原初の精霊
光希は手に力を入れた。持ち上げる。指を動かす。手が動く事を確認した後、光希は上半身を起こした。
「……伊織」
光希は膝の上で身体を折り曲げて寝る伊織を、起こさないように立ち上がる。そこで光希は伊織の顔色がよくない事に気づいた。白い肌がさらに白く、青白くなっている。体温も冷たい。それほどまでに、光希にかけられた術を解くのが負担だったのだろう。
光希はそっと伊織をベッドに寝かせる。伊織は小さく唸って寝返りをうった。光希は息を吐く。この様子なら、きっとすぐに良くなるはずだ。
光希は部屋を出ようと歩き出す。そこでつまづいた。
「!」
光希は慌てて体勢を整えようと、足を踏ん張った。ぐらついていた身体が安定する。
身体が今までにないくらい、軽かった。これが術式に制御されない本来の性能。とはいえ、急激な変化に感覚や意識が追いつかない。おかげでまた転びそうになった。
何度か転びそうになりつつ、光希は五一一号室を出た。
外は暗かった。どうやらかなりの時間寝ていたようだった。おそらく伊織も。
(身体、動かしておくか……)
今までとは違う感覚に慣れなければならない。また戦わなければいけない場面が遠からず来るだろうから。
光希は霊力を引き出す。蒼い粒子が周りを舞った。慌てて霊力を引っ込める。いつもなら全く何にも起こらない程度なのだが、これもまた解呪の影響なのだろう。霊力の総量が増えたような感覚がある。その上、流出しやすくなっている。
光希は再び霊力を引き出す。今度は光は出なかった。そのまま指に火を灯す。蒼い炎がポッと上がった。火は光希の手を包む。夜の闇には少々明る過ぎるようだ。本当はマッチの火程度のものにする予定だったが、これでは松明だった。光希ははあっ、と溜息を吐いた。
「制御する方法を覚えないといけないな……」
そして光希は軽くコンクリートの床を蹴ると、隣のビルの屋上に着地した。街の明かりがすぐ近くで灯っている。街の中心部に近いのだと始めて気がついた。
光希は軽く跳ねてみる。それだけで高く跳べた。身体は軽い。霊力も使いやすい。しかし、暴走の気配は消えていなかった。
もし、ここで精霊を呼べば……?
何が起こるかわからない。少なくとも前、術式を解く前は、暴走が起きた。そもそも光希は精霊の姿すら見ていないのだ。龍だと言われたからそう思っていただけであって、自分自身にはわからない。
……今ならできるだろうか。
光希はゴクリと唾を飲み込む。そして、覚悟を決めると霊力を解放した。
ぶわり、霊力が溢れ出す。蒼い粒子が雪のように舞い始めた。
光希は今まで頑なに触れようとも開けようともしなかった扉に手をかける。それは簡単に開いた。それはもう、呆気なく。舞っている霊力が光を放って一つのものへと収束を始める。
光希はその眩しさに目を閉じた。目を焼くような光量。それは精霊の圧倒的な力を感じさせた。光希は目を開く。
光の嵐は消え去り、光希の前にいたのは蒼い炎を纏った龍の姿だった。何千年も生きてきたような威厳と気品、そして圧倒的なまでの力の気配。精霊の中でも最高位に近い存在である事が感覚でわかる。夜の闇の中で煌めくその姿は光希の目に焼き付いた。
龍はその閉じられた眼を開く。凛とした眼差しが光希を見ていた。瞳の中で輝く知性の光は光希を面白そうに見る。
『やっと其方と話ができるようになったな』
声が直接心に響いてきた。光希は驚いて龍を凝視する。
『……我は其方に話しかけているのだが……?』
その声に拗ねた感じが微かに混じる。光希は少しだけ表情を緩ませて、龍に答えた。
「貴方が俺の精霊、ですか……」
『うむ、いかにも』
龍の巨体がその姿に似つかわなくも、うんうんと頷いた。嬉しそうな気配があるが、精霊とは人間とは異なった次元で物事を考える種族、簡単に警戒を解いてはいけない。
『我は原初の精霊、四神の青龍である』
「……!」
光希は驚きを隠せなかった。四神とは、朱雀、青龍、白虎、玄武の方位を司る神。精霊の中でも最も高位の存在であり、最も強い力を持っている。その精霊が光希と契約を交わしたのだという。自分が最高傑作であるという事の意味がわかった気がする。
「そんな高位の精霊が、どうして俺と契約を……?」
『我は其方と契約を結んだ訳ではない。だが、其方の魂と我の魂は切り離す事ができないのだ。切り離す事ができるのは……、其方が死んだ時のみ』
それが『相川』として造られた物なのだろう。高位の精霊を無理矢理魂と混ぜて力を付与された。光希は青龍がそれをどう思っているのかが気になって、その輝く瞳を見た。青龍の瞳はただキラリと光っただけで、光希の疑問には答えてくれない。
『ただ、我の主導権は其方にあるのでな、我は其方に逆らう事はできぬ。ところが、少し前まで縛の術で我らの魂が縛られていたがゆえに、我は意思を持つ事はできず、其方もまた己の力で身を滅ぼしかけた』
青龍は首を伸ばし、伊織のいるマンションに顔を向けた。
『あの娘に我らは救われたのだ』
そのままであれば、死ぬのも時間の問題だった。それは光希自身も薄々感づいていたことだ。あの術によって、青龍もまた、縛られていた。それによって、光希は暴走を起こしていたのだ。
青龍は真っ直ぐに光希を見つめる。
『あの娘を救いたいのか?』
光希は一瞬も迷わず頷いた。
「はい、伊織を俺は救いたいです」
光希は瞳に強い光を湛えて、青龍に向けた。
突然の風に光希は身体を寒さに身体を震わせる。少し前まで気にしていなかった寒さが今更のように肌を刺した。
そして、青龍は目を伏せた。
『あの娘は……、あの娘を救うのは諦めた方がいい。おそらく助からないだろう』
期待を裏切られたような空虚な感覚が胸を過ぎった。寒さに手が痺れてきそうだ。
「……なぜですか?」
感情を押し殺し、光希は、問いかける。驚くほど冷たい声が出た。
『我は多くを語らない。その問いに答える事はできぬ』
青龍は空を仰ぐ。何を思っているのか、何も、わからなかった。光希は拳を握る。手は冷たくなっていた。
「一つ、聞いてもいいでしょうか?」
淡々とした声で光希は尋ねる。青龍は頷いた。
「どうして貴方は俺の精霊になったんですか?貴方は自由で居られるはずです」
光希は青龍の答えを静かに待つ。青龍の顔に何かを懐かしむような表情が浮かんだ。
『……我は、前は他の人間と契約を結んでいたのだ。まさかそれを無理矢理利用する輩がいるとは思わなかった……』
「その人間とは誰か、教えてくれませんか?」
光希は緊張を感じた。それを知る事に重要な意味があると思えたのだ。
『……すまぬ。今はまだ、明かす事ができないのだ』
「そう、ですか……」
光希の目には青龍が寂しそうに映った。本当に青龍がそう思っているのかは知る事ができないが、何かがあったのは確かだろう。
「光希君……?」
伊織の声に光希は振り返った。
蒼い龍さん、実は結構すごいヤツだった




