琴吹伊織
ソファーで眠っている少女を光希は見た。
薄汚れたワンピースに身を包んだ少女の顔色は青白く、身体は触ったら壊れてしまいそうに華奢だった。あまり良い生活環境の中で過ごしていなかったのだろう。そして、特徴的なのはこの少女の髪の色だ。純白の雪のような白い髪が緩やかにウェーブし、少女の肩にかかっている。しかし、髪には艶がなく、服や靴と同様に薄汚れていた。
ソファーで目を閉じている少女の肩が微かに上下している。その顔は何かに怯えるように強張っていた。
光希は少女から目を離し、みのるを見た。
「この子は……?」
みのるは珍しく真剣な顔で光希と目を合わせた。その表情にいつもとは違う感覚を覚える。
「この子は……」
みのるが何かを言いかけた時、少女がもぞりと身動きをした。光希は思わず身構えてしまう。白い少女は眠そうに目をこすり、むくりと起き上がった。
「ん……」
ぽけーっ、としながら少女はソファーにちょこんと座った。
光希はそんな少女に視線を向ける。少女の瞳を見た光希は息を呑んだ。少女の瞳は宝石のような赤い色をしていた。吸い込まれそうなほど美しい瞳だった。
少女と目が合った。少女は驚いたように目を見開き、怯えるように肩をびくりと震わせた。みのるはそんな少女と目を合わせるように屈む。みのるを見た少女は少し安心したように顔を綻ばせた。
二人はどういう関係なのだろうか。みのると顔は似ていないので、光希の妹である可能性はほぼゼロだ。そうすると、余計二人の関係が不思議に思えてくる。
「ごめんね、驚かせちゃって」
みのるは優しく少女に声をかける。少女はふるふると頭を振った。そして光希の方を伺うように視線を揺らす。
「こっちは私の息子だから、安心していいよ」
みのるは自己紹介しろ、とばかりにこちらを見た。光希はぼそりと呟くように答える。
「俺は相川光希だ。中学一年だ」
少女は少し嬉しそうに頷いた。その赤い瞳を瞬いて口を開く。
「わ……、私の名前は、琴吹伊織です……」
掠れた声で一音出し、伊織と名乗った少女は名前を告げた。
琴吹。知らない苗字だ。ということは、大きな家の血を引いているわけではないのだろう。もちろん、偽名という可能性もなきにしもあらずだが。
「伊織は光希、お前と同い年だ。そしてこの子は追われている」
みのるの意味のわからない説明に、光希は片眉を上げた。伊織の方を伺っても、伊織は俯いて答える気配はない。
「どういう事だ?」
「伊織はちょっと特殊な力があるんだよ。そのせいで追われているんだ」
「誰に?」
「うーん、他の家、とか」
みのるの答えがはぐらかすようなものである事に気づいた光希は不審に感じた。一番引っかかったのは、伊織の力を語らなかった事。みのるの事だ、あえて言わなかったのだろう。
みのるは笑顔を深めた。
「そこで、光希にはお願いがあります」
冗談めかしてみのるは言う。光希はその言葉にさらに警戒心を強めた。
「光希、琴吹伊織の護衛をしてくれる?」
「……」
『お願い』の形を取ってはいるが、これは命令だった。光希に拒否権はない。どうして光希に護衛任務を課したのか、その理由は全くわからなかった。みのるがすれば確実なのに、なぜ。
「あ、あの、相川さんにこれ以上迷惑はかけれません……」
伊織が小さな声で言ったが、説得力は皆無だった。当然、みのるは無視した。光希はみのるに鋭く視線を向ける。
「伊織の護衛をするにあたって、光希と伊織にはこの家に住んでもらう。好きに使っていいよ」
「な……!?」
確かにこの家は隠れ家にはうってつけだが、二人で住むというのは光希にとって驚きだった。伊織も目をぱちくりさせている。さすがにこんな事を言われるとは思っていなかったみたいだ。
「で、でも……」
「大丈夫、何かあったら駆けつけるから」
みのるはこう言うことで、伊織の言葉を封じた。
「いつまでだ?」
「どうだろうね、今のところはわからないかな」
光希の質問も流される。どういう目的でこんな事を始めたのか、みのるの意図が全く理解できない。
「……学校はどうすればいい?」
「休んでいいよ〜、ちなみにもう届出は出したから」
用意周到すぎる。これが『九神』トップレベルの実力か、と最早感嘆するしかない。光希は手を額に当て、息をはく。覚悟は決めていた。
「わかった」
伊織は不安そうに光希を見てきた。本当にいいのか、と問いかけるような目で。光希は頷く。
「ありがとう、光希、引き受けてくれて」
「じゃあ、私はもう行かなきゃいけないから、行くね。安心していいよ、伊織。光希は、強いから」
みのるのその言葉が光希の心に突き刺さった。一瞬、冷や水をかけられたような恐怖を感じる。暴走が起これば、光希の隣にいるこの少女が傷つくことになる。その瞬間を想像してしまい、光希は頭を振ってそれを打ち消す。絶対にそんな事はしない。
静かにドアが閉まった。伊織の伸ばした手が空を切る。赤い瞳が不安そうに揺れた。
みのるがいなくなり、家は静まり返ってしまった。伊織はソファーに座ったまま、動こうとしない。同い年のはずが、伊織は幼く見えた。
数分そのままだっただろうか。
光希は口を開いた。
「シャワー、浴びてきたらどうだ?」
伊織の服は薄汚れ、髪もパサパサだ。光希が思いついたのは、伊織に身体を綺麗にしてもらうことだけだった。
「……うん、」
伊織は沈んだ声でぼそりと返事をした。立ち上がり、裸足でペタペタと歩いて風呂場に向かう。光希はその背中を見送ると、ふとある事に気づいた。
服がない。
重大な事が発覚してしまった。光希は二階に上がり、部屋を見て回る。寝室が三部屋、何もない部屋が一部屋、それからトイレが二階にあった。箪笥や棚、クローゼットは存在していたが、服は一着も置いていなかった。
「はぁ……」
光希は溜息を思わずついた。みのるは用意周到だとさっき感心したばかりなのだが、どうやら気は利かないようだ。
下から水が流れる音が聞こえてきた。
光希の私服は学校の寮にある。女物は当たり前のように持っていないが、とりあえず自分の物だけでも確保するべきだろう。ここから学校まではそう遠くない。伊織がシャワーを浴び終わる前に取ってくる事くらいできるはずだ。
光希は静かに一階に降りる。そして静かに家の外に出た。




