長距離走
「あー!食った食った〜!」
お腹をさすりながら楓は言う。
「ちょっと、食べ過ぎじゃないの?」
木葉は呑気な楓の脇腹を小突いた。
「うひゃっ、大丈夫だよー!これから走ったらお腹空くからさ、ほらほら、プラマイゼロ!ってトコだよ!」
昼ご飯を食べ終えた後、体操服に着替えた楓は、同じく体操服姿の木葉にニヤリと笑いかける。
「確かに……」
木葉は視線を自分のウエストに向けた。我ながらスタイルはいい方だと思っている。その上、木葉にはウエストや脂肪を気にする必要など存在しない。
木葉は不意に鋭い視線を感じ、振り返った。明らかに怪しいタイミングで目を逸らした者がいる。夕姫だ。夕姫は何やら気落ちした様子で自分のウエストに視線を落とす。いや、ウエストよりも少し上の部分。その視線の動きに気づいた木葉は夕姫に少々同情をしてしまった。
「どうしたの?木葉」
「あ、いいえ、何も無いわよ。ちょっとボーっとしていただけ」
「ふーん、そう?」
木葉が何を思っていたのかはよくわからなかったが、詮索する必要もないと思った楓は聞くことをやめた。
「楓〜!」
笑顔で手を振りながら夏美が駆け寄ってくる。夕姫の目つきがさらに険しくなる。木葉はその視線をたどり、確証を得た。そう、夏美は巨乳なのである。背も低く童顔気味ではあるが、その胸だけは立派な存在感が……。そして、夕姫はまな板。羨ましいのも、当然だ。勝手に夕姫の心中を察した木葉は夕姫に暖かい視線を向けた。
なぜか、睨まれた。木葉は肝心な事を忘れていた。自分自身もそこそこ胸があるという事実を。夕姫にとっては木葉も立派な敵なのだ。
夕姫は救いを求めて楓を見た。うん、大丈夫。同じくらいだ。
夕姫の視線を感じた楓は首を傾げた。
「うん?どうしたの?」
「あ、ううん、何でもないよ?」
夕姫の少し怪しい答え方に楓は疑問を覚える。楓を納得させきれなかった事を自覚した夕姫は話題を逸らした。
「もうすぐ、始まるんじゃないっけ?マラソン、」
「そうだね、ただ、距離とコースがわからないってのがね……」
「まあ、これも訓練の一環なのよ」
木葉の言葉に楓と夕姫は同じようにキョトンとした顔をする。
「えっとね、つまりはこういう事。実戦だと、地形のわからない場所を長い時間走ったりする時もあるでしょ?」
「あー、なるほど!」
目からウロコだ。楓はポンと、手を叩いた。
「それでは今から長距離走を始めます!」
拡声機を通した声に楓達は会話をやめた。大勢の生徒たちがぞろぞろと移動を開始した。楓はどこに向かっているかわからないまま、ついていく。気づいたら、木葉達とはぐれてしまっていた。不安に思ってキョロキョロするが、見つからない。人の動きが止まったと思ったら、指示が聞こえてきた。
「男女混合で走ってもらいます。コースは標識と道に従ってください。では、始めてください」
え?
突然過ぎて戸惑った。しかし、全員はもう既にスタートを切っていた。それもかなりのスピードで。たった一人取り残された楓も走り出す。
コースはわからないが、他の人達についていけばいいはず。さっさと終わらせたい楓はスピードを少し上げる。
他の生徒達の背中を見ているのも暇なので、楓は周りに意識を向けた。鬱蒼と茂った葉は道に暗い影を落としている。どこまでも続いていそうな森は道を終わりのないもののように感じさせる。そして、何より暑い。茂った木々が熱が逃げるのを阻止していた。
しばらくすると、人が周りにいなくなっていた。
(あれ?道、間違えたかな?だけど道って、これしかない気がするけどな……)
首をひねりながらも楓は足を止めない。もうどれくらい走ったのか、わからなくなっていた。疲れ具合からしてまあまあ走ったとは思うのだが。心配した楓はスピードをさらに上げる。前になら人がいるかもしれないと思ったのだ。
またしばらく走ると、二人の男子生徒の背中が見えてきた。
(よかった〜、道、間違えてなかったみたいだ)
安心した楓はさらに二人に近づいていく。一緒に走れば絶対道に迷わなさそうだ。おまけに速度も丁度いいはず。それにしても、見覚えのある背格好だ。
「天宮⁉︎」
とうとう隣に追いついた。楓の前にいたのは光希と涼の二人だった。二人は驚きを顔に浮かべていた。
(どうりで見覚えがあると思ったワケだ……)
「ところで、どうしてそんなに驚いてるの?」
走りながら話しかける。呆れたように目を細めた涼がその質問に答えた。
「いや、だって、ここ先頭だよ?」
涼は落ちていた木の枝を避けるために一旦口を閉じ、再び開く。
「それも、結構スピード出してるよ?」
「あ、そうなの?ちょっと前までもうちょいスピード上げて、走って来たけど?」
涼と光希は驚きの表情をさらに深める。生身の人間にこのスピードでずっと走って来られるわけがなかった。ましてや、これ以上……。その上、今まで本当に走っていたのかどうかすらわからないほど、楓は息を乱した様子がなかった。当然、光希と涼は霊力を使っていた。他の生徒達もそうだろう。これはそういう訓練だから。なのに、コイツときたら……。
二人の驚きを他所に、楓は笑顔で話す。
「なんかさー、すごい突然始まっちゃって、びっくりして、みんなに置いてかれたんだよね〜。みんな、すごいスピードでさ、あれ?どしたの?」
笑いも返事も来ない事を不審に思い、楓は二人を見た。光希は楓の話に顔をひきつらせる。むちゃくちゃだ。一番遅くにスタートして先頭に追いつくなんて、どういう神経をしているのか、こっちが聞きたい。おまけにその『みんな』を凌駕するスピードで走っていた事に気付いてほしい。
「楓は、すごいね。それで僕たちに余裕で追いつくなんてさ」
「え?別に余裕じゃないぞ?結構疲れたし」
どこがだよ⁉︎と光希は叫び出したくなった。これだけむちゃくちゃで、かつ自覚がない事にすごく問題があると思う。天宮楓が本当に人間なのかが疑わしい。
「まだ、着かないの?」
少しの沈黙の後、涼が確信ありげに答えた。
「いや、もう少しだよ」
「なんでわかるの?コースの長さとかって発表されてないでしょ?」
楓の疑問に涼は額から汗が流れるのを感じながら、口を開く。
「神林家は、使い魔の一族なんだ。僕の使い魔は黒いカラスだよ。ヨルに空から見てきてもらった」
ヨル、というのが烏の名前だろう、と楓は涼の言葉から推測した。涼の気の進まなさそうな態度が気になった。何か、言いたくないことがあったのだろうか。
「見えてきたぞ」
光希の声に楓は遠くを見た。確かに森の終わりが見える。流石の楓でもキツくなってきていた。と言いつつも、まだ顔にだいぶ余裕は残されている。それに比べ、光希と涼の足取りはしっかりはしていたが、疲労を顔に滲ませていた。
「はあ、着いたぁ〜!」
息を吐いて楓は手を上に上げる。光希はそんな楓を横目に手を膝に乗せて荒く息をつく。涼も同じく、だ。まず、こんなに走ってケロっとしている人間がおかしいのである。少しは疲れたようだが、無論楓のことだ。
その五、六分後、ゴールしたのは夕姫、夕馬、夏美、木葉の四人だった。ゴールした途端、全員が地面に倒れこむ。
「えっと、お疲れ」
「はぁ、はぁ、楓、速いよ〜」
「そうだよ、ふう、どこにもいないから心配してたのに、急にすごいスピード抜かされちゃうんだもん!」
「ほんと、どんな、身体の構造してるのよ……」
口々に色々言われてしまった。もしかすると、森のコースについて考え事をしている間に抜かしたのかもしれない。楓は自分を指差して問いかける。
「ボクって、変?」
「変!」
即答だった。語尾は「だ!」「だよ!」「よ!」など、それぞれ違っていたが。




