違う世界で生きる心構え
301号室、301号室。
心の中で唱えながら、楓は廊下を歩く。目の前のドアは310号室だ。楓は足を止める。
ここが310号室なら、301号室はとうの昔に通り過ぎてしまったのではないか……。
一番階段に近い部屋が301号室だったような気がしてきた。楓は別に部屋なんて間違えてません、という顔で踵を返す。引き返し、楓は301号室を探しながら歩く。一度来たことがある筈なのに道、というか部屋に迷った自分が少し情けない。
「あった!」
小さく声を上げ、楓は301号室のドアの前で立ち止まった。楓は制服の胸ポケットに手を突っ込むと、学生証を引っ張り出す。これがこの部屋の鍵だ。他にも学食に使ったりするらしい。
軽くカードをかざすと、ガチャリとドアの鍵が開く音がした。楓はドアノブに手をかけ、勢いよく開け放った。
ばーんっ。
思ったよりも良い音がして、楓は後ろを振り返る。丁度廊下を歩いていた他の生徒に軽く睨まれてしまった。楓は愛想笑いで頭を下げる。それからそそくさと部屋に退散した。
部屋に入ると、もう既に明かりがついていて、人の気配があった。もしかすると、まだ会っていないこの部屋の住人なのではないだろうか。そう思った楓は、さっきのドアの風圧で乱れた前髪を指で梳いて整えた。
よしっ。
心の中で気合を入れる。そして、楓は部屋の中に足を踏み出した。
「あら、同室の生徒って、あなたの事だったの?」
とても見覚えのある顔があった。黒い長い髪に白い肌、それから少し吊り目な目。間違いなく入学式で顔を合わせた少女だった。
「え?あ、はあ?」
楓の口から間が抜けた声が出る。
「木葉なの?同室」
木葉はにこりと微笑んだ。
「この状況を見ればそう判断するしか無いわね。とりあえず、これからよろしくね、楓」
「あ、うん。よろしく、木葉」
改めて挨拶を交わす。
「荷物は向こうに固めてあるから、教科書とかも並べといた方がいいと思うわよ」
「分かった〜」
木葉が指を指した段ボール箱に近寄ると、宛名が書いてあった。当然、書かれている名前は楓の物だ。いつのまにか送られてきていたみたいだが、荷作りした記憶はない。
一体誰が用意したのだろう。
ガムテープをべりべりと剥がし、中を確認する。確かに筆記用具などは間違いなく自分の物なのだが、他にも新品のノートや教科書なんかも入っていた。
楓は首を捻りながら、荷物を段ボールから移動させ始める。持っていなかったものまで入っているのだが、もう既に有り難く頂こう精神によって机にぶち込まれていく。
机の上に教科書類を山積みにしてしばらく作業。
そして、案の定、肘が机に当たって教科書が滑り落ちた。
どさどさどさ……。
「……」
楓は無言で教科書達を拾って、再び机の上に積む。今度は一秒と待たずに全て崩れ落ちた。
「……」
少しムカついた楓は教科書を床に放置して、他の物を机やクローゼットに詰め込んで行く。
そうしてそんなこんなしていれば、結構な時間が経っていったのだった。
「終わったぁ〜、疲れたぁ〜」
「お疲れ様」
木葉はカーペットの上で横たえていた身体を起こし、楓の座るスペースを作る。楓は有り難くカーペットに腰を下ろし、足を伸ばした。
楓は木葉の方を見た。丁度木葉も顔を動かした時で目が合った。木葉が楓に顔を寄せる。楓は瞬きをした。
「……突然だけど、あなたって、一般中学に通っていたの?」
木葉の意図が分からず、楓は探るような目を木葉に向けてしまう。だが、木葉はその反応を突然だとでも言うように無視した。これから同じ部屋で暮らすのだ。この程度の秘密、簡単にバレるだろう。楓はふうっと息を吐き、答えた。
「……ああ、そうだよ。それが、どうかした?」
木葉は顎に手を当てた。
「なら、私達のルールを知らないわよね?」
「ルール?何の?」
楓は木葉の言葉を疑問符をつけて繰り返す。木葉は顎から手を離し、指を伸ばした。
「ルール、と言っても、暗黙の了解と言った方が正しいかしら?それは、私達霊能力者全員が暗黙の内に認識し、守っている事よ」
楓の頭にハテナが大量に浮かぶ。木葉は笑って付け加えた。
「つまり、あなたが知っておかなければならないルールがあるということよ。あなた、霊能力者についてはどれくらい知ってる?」
楓は目を伏せ、首を振る。
「残念ながらあんまり……」
「そう」
木葉は端的に返事をした。どうやらこの反応も予想済みだったようだ。
「私達、霊能力者には血筋がその能力に最も力を及ぼすの。そして、その家だけに伝わる秘術なんかも継承されているわ。……だから、他の家には知られたくない秘密が沢山あるってわけよ」
「はあー」
楓はただ間抜けな返事くらいしか出来ない。今まであまり触れてこなかった世界だし、触れる事になるとは思っていなかったのだ。ちんぷんかんぷんなのも当然だ。
「そこで私達は家や術式については余計な詮索をしない、というのを守っているの」
「なるほど……」
理解はできた。楓は頭を上下に振って理解した事を示す。
「とりあえず、あんまり人と関わらなければ良いのかぁー」
「……ちょっとズレているけれど、まあ、そうね」
木葉が呆れ気味に呟いた。
「……でも、他がそれを許してくれるかどうか……」
不穏な言葉が聞こえる。楓はどきりとして木葉の目を見た。木葉と目が合う。
「どういう事なんだ、それは?」
「……あなたが天宮だからよ。ここは霊能力者を育成する為の学校だから、天宮に対する目は他の場所よりも厳しいわ」
「……」
顔が真っ青になっていくのが感じられる。『無能』の『天宮』はここでは間違いなく生きていけない。
「……退学したい」
「おそらく無理よ」
バッサリと楓の願いは斬って捨てられる。木葉の目は真剣そのものだった。
「天宮という名に嘘は無い。だから、あなたがこの学校に入学されたのはきっと何らかの意図が働いている筈よ。その意図に反する事は出来ないわ」
楓はカーペットに置かれた小さなテーブルに顎を乗せ、小さな声で反論する。
「何でそう言い切れるのさ」
木葉は真顔で言い切る。
「カンよ」
「は?」
楓は口をぱかっと開けた。弾みでテーブルに顎を激しく打ち付ける。
「いだっ!」
楓は涙目で顎を押さえる。目の前で木葉が肩を震わせ始めた。しばらく木葉は必死で頑張っていたが、とうとう吹き出した。
「プハッ、ふふふっ、あははっ、おもしろ、すぎる、わよっ!ふふっ……」
カーペットの上で悶える木葉。
「……木葉のツボが浅いだけだろ」
楓は呆れて木葉を見下ろす。その呟きを聞き取ったらしい木葉は、笑いながら返事を返した。
「あはっ、違う、わよ、ふふふっ、あなたの存在が、ギャグなのよっ!」
「ぎゃ、ギャグぅ?なんだとぉ!」
楓が怒りを込めて拳を振り上げ、木葉に迫る。そこで木葉は真顔に戻った。
「……まあ、笑うのはそれくらいにして、そろそろ夕食にでも行きましょう?」
「今盛大に話逸らしたよな⁉︎」
「お腹空いたわ」
楓のツッコミ虚しく、木葉は夕食に行く準備を始めてしまった。楓は振り上げていた手を下ろし、木葉を横目で見る。
……木葉はとてもマイペースな人のようだった。
木葉に流されるままに、楓は部屋から出る。
「学生証、持ったかしら?」
「もちろんだよ、それがないと帰ってこれないだろ?」
歩き出した木葉に早歩きで追いつき、楓は言う。木葉は学生証をピラピラと振って、頷いた。
「ええ、それに、学生証が無いと学食、食べれないのよ」
「マジ?」
「マジよ」
楓は胸ポケットの学生証に手を当てた。
そんなに大事な物だとは……。要するにこのカードが生命線というわけだ。
失くさないようにしないと……。
楓は心の中で呟いた。これが無ければ生きていけないのだ。大事にせねばならない。
「知らなかったの?」
木葉に聞かれて、楓はギクリとする。馬鹿正直に頷いてしまえば、送られてきた案内を全く読んでいなかった事がバレてしまう。
「……読んでなかったのね」
「は!な、な、何で分かったの⁉︎」
木葉の心を読んだような発言に、楓は引きつった顔で叫ぶ。
「だって、あなたの顔に読んでないって書いてあったからよ」
「う、うそぉっ⁉︎」
素っ頓狂な声を上げ、楓は自分の顔を触る。もちろん普通に目と鼻と口があるだけだ。
「馬鹿なのっ⁉︎」
「へ⁉︎」
木葉の叫びに楓はキョトンとしてから、怒った顔をする。
「違うし!ボクは断じてバカではないっ!」
木葉が白い目で楓を見た。
「……知ってる?そう言うキャラほどバカなのよ」
「なんだって⁉︎」
木葉がやれやれと首を振り、憐れなものを見る目を楓に向ける。そして何かを口にしようとした時、木葉は何かに向かって微笑んだ。楓はその動作に動きを削がれ、木葉の視線の先を追う。
その先の女子棟の出入り口にいたのは、楓が寮まで話していた少女、荒木夏美だった。
「あっ!」
楓は小さく声を上げる。それに気づいた木葉は聞く。
「あった事あるの?」
「うん、さっき寮まで一緒だった」
「ふうん、なるほどねぇ」
木葉は思わせぶりに呟き、唇の端を持ち上げた。もう一人の少女と一緒にいた夏美は、木葉を見ると楓達の所まで向かってくる。
「久しぶりだね、下田木葉さん」
夏美は笑顔を見せた。だが、その目はあまり笑っていない。楓は黙って二人の様子を観察する。
「久しぶりね、夏美。私のことは木葉でいいわよ、同じクラスなのだし」
「うん。まさか木葉と同じクラスになるとは思わなかったよ。……なんでここにいるの?」
冷えた空気が二人の間を流れる。
木葉はそれを気にせずに微笑みを崩さない。
「さあ?私にはよく分からないわ」
「……ふうん。そう」
夏美は素っ気なくそう答え、それから可愛らしい笑顔を浮かべて楓を見た。
「また会ったね、えっと……」
呼び名に困ったらしく夏美は困った顔をした。その顔は小動物さながら愛らしい。
「楓、で良いよ」
「うん、じゃあ、楓って呼ぶね。私のことは夏美で良いよ」
「分かった」
楓はにこりと笑って頷いた。そんな二人を木葉は静かに見つめている。そして夏美は楓に提案した。
「もし良かったら、私達と一緒に夕食、食べに行かない?」
「うん、良いよ!」
楓は笑顔で首を縦に振る。
断る理由など、存在しなかった。