楓の秘密
次の日、昼までの授業が終わると、楓たち4人は食堂に直行した。もちろん席を取るためだ。楓はちょうどいい席を見つけると、一目散に座りに行った。
「みんなは先にとって来てよ!
待ってるからさ!」
「ここはニ、ニに分かれるところでしょ」
そう言って木葉は楓の隣に腰を下ろした。その心遣いが嬉しい。楓は頰を緩ませた。
「じゃ、お言葉に甘えて行ってくるね」
夏美と夕姫は連れ立って列に並びに走る。お昼の食堂は激戦地なのである。三学年、全ての生徒がここで昼食を買うのだ。激戦地にならないわけがない。
「楓、ちょっとお手洗いに行って来るわね」
「いってら〜!」
木葉はそう言うと席を立った。手を振って送り出す。楓は話し相手がいなくなって暇を持て余し、足をぶらぶらさせる。食堂を見渡すと色々な光景が見えた。ワイワイ騒ぐ人達が大半だが、お行儀良く座って食べている人達もいる。これだけの人がいれば、観察する対象には全く困らない。
とん
楓の肩に誰かの肘が当たった。
「ん?」
顔を上げると見知った顔がそこにあった。楓は身体を硬直させる。
「か、霞浦……?」
亜美は楓を嬉しそうに見下ろす。ゆるやかにウェーブした髪をくるくると弄もてあそびながら、口を開いた。
「1時に教室棟の裏まで来なさい。来ないと……どうなるかはわかりますわよね?」
ゴクリと楓の喉が動く。何も返事はしない。亜美は楓を見ずに立ち去った。ここでもやっぱり起こる事は同じなのか、と小さな失望を抱え、楓は亜美の後ろ姿を眺める。まるで、他人事のように。
「待たせてごめんなさい」
亜美と入れ替わるように木葉は席に戻って来た。亜美とのことは悟らせないようにしなければならない。これは自分の問題。木葉を巻き込む話ではない。
「たっだいまー!」
元気よく夕姫はお盆を置いた。スープが溢れかけたが、御構い無しだ。そんな夕姫とは対象的に、夏美はゆっくりとお盆を下ろす。一息つくと、
「行ってきていいよ」
と楓と木葉を送り出した。楓は頷くと木葉と目を合わせる。
「行くよ!」
「ええ」
お盆を持った人たちにぶつからないように、2人は迅速に列に並ぶ。夕姫たちが並んだ頃よりは列の長さが短い。それはラッキーだと思ったが、列に並んでいるのになぜか人に押しつぶされそうになって楓と木葉の精神力が削られていく。
「ぷはぁっ」
ふらふらになって、だがしっかり食料は確保して、2人は本拠地に帰還した。
「お疲れ様ー」
夕姫の労ねぎらいを受けて、楓と木葉は席に着く。
「いただきまーす!」
四人は昼食を口にする。授業で糖分を沢山消費したからか、箸が進む。楓はほとんど喋らずに昼食を掻き込んだ。喋ればさっきの事を悟られてしまう可能性があるからだ。口は災いの元、しっかり制御だ。
「うーん、美味しかったぁ〜。ご馳走さま!」
ぱちんと手を合わせる。
「かふぇで、はやひぃふえ」
「早いよぉ〜」
食べ物を口に入れて何やら言っている夕姫と夏美。木葉は楓を見て、コテリと首を傾げた。
「なんか用でもあるの?」
「うん、ちょっと行かなきゃいけないところがあるんだー! ってなわけで、行ってくるぜ!」
楓は明るく元気にそう言って、昼食を片付け始める。トレーを返却すると、三人に手を振って、楓は食堂を後にした。
もうすぐ時計は12時55分を指す。
***
時刻は午後1時。楓は教室棟の裏に立っていた。霞浦亜美に呼び出されたのだ。これから何をされるか、そんな事は予想がついていた。でも、楓は誰にも言わない。この、今の生活を失いたくないから。
「ちゃんと来たのですわね」
2人のお供を引き連れた亜美は、黒い笑みを浮かべた。見る者を凍りつかせるような残酷な笑み。これまで幾度と無く見たことのある表情だった。楓は唇を引き締めた。亜美はつかつかと楓に歩み寄ると、膝を振り上げる。
「うっ……」
がすっという鈍い音と共に楓の腹に膝がのめり込む。ヨロリ、楓は壁に寄りかかった。本当は簡単に避けることができた。だが、楓は回避という手段を取らなかった。
「……ゔぅ……」
「ホント、あんたは許せませんわ。いいえ、ここから居なくなってくださればいいのに……」
今度は拳が突き刺さる。亜美は武術の心得があるようで、洗練された動きに身体強化が加わってその威力は半端ない。正直楓じゃなかったら、どうなっていたかわからない。
「……!」
ビリビリとした衝撃が楓の身体を駆け抜ける。ふっと身体から力が抜けた。そのままぐしゃりと座り込む。制服に泥が跳ねた。
あーあ、新しい制服なのに……。
楓はそんな事を考えながら、いじめを甘んじて受けているフリを続ける。
「あら、まだ意識があるのですか。遠藤の得意術式なのに」
亜美と同じように残酷な笑みを浮かべた少女からバチっと青白い火花が散った。その隣の……桜木と呼ばれていた少女の瞳は今にも泣き出しそうに潤んでいた。楓は亜美が自分の殺害を目的にはしていないことに安心した。そして、目に見える傷を負わせることを。それなら今は、ただ、耐えればいい。
楓のポニーテールがグイッと引っ張られた。楓は怯えた目を亜美に向ける。亜美はヒールで楓の足を踏みつけた。
「あぐっ……」
ぐりぐりと押し付ける。楓は思わず苦悶に顔を歪ませた。
「ふ、ふふふ……、あはは……。ねぇ、今、どんな気分?……私、踏みつけられている方の感情がわからないのですわ。ねぇ、教えてくれませんの?」
亜美は冷たい瞳を見開き、楓を底の見えない暗闇に引きずり込んだ。楓は目を大きくする。
一体これは……⁉︎
***
その頃、相川光希は楓を探して教室棟を探して走っていた。護衛対象を見失うなどあってはならない。護衛失格だ。護衛をする事を認めたつもりは無くても、命令から逃れることができていない光希はそう思う。
この間に楓が危ない目にあっていたら……。焦りが光希を掻き立てる。どれだけ教室棟を探しても楓は見つからなかった。一度立ち止まった光希がふと窓の外に目を向けると、楓の姿が目に入った。
「天宮……⁈」
楓は校舎の裏でうずくまっていた。三人の人影は踵を返して、姿を消す最中だ。焦燥感に駆られて、光希はその場所へと急ぐ。
「天宮っ!」
楓は壁にもたれて弱々しく微笑んだ。何かを諦めた、そんな顔だった。それが光希の中で、同じように笑った少女の笑顔と重なった。鼓動が速くなる。
「見つかっちゃったか……」
楓は制服の汚れを払って立ち上がった。顔に跳ね飛んだ泥を拭い、いつも通りの表情を浮かべて。にこにことして、どことなく悪戯いたずらっぽい顔。だが、本音を覆い隠した顔を。
「何があった? 誰に⁈」
光希は楓に問いかける。
「ううん、大丈夫」
楓は首を横に振った。笑顔を浮かべながら。
「俺はお前の護衛だ! お前に何かあったら……、俺が困るんだよ!」
光希は叫ぶように言う。この瞬間、光希は天宮楓の護衛となる事を認めたのだった。するっと言葉が出てきて、天宮楓の護衛になる事が正しい事なのだと何故か光希は言い切ることができた。
光希の心中を察したように楓は頷いた。
「ありがとう、でも本当にボクは大丈夫。だから、この事を他の誰にも言わないでくれる?」
光希は口を開いたが、言葉は出なかった。それほどに、楓の顔が寂しそうに見えた。いつも通りの顔をしているのに。
「……わかった。だが、怪我は? とにかく見せろ!」
すると、楓はなぜか顔を背けた。腹を押さえて立ち去ろうとする。光希を避けるように。
「おい! 待て!」
「来るな! 見ちゃダメだ!」
楓から返ってきたのは明確な拒絶だった。光希は勢いをなくして立ち止まる。伸ばしかけた手は空気を掴む。楓の顔にすまなさそうな表情が浮かんだ。
「ごめん……。言いすぎた。もうすぐで授業が始まるから、行かなきゃだね」
「あ、あぁ」
天宮楓は何かを隠している。光希はそのことに気づいてしまった。そしてその笑顔の裏に隠した孤独と悲しみに。どこかへ消えてしまいそうで、気にかかる。まるで、あの少女と同じように、光希の前から消えてしまいそうだった。
……そんな事はさせない。
光希は決意を胸に秘める。楓を守り抜く為に。
***
楓はため息をついた。
亜美たちの神経を逆撫でしないように、ワザと殴られた。そして本当に苦しんでいるような演技もした。だから、次に呼び出される時も同じだと思う。そして、木葉たちに迷惑はかからないはずだ。
でも、光希に見られてしまった。光希がこの件で動かないといいけれど……。初めての友達たちとの大事な毎日をこんなことで失いたくはない。たとえそれが薄氷の上の脆い関係だとしても。
楓の秘密を他の誰かに知られてはならないのだ。そうすればまた、楓は独りになってしまう。今のぬくぬくした生活を守るためにも、知られてはいけない。だが、そのために光希を拒絶したような態度をとってしまったことが、なぜかとても気がかりだった。
楓は手身近なトイレに入る。鍵をかけて誰にも見られないような状況を作ると、制服のベルトを緩めてスカートをまくり上げた。
さっき、亜美は身体で一番目立たない、腹部や靴下で隠れる部分にだけ攻撃した。いじめられていた時は当たり前のように腹部を殴ったり、蹴ったりされていた。
まあ、今もそうか。
自虐的な笑みががこぼれる。亜美の攻撃をもろに受けた楓の腹部は鬱血しているはずなのだ。しかし、腹部にはもうその痕跡は残っていなかった。その上、負った擦り傷さえ消えていた。ほんの数分前の出来事なのに。
相川に見られないようにしないとな……
楓は無意識に腹をさすった。もうその腹部は完治していた。ちらりと携帯を見ると、1時20分。あと5分で5時間目が始まる。何食わぬ顔で楓は教室に向かった。




