怯える少女
「ここ……みたいだな」
光希は手元のスマホに表示されている地図と目の前の建物と睨めっこした。ボロボロの空き家にしか見えないようなアパート。階段の手すりは赤錆に塗れ、今にも壊れそうだ。黄ばんだコンクリートの壁には亀裂が縦横無尽に走っている。さらには壁が割れた場所からは草が生えているという有様である。こんな所に泊まれるわけがない。そう思って、光希はもう一度地図を見た。
確かに現在地を示す青い点は目的地である赤い点に重なっている。光希が調べたのは激安の宿だった。
何も考えずに、マンションから飛び出したため、泊まる場所について全くと言っていい程何も考えていなかった。クレジットカードは足がつくかもしれないので、使いたくない。そう考えると、手持ちの五千円で泊まれる場所を探すしかなかった。
そこで見つけたのがここ。このボロアパートだ。安いのは事実だ。一泊二千円。手持ちでも少し余裕を持って払うことができる。ただ……、何と言ってもボロいのだ。光希は額に手を当てて、溜息をつく。
「はぁ……」
「……ま、まあ、見つかっただけいいんじゃない、かな……」
伊織は顔を引きつらせながら、フォローとも言えないフォローを入れる。
「しょうがない……。行くか」
「そだね、光希君」
光希は管理者室のドアを開ける。ドアは錆びた金属特有の何とも言えない音を立てて開いた。
「あい、何の用だい?」
タバコ臭い息に乗って、声が響いた。事務用椅子に腰掛け、足を机に投げ出した髭ぼうぼうの中年男が、光希と伊織を品定めするようにこちらを見ていた。
伊織は光希の服をぎゅっと掴む。光希は無表情で男を見る。
「ここに一泊泊めてもらいたい」
「ふん、二千円だ。払ったらとっとと二階の好きな部屋にでも行きやがれ」
男はいかにも面倒くさそうにそう言うと、光希の出した二千円を奪い取る。その動作だけは相当機敏だった。そして、男は光希に鍵を放る。二一○号室のものだった。部屋を選べるわけではないようだ。まあ、部屋などどうでもいいのだが。
光希は男に背を向け、伊織と共に部屋を出る。この空間にあまり長居したくなかった。
「泊まれたから良かったね」
伊織は錆びついた階段を登りながら口にする。光希は頷いた。
「そうだな。明日はどこかでお金を下ろしてこないとな……。やっぱり、クレジットカードじゃ足がつく可能性が高い」
「そうだね、」
カツンカツンとやけに響く音を立て、二人は目的の部屋にたどり着いた。開くのかどうかがかなり怪しいドアだった。やはりこれも赤錆だらけである。ドアノブに鍵を突っ込み、そっと手をかける。黒板を爪で引っ掻くようなとても不快な音を撒き散らし、ドアは開いた。
「うぅー」
伊織は嫌そうに耳を手で塞ぐ。そして一目散に部屋に入っていった。
「……」
少し遅れて部屋に入っると、そこには言葉を失って立ち尽くす伊織の姿があった。
「どうした?」
伊織は顔を真っ赤にする。
「ふ、ふ、ふ……布団、一個しかない」
部屋は一室のみ、真ん中に布団が一式だけ置いてある。それも薄っぺらい物が。
「そうだな、ないよりはマシだな」
そういう問題じゃない、と伊織は両手を振り回す。熟れた林檎のように顔をさらに真っ赤にして、伊織は小さい声で言った。
「……あ、あれで、い、い、一緒に寝る、の?」
光希には小さな声で聞こえない。
「……?悪い、聞こえなかった。何だった?」
伊織は口をパクパクさせるだけだ。光希は伊織が何を必死に言おうとしているのかがわからず、聞き出すのを諦める。
「……伊織、お前はこれからどうしたい?」
伊織は一度瞬きをして、気持ちを落ち着ける。光希は静かに答えを待った。
「……私は、私はこうやって生きていきたい。普通に楽しんだりして……。でもね、それは願っちゃいけない事なんだよ。私には時間がないから……」
伊織の瞳に涙が浮かぶ。伊織はそれをぐしぐしと拭うと、目元が赤いまま笑顔を見せた。
「でも、こんな日が続いたらいいな……」
伊織の笑顔はとても悲しそうだった。
「俺がお前を守る……。誰にも渡さない」
光希は伊織の瞳に語りかけるようにして口にした。
「それに、まだクリスマスにツリーを見てない」
伊織は驚いたように光希の顔をまじまじと見つめる。
「ほら、もう忘れたのか?あの日、約束しただろ?」
「そうだったね……」
伊織の返答には力がない。その理由は絶対に聞けない、聞いてはいけないような気がしていた。その話題は絶対に触れてはいけない物だと、光希はそう直感していた。それとも、ただ逃げているだけなのか……。
「寝るか……」
特に誰に話しかけるでもなく、光希は一人で呟いた。伊織を見ると、隣であくびをしている。
「伊織、布団、使っていいぞ」
伊織に枕を放って寄越す。伊織は反射的に手を伸ばし、キャッチした。きょとんと光希を見る。
「光希君は?どこで寝るの?」
「ん?ああ、床でいい」
伊織はぷくっと頰を膨らませる。
「ダメだよ!風邪引いちゃうじゃん!」
小さな手を握り拳にして振り回す。当たっても痛くは無さそうだが、無下にするのも気が引ける。
「いや……、でもな、布団は一つだけだぞ?まさか一緒に寝るとか言わないだろ?」
「むぅ……」
伊織は顔を真っ赤にして叫ぶ。
「いいの!一緒に寝るの!」
どうやら後に引けなくなったようだった。確かに自分で言い出した事ではある。ただ、色々とよろしくないのでは……?
「いや、その、やっぱりそれは……」
「いいの!」
しどろもどろに光希は抵抗の努力をする。対して伊織は色々と振り切れたようで、その気満々だ。
まあ限りなく布団に近い床で寝て、後で逃げればいいか、そう思って光希は渋々というように頷いて見せる。
「……わかったよ」
「え⁉︎いいの?……ど、どうしよう」
伊織は真っ赤に染まった頰に手を当てる。これはどういう反応なのか、理解不能だ。
「電気、消すぞ」
「うん」
フッと明かりが消える。途端に何も見えなくなった。わかるのはお互いの気配だけ。光希は伊織に背を向けて、布団に限りなく近い床に身を横たえた。今時珍しい畳張り。固くないのはいいのだが、あまり綺麗とはいえないだろう。もちろん、光希自身、どこでも寝られるようにはなっているが。
光希は目を閉じる。
このままどうすればいいのだろう。こんな生活がいつまでも続くわけがない。だが、伊織を失うのは絶対に嫌だった。光希の脳裏を伊織の哀しそうな笑顔が過ぎる。そんな少女を救いたいと思った気持ちは今も全く変わっていない。
まずはみのるに連絡がつけばいいのだが、少し時間がかかるだろう。
では、天宮家を頼るか?そんな事、できるわけがなかった。天宮家は得体が知れない。信用もできない。そんな所に身を寄せる事などできるはずがなかった。
背中に誰かの手が触れた。無論、ここには光希の他に伊織しかいない。触れたのは伊織の手だった。小刻みな震えが手を通して伝わってくる。
光希は思索を中断すると、そっと伊織の方を向いた。伊織と目が合う。伊織はハッと目を見開く。
「ご、ごめん……」
「別に……、大丈夫だ」
伊織は何かに怯えていた。初めからそうだった。何かを恐れ、小さな肩を震わせる。ずっと、そんな恐怖を抱えていたのだ。
光希はそれに気づけなかった。当然といえば当然の事だ。しかし、気づかないままにのうのうとしていた自分が嫌だった。
伊織はずっと怯え続けていたのだ。その何かを聞くつもりはない。それでも、震える伊織をそのままにしておくのもできなかった。
光希は伊織の身体を抱き寄せる。
「……⁉︎」
驚く伊織を優しく抱き締めた。伊織の強張った身体から力が抜けていく。いつのまにか、伊織の震えは止まっていた。
「……ありがとう、光希君」
伊織は囁くようにそう言った。
そして、急激な眠気が光希を襲う。眠りたいという衝動に抗えずに、光希の意識は闇に飲まれた。
伊織はゆらりと身体を起こす。意識を無くした光希を見下ろし、優しく微笑んだ。
「……大好きだよ、光希君。さよなら……」
伊織はそうして姿を消した。
どこかへ行ってしまった伊織。なぜなのか……。
この章も少しずつ終わりに近づいてます




