最後の約束を壊れた世界に
楓は刀を振り下ろす。一切の容赦なく、相川の首を刈り取る。そう、それだけだ。少しだけ手首を捻ればいい。
なのに、どうして。どうして、どうして──
「なんで」
「お前にはできない。天宮、お前は優しいから」
楓は相川の顔を見た。青みがかった黒い瞳を楓は、知っている。
「あ、い、か、わ」
ゆっくりと呟く。この名前を何度も呼んだ。楓の身体は覚えている。この名前が楓のすべてを変えたことを。ズキンと頭を痛みが刺し貫く。楓はよろめいて、一歩下がった。
「天宮」
あいかわが楓の手を掴む。強くないのに、振り解けない。あいかわの手はとても温かかった。楓は沈黙する。まばたきをしないよう、目を見開いた。目を一度でも閉じたら泣いてしまいそうだった。
この顔も目も声も、ぜんぶ知っている。
『俺は護衛なんかやらない。それだけは変わらないからな』
『お前は俺が守ると決めた。だから、……だからその意志を否定しないでくれ』
『お前以上に大事な人なんかいない。守りたいのは、天宮の姫じゃない。お前自身だ』
ツンケンしていて、ムカつくけれど、いつも楓の心配ばかりをしていた人。しって、いるのだ。だって、憧れていたから。だって……好きだから。
「相川、ボクは──」
たくさんの記憶が頭の中になだれ込んでくる。頭は大量の記憶の雪崩に、ギシギシと悲鳴を上げていた。頭を抱え、しゃがみこんだ。記憶は刃のように楓を切り刻んでいく。
ぼんやりと遠くで聞こえる声。夢心地のまま、おまえの名は陣内フウだと言われた日。はじめて人を殺した時。イブキの寂しい満月色の瞳がちらつく。紫眼の鬼と赤い月の下で会ったこと。
血が跳ねる。
べしゃりと楓の顔を汚したのは、仁美の血。斬り捨てたのは夕馬。そして、楓は光希を刺した。今さっきも、殺そうと。
「あ、あ、あぁぁ」
雨に濡れた手が血色に染まっているように見えた。殺した。たくさん殺した。守りたいと、楓自身が願ったものを壊した。
「……相川、だめなんだ。ボク、は、」
楓の目は虚空を彷徨う。絶対に殺さないと誓ったのに、楓の手には拭い切れないほどに多くの血がべっとりと付いている。
これじゃあ、光希の手を握り返せない。
光希の手を楓は叩くように振り払った。呆気に取られた光希の前で、楓の刀はくるりと向きを変える。切っ先は楓自身の心臓を穿つ位置で一瞬静止した。
「やめろっ! 天宮っ!」
力一杯に腕を動かした。こればかりは光希の言うことを聞けない。罪ばかり重ねたバケモノはここで終わるべきだ。
「駄目じゃないか、モミジ」
薄氷が砕け散るがごとく呆気なく、刀が折れる。楓はゆっくりと顔を上げた。前には光希の背中がある。刀が弾き飛ばされたままなのに、微動だにしない背中が眩しく見えた。
「あなたがハルト、ですか」
膝に泥をつけたまま、楓は光希の隣に立つ。光希が小さな溜息を付いて黒髪の少年に視線を戻した。黒髪の少年は頷いた。
「そうだよ、モミジ。ねえ、なんでそんな顔をするんだい? 会えたじゃないか、僕とやっと」
意味が分からない。少年は虚ろな黒い瞳に楓によく似た誰かを映している。
「ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、君を探していたんだ。僕の片割れの神である君を。どうして、下界に降りたのかい? どうして、僕を拒絶したのかい? 帰ろうと、あれだけ言ったのに」
「ボクはモミジじゃ──」
「うん? 大丈夫だよ、否定しなくても。君は間違いなくモミジだから。どうして、人間なんかを救うために魂を使ったんだい?」
「……人を守ろうとするのは悪いことか?」
感情をねじ伏せて真っ平らにした声で光希が問う。ハルトは虫けらを見るような軽蔑を眼差しに乗せ、眉をひそめた。
「僕はモミジに聞いているんだ。お前じゃない。──ねえ、モミジ、答えてよ」
楓の手に刀が現れる。外とは違う姫君の世界なら、刀くらいは簡単に調達できるのだ。とはいえ、取り出せるのは楓の持つ刀だけなので、フウであった時に使っていたこの刀が最後になる。決して何かを生み出すことはできない、それが天宮楓に課されたルールだ。
「ボクはモミジじゃない。お前はモミジを見つけてどうするつもりなんだ?」
少年はポカンとした顔をする。
「え? 天に帰るんだよ、当然じゃないか。君も、僕もこの間違った世界を創った神様なんだから」
「間違った……?」
楓は考える。歪み切った世界と天宮の姫の苦しみ、絶望、怒り。奪った命と救った命。裏切られたことも、大好きだと笑ってくれたことも。確かにすべては歪だったかもしれない。けれど、すべてが間違いではないことを楓は知っている。
「──間違いだとは言わせない。俺はどんな世界だったとしても、天宮がいる世界が好きだ」
いつの間にこんなことを真顔で言えるようになったのだろうか。楓は赤くなった耳を誤魔化すように、無言で光希の脇腹を殴った。呻く光希を横目に、楓は一歩踏み出す。
「ハルト、モミジはいないよ。お前ももうとっくに神じゃなくなってる、そうだろ?」
「何を──」
「創造神が創造の権能を失えば、それは神とは呼べないんじゃないか? ボクがモミジなら、きっと何かを創り出すことができたはず……」
そう、何かを自分の手に握ることができたはずなのだ。ハルトも時を彷徨う必要はなかったのではないだろうか。天宮の姫の中にモミジの残滓があることをもっと早くに知り得たはずだ。
神を定義することなどできないけれど、これだけは確かだ。……楓の中には神はいない。誰も泣かない世界を創る神は、どこにもいない。
「……うるさい。うるさい。君がモミジじゃないのなら、モミジはどこにいるの。僕のモミジはどこに──」
少年の瞳が揺れる。ぐらぐら揺れて……。
「──それなら、君もいらない」
ニタリと歪に黒い少年は嗤った。空気が変わったことに即座に気がついた楓は、無意識の内に光希を見ていた。光希は楓の視線に頷く。
「ああ、こいつはここでぶった斬るっ!」
吼えて走り出した楓と同時に光希もまた刀を取りに走る。光希が牽制に火球をハルトの方へ投げつけ、既に変化していた楓はその知覚を働かせて器用に爆発をくぐり抜けてハルトに肉迫する。
「──っ」
ハルトの放つ紫黒の炎に楓はたたらを踏んだ。良くないものだと身体中が警鐘を鳴らしている。楓では届かない。それならば──
「相川っ!」
叫ぶ。ただそれだけで光希は全てを理解する。楓は迷わず後ろに跳んだ。その後ろから眩い蒼炎が纏った刀が突き出された。ハルトは紫黒の炎で蒼炎に応戦するが、押し切ることはできずに弾かれる。
「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ! モミジ!」
頬に滲んだ血を拭わず、ハルトは子供の癇癪のようにデタラメに炎を暴れさせた。ただの炎なら光希の術式で簡単に切り裂けるし、戦略的意味はない行動にしかならない。だが、紫黒の炎は触れたものを腐食する。術式さえもその前には無意味だ。
「これじゃ、近づけないぞ!?」
光希が炎を避けて楓の隣に降り立った。楓は冷静に状況を見る。術式は無意味、楓の通常攻撃はもっと無意味。それなら、あの炎という概念を壊せばいい。
「相川、下がってろ。ボクがあれを何とかする」
「な──!? お前、何を!?」
楓は不敵に笑ってみせた。
「大丈夫。ボクは天宮の姫。そして、ボクの異能は『破壊』だからな」
満月色の瞳が輝く。銀色の耳と尾が揺れ、楓の指先はハルトへと伸ばされる。楓の世界から音と色が消えた。照準は紫黒の炎。ハルトから生み出される炎を視る。楓の唇が動く。
「壊れろ」
ばきんと音がした。炎が砕け散る様は硝子のように。黒いきらきらとした結晶が降る。やがてそれは解けて消えて、雨の中に溶けていく。楓の中で止まっていた時間が急に動き出した。がくんと膝を着く楓を支えようとする光希を拳で押した。
「ばか、ボクより先にあいつにトドメを刺しにいけ」
「分かった」
光希の姿が掻き消える。そして、目の前で蒼炎が激しく煌めいた。爆発音が轟き、強い風が雨を散らす。閃光にやられた視力が戻ってきた後、そこに立っていたのは光希だった。
「相川―!」
駆け寄ると、凹んだ地面に倒れているハルトの姿があった。黒い少年を見下ろす楓の視線は当然険しくなる。
「……なんで、僕は。僕の、願いは」
身体を這いずり、少年は楓に向かって手を伸ばす。楓は刀を握る手に力を入れた。
「もう、やめませんか、ハルト様」
透き通った白い手が少年の手を包んだ。ハルトは目を大きく見開いた。
「どうして、イロハ、君がここに……?」
天宮の姫が創り出した空間に許可なく踏み入ることはできない。ハルトは楓と同格なので別として、ただの妖狐に踏み入ることのできる場所ではないはずだ。
「魂翔けしてきたのです。私の身体は死んでしまったけれど、最期にあなたの元に帰ることができるように」
イロハは泣き笑いをした。
「……まだ、聞いてなかった。なんでイロハは僕の傍にずっと──」
「変なことを仰いますね。そんなこと、決まりきっていますのに」
あなたをお慕いしております、最初から。
虚ろな少年の瞳がはじめて怒り以外の感情に動いた。イロハ自身をハルトははじめて見つめる。ぼろぼろと大粒の涙を少女の姿をした狐がこぼすのは、ハルトのためだけ。
「……そうか。あの日君を拾った日から、僕は独りではなくなったんだ」
「はい、私はずっとあなたのお傍にいます。きっと、それはこれからも」
ハルトは微笑んだ。イロハははにかむと、楓と光希の方に顔を向けた。
「ごめんなさい。それから、ありがとう。最期に楓と光希に会えてよかったわ」
木葉、と楓が呼びかける前に少女と少年の姿は光に変わる。残されたのは楓と光希のふたりだけ。楓は光希の方を恐る恐る見上げた。罪だらけ、血塗れの楓を光希は──。
「不安な顔をするな。お前はよく頑張ったよ。どんなお前でも、俺は良い。帰ってきてくれて、ありがとう」
楓の目から温かいものが落ちた。
「あ、あれ? なんで、ボク泣いて……」
溢れだしたら止まらない。我慢してきた分の涙がこぼれて、雨が止んだぬかるみに吸い込まれていく。光希はそろそろと怯えるように楓の身体を抱き寄せた。
「相川、ごめん。ごめん。ボクは、全部壊しちゃった。夕馬と仁美を殺した。みんなを傷つけた。お前を殺そうとした」
この罪をどうすれば良い?
決して拭えないものは、背負えばいい。俺も一緒に背負ってやるから。
楓の顔を見ずにぶっきらぼうに光希は言った。今になって散々恥ずかしい台詞を吐いたことに気がついたらしく、耳が赤い。
「……今更照れるな、ばか」
涙を拭って、とりあえずは大丈夫な顔を作り、楓は空を見上げた。曇り空が少しずつ晴れていく。外の世界もどうなっているか、知らなくては。
ぴしりと世界にヒビが入る。楓の創り出した景色が急速に遠くなって、血色の空が目に映った。焦土と化した大地は黒い呪いの中に沈み、生き物の姿は視認できない。呪いに影響を受けずにいられるのは、ふたりが立っている場所が違う層だからだ。同じ位置、同じ場所。だが、呪いのある空間とは別の世界が薄膜を隔てて存在している。
「これ、は」
言葉が出てこなくなったのは光希も同じだ。視界いっぱいに広がる終わりの景色を前にしては、誰も言葉を紡げなくなるだろう。天宮の姫の産み落とした呪いは、静かに流れ出し続けている。どろどろとした黒い呪いは楓が落とす影が吐き出していた。
「止められるか?」
楓は首を横に振った。
「さっきから試してるけど、ダメだ。この呪いは壊せない。……それに、たとえ止められたとしてもこれじゃ、もう何も残ってない」
それほどに、天宮の姫が世界に抱いた憎しみは深い。最後まで、壊すことしかできないなんて。こんな、何も救えないなんて。
壊す。
それしかできない。何も無いところから全部を直すのは無理だ。なら。ならば──。
楓は刀を光希に押し付けた。陣内フウの妖殺しの刀だ。これなら十分なはず。楓は満月色の瞳でまっすぐ光希の瞳を見つめ、口を開いた。
「相川、ボクを殺して」
光希の目が大きくなる。光希の言葉を遮って言葉を重ねた。
「ボクがこの未来に行き着くすべての因果を破壊する。時を破却して、天宮の姫が生まれる未来を壊す。そのためにボクの命を術の起点にする」
光希が泣きそうな顔をするのが見ていられなくて、楓は視線を逸らした。けれど、唇を引き結んで上を向く。
「大丈夫。ボクとお前が出会う未来を絶対に選んでみせるから。それ以外の世界を壊してみせるから」
だから、お願い。
ボクを殺して。
「……壊すことしかできないなら、お前と会える保証なんてどこにもないだろ」
「うーん、困ったな。そう言われれば、そうなんだけど。大丈夫、大丈夫、何とかなるって。あ、相川愛子ちゃんになっても文句言うなよ」
「おい!」
憤慨してみせる光希が面白くて、楓は声を上げて笑った。こんなふうに笑ったのはいつぶりだろう。きっと、これから楓が選ぶ世界もそういう風にみんなが笑っていられる世界で……。
「相川」
光希は刀を構える。青みがかった黒い瞳は真剣そのものだ。楓は花が綻んだように笑って両手を広げた。
「なあ、相川。次会った時は、名前で呼んでよ。ボクもお前のこと、名前で呼ぶからさ」
「……ああ。約束だ」
楓の胸を刀が貫く。楓の身体が粉々に砕けた。そうして砕けた楓の身体を中心に、世界は白い光に呑まれて壊れる。何もかも一緒くたに閃光の中で無に帰っていく。
***
──もう、壊すだけではこんな難しいことはできないのに、無茶をして。
最初の神だった少女は、苦笑しながら最後の姫に手を差し伸べる。
足りないのなら、私が結いましょう。
切れてしまったのなら、私が結びましょう。
──ハルト様、一度だけ私の願いを聞いてくれませんか?
最初の神だった少年は、隣に寄り添う九尾狐の言葉に頷いた。真白の獣は口を開く。
──私たちで願いの代価を払いませんか?
少年は一瞬考えてから微笑んだ。少年の手が白狐の頭を優しく撫ぜる。狐は幸せそうに目を細めた。
──きっと、僕らは消えてしまうけれど、君が共にいるのならそれもいい。
僕らが願いを叶えよう。
これが、ほんとうの最後の願い。
願うのは──
そう、誰も泣かない優しい世界。
次でエピローグです




