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旧約神なき世界の異端姫  作者: 斑鳩睡蓮
第3章〜孤高の天才と聖夜の祈り〜

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逃走劇の終幕

 伊織は霊力の気配を感じて立ち止まった。この広がり具合からは、おそらく広範囲に術を使ったと考えられる。何の術式かはわからない。伊織は周囲を見渡した。


(光希君、大丈夫かな……)


 術で眠らせて、あの場所に置いてきてしまった。何も言わずに行くのも心が痛む。しかし、理由を伝えるのが怖かった。それが自分の我儘なのはわかっている。心のどこかで光希が助けに来てくれる事を期待しているのも。


 例え助けに来てもらっても、そこからどうする?


 伊織には僅かな時間しか残されていない。それなら光希に罪悪感を背負って生きる道を選ばせない方を選びたい。これから先強くなっていく光希に、そんな気持ちにさせたくない。


 伊織は拳を握りしめる。早朝の冷え込みはさらに増し、空を覆う灰色の雲が今にも雪を降らせようとしていた。


「……だから私は光希君の側にいちゃいけないんだ」


 伊織の呟きは白い吐息に乗って霧散した。寒さにかじかみ始めた足に力を入れ、伊織は走り出す。いつのまにか、光希に買ってもらったコートのフードは頭から外れていた。


 白い髪が風になびく。その髪はまるで雪が降った後のように煌めいていた。






「琴吹伊織だな?」

「っ!」


 伊織は立ち止まり、伊織を囲むように九人の人影が現れる。正確には着地した、といった方がいいかもしれない。伊織は肩を強張らせ、人影達を睨みつける。


「……私を殺しに来たの?だったら、私の前に姿を現わすのは得策じゃない」


 威嚇するように伊織は言い放った。男、いや、女もいる、はそんな伊織の言葉を歯牙にもかけない。威嚇としては、全く効果はなかった。


「そうですね。しかし、あなたにその意思はない。違いますか?」

「……」


 女は伊織にそう尋ねる。伊織はそれに答えることができなかった。沈黙は肯定。伊織の沈黙はその言葉が間違っていない事を証明していた。


「あなた達はどこの本家の人達なの?」


 伊織の質問に誰も答えない。そのまま伊織は続ける。


「……愚問だったね。相川以外の全部、九つの本家からの差し金だよね。そんなに光希君の完成が怖いの?」


 沈黙が訪れる。これもまた、肯定の意味だった。


 伊織は初めから天宮以外の本家から追われていた。


 天宮は最強の兵器を手に入れるために伊織と光希を引き合わせた。確かにそれは功を奏したと言える。しかし、その結果相川光希の制御権を手放す事になった。その事は誰も知らない。知るのは、伊織とみのるの二人だけだ。


 そして、『相川』が天宮によって所有されている事を知らない他の本家は、『相川』が最強の力を手にする事をずっと恐れていた。もちろん、あの神林と荒木でさえ。神林と荒木は『相川』の秘密を探るために、息子と娘を送り込んだ。相川光希についてはデータが残されていなかったのは、誤算ではあっただろう。


 ただ、その動きは天宮家に利用されていた。初めから天宮は全ての動きを読みきっていたのだ。天宮は神林と荒木の動きを利用して、異端の研究を共同で潰したという功績を手に入れる。それが、異端の研究が、天宮によって行われていたという真実を隠蔽して。


 伊織は初めから全てを知っていた。相川みのるによって聞かされたこれらの事を伊織はずっと知りながら光希に黙っていたのだ。何度も言おうかと思った。だが、光希にはこの事を伝えたくないと思ってしまった。光希がそんな逆風の中を歩く事は目に見えていたはずなのに。これもまた、伊織の我儘だったのかもしれない。


 伊織はふぅ、と息を吐き出した。自分が今にも殺されそうなこの瞬間でも、伊織は不思議と落ち着いている。前々からわかっていた事だったし、その覚悟はできていた。


 心残りな事と言えば、光希の事、だろうか。


(ちゃんとお別れを言いたかったな……)


 少し残念だ。


 伊織は口元に微かな笑みを浮かべる。そんな伊織の心臓に向かって、女の拳銃が向けられた。


 今まで人として見てもらえなかった自分を、一人の女の子、琴吹伊織として見てくれたあの少年の顔が、もう一度だけ見たいと思ってしまった。もちろん、そんな事はないし、あってはならない。もしここに来れば、光希もまた、本家から派遣された人間に消されてしまう。光希がそんな風にして死んでしまうのは、それだけは、絶対に嫌だった。


「では、ここで死んでもらいます」


 女の感情の籠らない平坦な声が響く。無機質な瞳が伊織の心臓を捉えた。ここにいる全員が、伊織の死を望んでいる。


 そして、伊織自身も。


 伊織はそっと瞼を閉じる。死ぬのは怖くない。


 ……それに、大切な人を守って死ねるなら。


 女の指が動く。黒光りする拳銃は微動だにせず、伊織に向けられている。


「伊織!」


 聞こえるはずのない人の声が聞こえた。伊織は思わず目を開け、振り返る。伊織は自分が守りたかった大切な人がそこにいる事が信じられない。そして、光希がここに来てしまった事に背筋を凍らせた。


「だめっ!光希君!」


 伊織の叫びと同時に引き金が絞られ、拳銃は火を噴いた。


 パァン


「っ!」


 乾いた音が伊織の耳に届く。


 伊織の背中に弾丸が突き刺さる。伊織は地面にドサリと倒れ込んだ。


「うぐっ……、如月(きさらぎ)の呪詛……」


 弾丸に刻まれた呪詛が伊織の身体を蝕んでいく。背中に弾が当たっただけでは致命傷にはならなかっただろう。しかし、如月家の術である呪詛がそれを致命傷としていた。焼けるような痛みと同時に、指先は冷たくなっていく。


「伊織っ!」


 誰かの腕が伊織の身体を抱き締める。その間にも血は流れ出していた。


「かはっ、」


 伊織は喉までせり上がってきた血の塊を吐き出す。


「ダメ、だよ……、光希君……」



***


 光希は伊織を見つけた。伊織の白い髪は、ビルの上からでも見えるくらい目立っていた。伊織の周りを取り囲む九つの人影。彼らも伊織を追う追手なのだろう。


 光希はビルの壁を蹴り、伊織の近くへと距離を詰める。一刻も早く、伊織の元へ辿り着きたかった。


 伊織を取り囲む殺気がさらに増す。伊織を殺す気なのは確かだ。


 しかし、なぜ伊織は逃げようとしない?


 伊織はなぜ、光希を置いてわざわざ死にに行くような真似をしたのだろうか。


 風に煽られながら、光希は跳ぶ。髪とコートがバサバサとなびいた。


 人影の内、一人が伊織に拳銃を向ける。


 それでも伊織は逃げようとしない。


 光希はぞくりとした恐怖が自分の中で芽生えるのを感じた。いつ以来だろうか。光希が恐怖を感じたのはもう記憶にも残っていないほど前の事だった。しかし今は、伊織を失う事が何よりも怖い。自分に安らぎを与えてくれたあの少女を守りたかった。


「伊織!」


 叫ぶ。少しでも伊織が助かるように。


 伊織は驚いたように閉じていた瞳を大きく見開く。そして、地面に着地した光希の方を振り返った。


「だめっ!光希君!」


 伊織の悲痛な声が耳に届く。そしてその直後、乾いた銃声が鳴り響いた。


 そこから全ての動きが光希にはゆっくりに見えた。淀む時間に、驚愕の表情を浮かべてゆっくりと倒れていく伊織。


「伊織っ!」


 光希は遅くなった時間の中でもがくように伊織に向かって走る。襲ってくる術も光希の足を止める理由にはならなかった。


 地面に倒れた伊織を抱き締める。血は伊織の命を奪っていくように、光希の手をも濡らしていく。伊織は光希の顔を見上げた。


「ダメ、だよ……、光希君……」


 伊織の弱々しい声に、光希は自分の中で怒りが膨れ上がるのを感じた。頭がどんどん冷えていく。光希の瞳からは感情が消え、鋭利さを増した。


 この間にも術式や刀が二人を襲う。しかし、それらは全て蒼い霊力によって阻まれていた。


 光希は伊織を抱えたまま、呟く。


「青龍……」


 今まで形を取らなかった霊力が一つに固まり、青龍が姿を現した。


「何⁉︎相川光希は完成している、だと⁉︎」


 驚愕はすぐに恐怖へと変わる。


「殺れ」


 光希の口から静かに断罪の命が告げられる。青龍は美しいその身体を弓なりにしならせ、彼らを襲う。圧倒的な力を持つものによる一方的な殺戮だった。蒼い炎が彼らを包む。


「うわぁぁあああっ!!」

「ぎゃあああああっ!!」


 叫び声はだんだん小さくなっていく。そして後には灰しか残らない。灰は風に巻き上げられて、消えていった。


 この場に残ったのは二人だけ。冷たい物が頰に触れ、溶ける。灰色の空から静かに雪が降り始めていた。


「伊織、大丈夫か?」


 伊織の手が氷のように冷たい。伊織は自分の命が零れ落ちていくのを感じていた。伊織の手が光希の頰に触れる。


「ごめん、ね……、光希君。私はもう助からないよ……」

「そんな事言うな!俺はまだお前を救ってやれてない!」


 伊織の顔に笑顔が浮かぶ。とても儚くて脆く、今にも消えてしまいそうな笑顔。光希は止まらない血と弱っていく伊織を見ている事しかできない。


「私ね、元々命……残ってなかったんだ。長くても後一ヶ月くらい……。私の力は……、代償として、自分の命をすり減らすの。だから、こうして私が死んでいくのも当然の事……」


 伊織は咳き込んだ。苦しそうにゼイゼイと息をつく。


「もういい、喋るな。早くどこかの医者に……!」


 伊織はそう言う光希の言葉を遮った。


「光希君……、私はね、本当は自分が何もできないまま死んでいくのが怖かった。人を殺す兵器として生まれて……、そのまま死ぬんだと思ってた」


 伊織の瞳から涙が溢れる。雫は頰を伝い、雪を溶かす。


「でも、私は……光希君に出会えた。光希君は私に生きる意味を与えてくれた。こんな私を大事だと、言ってくれた……」

「もう死ぬみたいな事言うなよ……。俺はお前を救いたい。心を殺してきた俺を伊織は救ってくれた。俺はお前にまだ何もしてやれていない……!」


 光希は唇を噛んだ。自分の無力さが嫌になる。目の前の、たった一人の大事な人すら救えない自分が許せなかった。


「ううん……、光希君は私に色んな物をくれた。生きる事が楽しかったのは……初めてだったよ……。私が生きた事、光希君は覚えていてくれるかな……?」

「覚えてる。ずっと、忘れないから……」


 嬉しそうに伊織は頷く。しかし伊織の言葉はさらに小さく、囁くような声になってくる。光希は伊織を抱く腕に力を入れた。


「私に……生きる意味を……くれて……、ありが、とう。……だい……す……き……」


 がくり、伊織の身体から力が抜けた。瞳を閉じた伊織の口元は微かに微笑んでいた。


 光希は無言で伊織を抱き締める。光希の感情を殺してきた瞳から雫が零れた。


 二人の上に雪は静かに積もり始める。


とうとう……。

光希は結局自分を救った少女を救う事ができませんでした。

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