今ここにいる理由
二人は無言で教室を出た。もう廊下に人はいない。外からの騒ぎ声が微かに聞こえるだけで、とても静かだった。それが今はとても息苦しい。何かを話さなければいけないような気がして、光希は言葉を探したが、ぼんやりと虚空を見つめている楓にかける言葉は見つからなかった。
バサリ……
沈黙を破って、鳥が羽ばたく音が響いた。光希は音のした方向を見た。黒い鳥が空に舞い上がり、飛んで行く。烏だった。
(なんだ、カラスか……)
光希は烏から目線を離した。烏が教室の窓から飛んで行った事に、違う事を考えていた光希は違和感を感じなかった。
ふと横を見ると、楓の姿が消えていた。前に視線をずらすと、のろのろと無気力に歩く楓がいる。小走りで楓に追いつき、光希は躊躇いながら口を開いた。
「……ランク、取る気だったのか?」
楓はぼんやりとした瞳で光希を見た。そして、コクリ、と頷いた。その顔には暗い影が落ちていた。いつも明るく振舞っている楓の諦めたような顔は、余計、見ていて痛々しかった。楓にこういう表情をして欲しくないと思うのは、傲慢だろうか。
でも、一つだけ言えることがある。この表情は完全に全てを諦めた人間にはできないものだ。楓は誰にも馬鹿にされないだけの実力がある事をランクを取る事で証明しようとしていたのだろう。そして、一度だけかもしれないチャンスを命令という形で封じられた。楓はその事にショックを受けたようだった。
ぼんやりと、何も話す気がなさそうな楓の隣を歩きながら光希は考える。和宏は何の目的で、楓が勝つ事を禁じ、光希に優勝する事を命令したのだろうか。光希自身、あの教師は信用していなかったが、何の意味もなくそういう事を言うような人間ではないと思っている。正体のしれない人間に従うのは癪だったが、下手に逆らうのは得ではない。だから光希は和宏の命令に従う事を決めたのだった。
ただ、問題は神林涼。同じランク、ほぼ互角の戦闘能力。今の光希では苦戦するのは明白だった。だが、勝たなければならない。楓のためにも自分のためにも。
光希は拳を握りしめ、密かな決意を胸に刻んだ。
「『神』って、いると思うか?」
不意に桜木カレンの言葉を思い出し、光希は楓に問いかけていた。
「……ん?」
楓は一瞬ぼんやりとした表情で光希を見た。そして、何やら我に返ったようにもう一度光希の顔を見る。顎に手を当て、考えるそぶりを見せた楓は口を開いた。
「どうなんだろう、でも神なんてものがいるなら霊力、くれないかな〜?」
冗談めかして楓は笑いながら言った。光希が黙り込んだのに気づかず、そのまま話し続ける。
「ボクに霊力があったら、ちょちょいのちょいでバーン! なんだけどな〜! 一転して優等生だよ!」
指をくるくると動かして、手をグーにする。そして、「バーン!」と共にばっと手を広げた。
ばしっ
「あ、ごめん」
広げた手が光希の肩に当たり、楓は謝った。だが、光希の反応がない。心配して、光希の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か……?」
肩をつついてみる。それでも、まだ反応は薄いまま。
「おーい! 相川!」
痺れを切らして、耳元で叫んでみた。ぼんやりしていた光希が飛び上がる。
「あ、ああ、何だ?」
「いや、何でもないけど、なんかぼーっとしてだからさ……」
光希は楓の顔を見た。さっきまでの悲壮感は息を潜めていた。隠しているのだろう。それにしても、自分が心配されるなんて不覚だった。これでは立場が逆だ。
「……相川は『神』っていると思ってる?」
唐突に尋ねられて、光希は少し戸惑った。楓には、あの事を話しておく必要がある。
「わからない。だが、桜木カレンが言っていた。『神』を殺すのが任務だと」
楓の瞳が眼鏡の奥で大きくなる。
「……てことは、相川がその『神』って事?」
「その可能性はあるが……、まず俺には『神』という存在が何なのかがわからないんだ」
どこか遠くを見た楓が呟く。
「神は……、世界を分けたんだ」
「どういう事だ!?」
光希に詰め寄られ、楓はたじたじと後退した。それに気づき、光希は謝る。
「……すまない。その言葉はどこで……?」
楓はよくわからないというように首をひねり、顔をしかめた。
「……どこか本とかで読んだ気がするけど……、どこだっけ? わからないや。……でもさ、全てを超越した完全なるものなんて、存在するのかな?」
光希は首を振った。
「いないんじゃないか?」
楓は陰りのある表情で頷く。
「……ボクも、そう思う。神さまに願っても何も変わらない。だからボクは、神になんて祈らない」
「天宮……」
光希はどうしようもない虚しさを抱えた楓の言葉に沈黙した。その様子に気づいた楓はわざと明るく言う。
「まあ、どうでもいいけどなー。やっぱ、神ってなんなんだろう?」
「……どうなんだろうな。ただ、それが何なのかわからなくても、天宮家や他の家、組織までもが動いている。おそらく、『神』のために」
「調べたりしたの?」
「まあ、調べたんだが……、何も出て来なかった」
桜木カレンから聞こうと思っていたのだが、カレン自身も『神』という存在があるという事だけを伝えられていたようで中身は何も知らなかった。情報収集の得意な木葉に頼んではいるが、あまり期待しない方がいいだろう。
「そっか……、何なんだろうな、『神』って……。ていうか、大真面目に『神』とか言ってるボクたちも変だけどな」
「確かにな」
笑いながら光希は答え、楓を見た。この、やっと修復された空気を壊すことにはなるが、言う機会は今しかない。光希は思い切って、口を開いた。
「……でも、無理はするなよ」
楓の顔から笑いが消える。
「……ああ、わかった。やっぱり、気づいてた?」
「まあ、ちょっとはな……」
ふふっ、と楓は笑いを漏らす。
「な、何だよ?」
「いや?何でもない。ただ、心配、してくれてるんだなって……」
光希はあらぬ方向に視線を向けた。
「別に、俺はお前の護衛だからな……。護衛が主の心配して何が悪い」
なぜか開き直った解答に、楓は笑いを堪えられなかった。
「なんか、他の人から心配されるなんて初めてだなって思ってさ、」
楓は視線を下に落とす。良子も自分のことを気にかけてくれたが、こういう風に心配してくれる人はいなかった。
「……相川、何でボクはここにいるんだろう?」
そんな疑問が不意に口をついて出た。
「強いて言えば、……運命、じゃないか?」
光希の隣で小さく笑う気配がした。
「そうかもな」




