伊織の役目
消えた木葉を諦めて部屋に戻った光希が目にしたのは、肩を震わせる伊織の姿だった。白い肌を伝って雫が落ちる。
「伊織……?」
光希は伊織に手を伸ばす。しかし伊織はその手に縋らなかった。
「……見られちゃったね、みんなに、私の……この醜い力を」
伊織は震えた自分の手を見る。伊織は涙に濡れた瞳を光希に向けた。
「……どう?私の事、本当は怖くなったんじゃない?」
伊織は搾り出すようにそう言った。その言葉を言うだけにどれほどの勇気が必要だったのか、痛いくらいにわかった。もしかしたら光希がその言葉に頷くかもしれない。この言葉は伊織を打ちのめすに足る力を持っていた。光希はゆっくりと首を振る。
「……そんなわけないだろ」
「嘘だよ……。だって、私の力は、本当の使い方は残酷で理不尽でとっても醜いんだよ⁉︎……そんな力を扱う私なんかが、誰かに大事にされる事なんて無いっ……⁉︎」
伊織が言い終える前に、光希は伊織を抱きしめて黙らせる。
「……ばか。一番自分を嫌ってるのはお前自身だ。俺はお前をそんな事で嫌いになったりしない。俺が守りたいと思ったのは、琴吹伊織という一個人だ。お前が大量殺戮兵器でも変わらない」
「嘘……。私はあれだけ、ううん、もっと沢山の人を殺してる。あの残酷な殺し方で……。そんな私が救われていいわけがないんだよ」
光希を伊織が見上げる。
「それならどうして、お前はそんな顔をするんだ?……救って欲しいって」
「……っ!」
そう、伊織は自分に救われる資格がないと言う。しかし伊織の顔は生きる事を完全に諦めた顔ではなかった。生きたい、生きたい、生きたい。伊織の顔はそう語っている。
「……そっか、私は、生きたいって思ってるのか……。きっとそれは、光希君に出会えたからなんだと思う。光希君に会う前は本当に死にたかったから……」
顔を歪めて伊織は笑った。伊織はそっと光希の手を解き、椅子に腰掛ける。
「もう、黙っているわけにはいかないよね……。光希君、私がここに来た理由、聞いてくれる?」
「もちろんだ」
伊織の向かい側に光希が座ったのを見計らい、伊織は少しだけ昔の話を始めた。
***
「君に、ここじゃない世界を見てみる覚悟はあるかい?」
研究所の最奥の部屋、厳重にロックされた個室にやってきた男は笑顔でそう言った。整った顔立ちの男は研究所には似つかわしくない格好で、ボサボサの白い髪と濁った紅い瞳をした少女を見下ろしている。少女は首を傾げた。
ここ以外の場所を知らない少女が、外に出ていいのだろうか。ここで人を殺し続けてきた少女が行く場所なんてあるのだろうか。
「もう一度聞くよ。私と共にここを出る意思はないかい?」
少女は躊躇う。『こわいひと』達が襲ってくるのではないか、この人を殺してしまうのではないか。
……でも、もう人を殺したくない。
こんな狭い苦しい世界で壊されるのと、広い世界を見てから死ぬのと、どちらがいいのか。答えは明白だった。
「……行く」
男は嬉しそうに頷いた。優しく少女に手を伸ばす。
「私は相川みのるだ。……行こうか、琴吹伊織ちゃん」
「うん」
そうして伊織は部屋を自分の意思で出た。いつもなら完璧にロックされ、絶対に自分の意思で開ける事のできないドアが、ゆっくりと開く。そして、みのるは伊織を抱き上げると、走り出した。
速い。
研究員達が行動するよりも早く、みのるは研究所から脱出していた。
外に出ると、地面を蹴り高く跳ぶ。夜風が心地よい事を伊織は初めて知った。
しばらくの間、みのるに抱きかかえられたままだったが、みのるは突然地面に降りて伊織を下ろした。車が停めてある。至って普通の乗用車。しかし伊織には初めて見るものだった。
伊織がいつも乗せられるのは、厳重にガードされた装甲車。絶対に逃げられない要塞のような車だ。
初めて見る物に伊織は釘付けになる。
「乗って」
みのるの声に飛び上がった。伊織は息を吐いて、気持ちを落ち着ける。そして意を決して車の後部座席に乗り込んだ。
「……どうして、付いて行こうと思ったの?見知らぬ人間に」
車が走り始め、みのるは伊織に尋ねた。伊織は外に向けていた顔を前に向け、答える。
「……悪い人じゃないと思ったからです。それと、あそこで壊されるのが怖かったから……」
伊織はぼそりと口にする。みのるが笑う気配がした。驚いて伊織はみのるを見る。
「君に、お願いがあるんだけど、聞いてもらってもいいかな?君にしかできない事なんだ」
伊織は一瞬躊躇い、すぐに頷いた。
「……私にできる事なら」
相川って知ってるかな、とみのるは始めた。伊織はその言葉に聞き覚えのある気がして、首をひねる。
「『琴吹』と同じように造られた兵器だよ。私は『相川』として造られた。研究テーマは近接戦闘において最強である事」
伊織はゴクリと息を呑んだ。自分と同じ境遇のはずなのに、自由に動いているように見える。きっと、命令に逆らえない、というような術式が組み込まれているのだろう。そうでもなければこんな風に、兵器を野放しにするわけがない。
「僕には息子がいるんだ。君と同じ年齢のね。あ、君の身体年齢、って言った方が正確か」
「息子さんも……兵器なんですか?」
半分以上確信して、伊織は尋ねた。
「ああ、『相川』の最高傑作だよ。私の性能を凌ぐ能力を付与されているんだ。『相川』の戦闘能力を高いレベルで発現し、そして高位の精霊までその身に宿している」
「っ!」
その凄さは伊織にもわかった。いや、まずそんな事が可能なはずがない。精霊魔術師は通常の術式を発動させる事ができない。それは霊力を扱う領域に精霊が居座り、その経路を完全に塞いでしまうから。どう考えても戦闘特化の『相川』と併用できるものではない。あり得ないのだ。
「そんな事……、できるわけがない」
みのるは頷いた。
「そうだね。でも、できてしまったんだ」
みのるの顔に影が落ちた。車のミラー越しにそれが見えた。
「そして、やはり無理があった。光希は、それが私の息子の名前だ、そのせいで力のほとんどを発揮できる状況にない。『相川』としての全力を出してもせいぜい十分程度。それだけの短時間で精霊が暴走する。周りの全てを喰い尽くして」
それじゃあ兵器として欠陥品でしかないじゃない。そう思った伊織の心を読んだように、みのるは言う。
「それでは兵器として欠陥品だ。だが、光希を完成させる方法がわかったんだよ」
「⁉︎……どういう?」
完成させる事ができれば、本当の最強の兵器ができ上がる。それはかなりの衝撃をもたらすだろう。
「わかったんだよ、光希が霊力を上手く使えない理由が。……からだったんだ」
伊織はその言葉に目を見開いた。それではまるで……。
「そのために君の力が必要なんだ」
「……相川さんも、同じなんじゃないですか?そのせいで……」
みのるは首を振る。
「私には無理だ。必ず死ぬようにできてる。でも、光希には私がそうならないようにした。だから、大丈夫だよ」
「それで……いいんですか?」
伊織の言葉にみのるは微笑んで見せた。
「私には絶対に逃れられないから。せめて光希だけでも……」
この人は息子を運命から救いたいんだ、と伊織は思う。そのために兵器として息子を育ててきた。どれだけ辛かっただろう。それなら、伊織がその願いに応えてあげなければ。
「わかった。私がその願い、叶えます」
そして、伊織はあの家にやってきた。そこで出会ったのが、相川光希だった。
伊織の役目とは……?




