天宮家
入学式の次の日は晴天だった。
今日は楓が引き取られる日なのだ。
これは喜ばしい事なのか、楓には判断がつかない。
ただ、分かるのは、これによって楓のこれからの人生が完璧に変わるという事。
その重大な出来事をずっと楓に伏せられていた理由が昨日から気になっている。
(次の駅か……)
殆ど手ぶらの楓は窓の外に目を向けた。
広い草原、田んぼと畑。
まだ新しい芽が出たばかりの地面が通り過ぎていく。
そして空は真っ青だ。
いつも何かが起こる時の空は、こんな風に雲一つない蒼い色をしている。
大変な事にならなければ良いが……。
全ては例の引き取り手次第だ。
楓は立ち上がった。
この駅が終点だ。小さな電車の乗客は、楓一人になっていた。この電車は五星結界の外には出ない。だが、孤児院は五星結界の外にある為、さらに駅から車で行く必要がある。
電車のドアが開くと同時に楓は急いで電車を降りた。勝手にドアは閉まり、電車は勝手に元来た道を引き返す。楓は切符を改札に通し、コンクリートの床から地面に足をつけた。
「良子さんの車は……」
探してみたが、見当たらない。一歩道しかないど田舎なので、来ているのに見つからないなどあり得ない。つまり、まだ来ていないという事だ。
ぼんやりとしばらくそこで立っていると、黒い大きな車が走ってくるのが目に入った。良子の車では無い。違う人だろう。そう判断し、楓は意識を景色に移した。
それにしても様子がおかしい。車はどんどん楓に近づいてくる。楓は目を細め、車を眺めた。
(何の車だろ……?)
素人目に見ても高級だと分かる黒い車は、とうとう楓の前で停止した。
まるで、楓を迎えに来たかのように。
車の後ろのドアが開いた。見知った顔が現れる。
「楓!久しぶりね」
「久しぶり、良子さん。……ところでこの車は……」
楓は言いかけたその時、運転席のドアが開き、白髪の男が姿を見せた。男は黒いスーツを纏い、どこかのお屋敷の執事のような感じだ。この人は誰なのだろう、と思った矢先に、男は胸に手を当てて楓に向かって深く頭を下げた。
「お迎えに上がりました、天宮楓様」
え?
楓の思考が停止した。
状況説明を求めて良子を見たが、良子は少し寂しそうに笑っただけで何も答えてくれない。
「行くわよ」
良子に一言急かされて、楓は男に促されるまま車に乗った。
バタンッとドアが閉まる。
そして車は動き出した。
重苦しい沈黙の中、楓は顔を外に向けた。遠ざかる景色の中に楓が今まで育ってきた孤児院の姿を見つける。
15年。
それが楓がそこで過ごした時間の数だ。
ここでの生活が楽しかった記憶は7歳を境に途絶えてしまった。
『無能』
それが孤児院での楓の呼び名だった。
霊能力者の孤児ばかりを集め育成するこの孤児院で、たった一人の無能力者だった楓はずっと独りだった。
居ないものとして扱ってくれればまだ良かったのに、彼等は楓を放って置かなかった。
楓は昔の事を思い出しそうになり、顔を歪める。
ソレは忘れるべき物だ。
思い出してはいけない。
だが、きっと近いうちに学校でもそうなるのだろう。楓に力が無いと分かった時、生徒や教師が浮かべる筈の侮蔑の表情が目に浮かぶ。
そして、楓はもう一度思い知るのだ。
この世界に、楓の居場所など無いという事を。
ぎゅっと楓は目を瞑った。
目を開け、付き纏う不安と恐怖を振り払おうとする。だが、心の奥にこびり付いた感情はそう簡単には消えてくれなかった。
何も考えないように、もう一度目を閉じる。気づけば楓は寝てしまっていた。
***
「楓、もう少しで着くわよ」
良子の声で微睡んでいた意識が覚醒する。楓はゆっくりと目を開けた。
隣の良子の顔に微かな違和感を感じる。
その訳を探してじっくりと顔を見ると、化粧をあまりしない良子が化粧しているのに気づいた。
車は森の中を走っている。
ここがどこなのかは全く分からない。こんな変な場所に住んでいる楓の引き取り手はきっと変わった人なのだろう。
暗いようで明るい不思議な雰囲気の森は、視界いっぱいに広がっている。車は狭い一本道をさっきからずっと走っていた。
良子の顔をもう一度見る。
楓から見た良子の顔はほんの少しだけ、強張っているように見えた。
なぜだろう。
良子は昨日から何をそんなに恐れているのか。昨日の電話も慌てていたし、今日もあの優しいいつもの笑顔を見ていない。
これから離れて会えなくなるのなら、最後になる今日もあの笑顔が見たかった、と思ってしまう。
だが、いつも笑っている良子が顔を緊張させるほどの人物とは……。楓はそんな人物に引き取られるかもしれないのだ。
(嫌だな……)
ふとそう思った。
「……!」
慣性に身体が少し引きずられ、前のめりになる。そして、車が止まった。
楓の座席のドアが開く。
「着きました。お降りください」
相変わらずのおかしな口調で男は楓に言った。楓は足を伸ばしながら外に出た。
「……ここが楓の家よ」
いつのまにか隣に立っていた良子に耳打ちされ、楓は目の前の家を見た。いや、家ではない。そこにあったのは、大きなお屋敷に他ならない。
……これが楓の家だと言うのだ。
「はぁああああっ⁉︎ なんじゃこりゃぁああ⁉︎」
バサバサバサ……。
森の木々から鳥が飛び立つ。楓の叫び声に驚いているのは明白だ。
ぽっかーん、とアホみたいに口が開く。良子が視界の端で頭を抱えたのが見えた。
「……天宮様、藤峰様、御当主様がお待ちです」
運転していた男が表情を変えずに言った。楓と良子は顔を引き締め、頷く。男は踵を返した。
男の後を追いながら、楓は目の前の屋敷を眺める。日本の武家屋敷のような建物だ。住んでいるのも厳つい着物のお爺さんだったりしてもおかしくない。
今時、そんな人が畳で正座して待っていると考えると、不謹慎にも笑いが込み上げてくる。
玄関で靴を脱ぎ、楓と良子は木張りの廊下を歩いていく。外見は完全な武家屋敷だが、中身はそうでもない。洋風のドアもあり、和と洋が入り混じっているような感じだ。だがそれでいて違和感はなく、馴染んでいる。
突然、男は足を止めて振り返った。無表情のまま楓を見る目は少し怖かった。
「こちらでございます」
男は屋敷のかなり奥の方の洋風の扉を指し示す。男は丁寧に扉を開いた。
「お入り下さい」
楓はゴクリと唾を飲み込む。それから部屋に足を踏み入れた。楓と良子が部屋に入ると、後ろでドアがパタンと閉まる。
そこは書斎だった。机に座っているのは、着物を着た目つきの鋭い老人だ。予想通りの風貌だった事に驚いたが、笑い出せる雰囲気ではない。きちんと楓は笑いを飲み込んだ。
そして何よりもこの老人の存在感だ。
圧倒的な支配者然とした佇まい。全てを見透かす鋭い眼光。
(……強いな、この人)
楓は顔を引き締める。目の前の老人は今まで会った事のないほどの強い気配を纏っていた。常人を超えたその圧力は、楓を押し潰しそうだった。
「天宮楓様と藤峰良子様をお連れしました」
「うむ、ご苦労だったな。席を外せ」
老人は素っ気ない口調で男に指示を出した。男は恭しく頭を下げる。
「かしこまりました」
扉が開閉し、書斎には楓、良子、それから老人の3人だけが取り残された。とても居心地が悪いが、顔には出せない。
「……お前が、天宮楓か?」
老人にただ圧倒されていた楓は、低い声で問われたその質問に答えるのにしばらくの時間を要した。
「……はい」
老人は小さく頷くと、良子の方に向き直った。良子はこうべを垂れる。
「お久しぶりでございます、御当主様」
お久しぶり、とはどういう事なのだろう。良子はずっと前からこの人を知っているという事は分かる。それなら良子が頭を下げるこの老人は一体……。
「長らくご苦労だった。もう私の話はしたか?」
老人の問いに良子は首を振る。
「いえ、御当主様本人からの方がよろしいかと思いましたので」
「そうか」
老人は楓に鋭い眼光を向けた。緊張に楓の身体が強張る。老人は着物の袖をスッと伸ばし、口を開いた。
「私は天宮家当主、天宮健吾。お前の祖父にあたる人間だ」
楓は息を呑んだ。
そういう事だったのか。
今まで感じていた疑問がその一言で解けていく。だが、それと同時に消えた疑問の数よりも多くの疑問が沸き起こる。
しかし、楓が感じたのは恐怖だった。
天宮家当主の血を引いているというのが事実なら、楓に霊力が無いという事実はどう説明するというのだろう。
霊能力者が優遇される世界で、無能力者は冷遇される。霊能力者を束ねる位置にある天宮家が無能力者を引き取るという矛盾は、小さな物ではない筈だ。
楓は感情を顔に出さないように、無表情になる。そして、警戒を強め、油断はしない。この老人は信用できない。
「お前は天宮家始祖から連なる直系の子孫であり、先代当主、天宮桜の娘だ。桜はお前を孤児院に預けて、失踪した。……おそらく、その年に命を落としたのだろう」
老人、天宮健吾はそこで言葉を切った。
楓は戸惑い、話について行くのに必死になる。突然、あの天宮家の当主に呼び出され、お前は天宮の直系の子孫だの、母親は先代当主だの言われても、ついて行ける訳がない。
「お前が無能力者であるのは知っている。だが、天宮は特別な名だ。それを生まれた時から桜によって名乗るのを許された事に、私は大きな意味があると思っている」
楓は顔を強張らせ、健吾の言葉を待った。
「私はお前を天宮家に迎えようと思う」