感じられる数秒が過ぎた。
突然、霊獣の楓を見る目つきが変わった。その目からは怒りは消え、静かに凪いだ瞳が楓を見つめる。霊獣は楓に恭順の意を示しているようにも見えた。
それでも楓は霊獣を睨むのを止めない。というのも、痛みに顔が引き攣ってその顔が止められないのだ。視界が霞んで、足はガクガク。だが、霊獣の手前、弱味を曝け出す事はできなかった。
またしばらく楓と霊獣の睨み合いは続き、楓は瞬きをしてしまう。それを合図にして霊獣は身を翻し、森の奥へと姿を消した。
あの目は何だったのか、どうしてその様な態度になったのか。そんな事は楓の頭からはすっかり抜け落ち、忘れ去られていた。
霊獣がいなくなった途端、楓の身体から力が抜けた。地面にヘタリと座り込む。腕は血塗れで、服も血で染まってしまっている。楓は場違いにも服が勿体ないと思った。だが、噛み裂かれた腕はとても痛かった。
「楓ちゃん!」
仁美が慌てて楓の元に駆けつける。
「来るなっ!」
楓は手負いの獣の様に、それを拒絶する。しかし、それで止まるほど仁美は楓を心配していなかった。仁美は構わず、楓の隣に腰を下ろす。何より困ったのは他の子供達も、好奇心で楓の周りに集まってきてしまった事だった。
楓は傷を必死で手で隠そうとする。これが知られれば、もう二度と仲間には入れない。まだ九歳の楓にも、それはわかった。
「……楓ちゃん、怪我、見して」
仁美は楓の目を真っ直ぐに見た。楓は目を逸らそうとする。だが、仁美は楓を逃さなかった。楓はふっと視線を和らげた。安心ではない。諦めだった。楓の力ない手が仁美によって、傷から引き剥がされる。
「か、えで……ちゃん?」
仁美の目が見開かれる。あり得ない物を見たように。
肉が抉り取られたような深い傷。その端から目に見える速度で、傷が蠢く。少しずつ筋繊維を伸ばし、元のあるべき姿になっていく。グチャグチャという悍ましい音を立てて、傷など初めからなかったかのように腕は元通りになった。
「バケモノだ……」
誰かがそう口にした。その言葉は囁き声に乗って、周りからどんどん聞こえてくる。一つの小さな声は、束になって楓を責めていた。
楓はそっと仁美を伺う。仁美は楓から目を逸らした。
「……バケモノ」
仁美はそう呟いた。
その瞬間、楓の中で何かが粉々に砕け散った。親友を本当の意味で永遠に失ったのだと楓が悟るのに、時間はかからなかった。
突然場面は切り替わる。
「バケモノ……」
顔の見えない誰かが口にする。楓は恐怖に顔を強張らせた。
「待って……!」
楓は必死に誰かに向かって手を伸ばす。
パシンッ
楓の手は振り払われた。木葉が手を翻し、冷たい目で楓を見る。
「木葉……?」
「来ないで、バケモノ」
夏美もそう言って、楓に背を向ける。少しずつ、人が楓の前から消えていく。
「もう一緒にはいられないよ、さよなら」
夕姫も消えた。……夕馬も涼も。
「相川!」
楓は最後の一人に向かって手を伸ばした。振り返る光希の顔は冷たい。楓は思わず手を引っ込めた。
「……バケモノ」
声は聞こえなくても、光希の口がそう動いたのはよくわかった。
そして楓は一人きりになった。白い空間にたった一人。取り残されて。どこまでも空虚で、寂しくて。その空間はまるで楓の心を表しているようだった。
そこで楓はガバリと身体を起こした。ふかふかの布団の上、寮の自分の部屋で。ぼうっと辺りを見回して楓は初めてさっきのが夢であった事に気づく。
「なんでこんな夢を……?」
楓は自分の頰に手を当てる。濡れていた。楓は手を目の近くに移動させた。楓の頰を濡らしていたのは瞳から零れ落ちた涙だった。
「……やっぱりボクは、バケモノなのかな……」
誰にとも言わず、そっと呟く。その声は誰もいない部屋で木霊した。
制服に着替えて居間、楓と木葉はそう呼んでいる、スペースに楓は向かった。もう既に木葉は起きていて、足をカーペットに投げ出してテレビを見ている。楓がやって来ると、顔を上げて、おはよう、と言ってくれた。楓は内心ホッとしながら挨拶を返す。
「楓、どうかした?目、赤いわよ」
木葉が心配そうに楓の顔を覗き込む。楓は笑顔を作って見せた。
「いや、ちょっと目が痒かっただけ」
「……そう、ならいいんだけど」
木葉はにこりと微笑んだ。
この優しさを、信じていいのだろうか?
楓はそう思わずにはいられなかった。
キリが悪かったので、二つに分けました。
※あくまでこれは夢です。前半は事実ですが……
 




