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旧約神なき世界の異端姫  作者: 斑鳩睡蓮
第9章〜異端の姫君〜

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血塗られた世界

 こんな世界なら、壊れてしまえ──


 他には何も望まないから。




 雨が降っている。落ちてくる雨粒は、氷のように冷たくて身を切る鋼みたいだ。天宮楓は灰色の空を見上げた。ざあざあと止めどなく空が流す涙は、泣くことを忘れた少女の頬を濡らす。


 楓の世界には何もなかった。ここにあるのは、明かりのついた孤児院だけだ。その扉は閉ざされたまま、楓のために開くことはない。……手足をどれだけ動かしても入ることすらできない。


 黒い蝶がふわふわと雨を避けながら飛んできた。雨の中で蝶は羽を広げたりしないはずなのに。楓は感覚のない指先を伸ばす。黒蝶はそっと人差し指に舞い降りた。


「どうしてこんな所に来たんだ? こんなに雨が降ってるのに」


 りぃーん、りぃん、と鈴を振るような音が微かに響く。意味のある音ではないはずが、楓の耳には意味のある音として入ってきた。


「……ここに、来ようとしているやつがいるってことか?」


 りん、と音がする。どうやら肯定のようだ。


「ここにいるのはボクだけだ。ボクだけでいい。誰も、ここに通すな」


 りぃいいん、と一番鋭い音が鳴り響いた。即座に楓は理解した。この蝶が待っていたのは楓からの指示であったということに。


 そうだ、これでいい。ここにいれば、誰も傷つけない。バケモノである自分をさらけ出すことをしなくていい。鍵のついた頑丈な箱に望みを全部詰めて鍵を閉める。期待も希望も、喜びも、バケモノの楓には分不相応だから、閉じ込めてしまおう。もう何も望まないと遠い昔に決めたのだ。


 楓はただうずくまる。心が悲鳴を上げて軋んでいることさえ、彼女には分からない。虚ろな暗がりだけが楓の側に寄り添っていた。




 ***




「……」


 数多の天宮の姫の過去を見た光希は崩れ落ちた。黒い地面に拳を叩きつける。みのるさえ知らなかった相川の本当の役割。


 天宮の姫を処刑する執行者。

 姫には知らせず、姫を守り、時が来れば無慈悲にその首を落とす装置だ。


 それなら、光希も楓を──。


 光希は首を振った。そんなことにはさせない。できない。


「戻って来ましたね。これが、私たちの真実です。歪んでしまった私の果て、それが今の天宮楓の姿です。彼女が望んだのは、壊すこと。天宮の異能は彼女にすべてを破壊する力を与えました。天宮楓が霊能力を使えないのは、破壊の異能が強すぎるが故です。その力は一切の創造を許しません。そして、破壊の異能は一度、私が分けた世界の層を破壊することに使われました。その時、天宮桜は天宮楓の力を封印したのです」


 紅葉もみじは眉を下げて微笑んだ。


 何かを守ろうとあれだけ一生懸命だった楓に許されていたのが何かを壊すことだけだったとは……。はじめから何も守れないと約束されていることを知らずに、一生懸命に穴の空いたバケツで水を汲むような努力を繰り返す。もしもその事実を楓が知っていたのなら、その時点で世界は崩れ落ちていたに違いない。……そもそも、怨嗟に囚われた姫君たちに呑まれて、天宮楓という自我さえ生まれなかったかもしれない。天宮桜が楓にしたことは許されることではないけれど、そうでなければ楓を救う機会など決して手に入らなかっただろう。


 光希はゆっくりと折れた足を庇いながら立ち上がると、切れ長の目をさらに鋭く細める。


「どうすれば、天宮を救えますか?」


 紅葉の目が大きくなった。信じられない答えを聞いたとばかりに瞬きをする。


「……あなたは、相川なのでしょう? 世界の調停者として姫の処刑を担う存在でしょう?」


「違います。俺は天宮楓だけを救いたい。それ以外はどうだっていい。たとえ、それで世界が壊れるとしても」


「……」


 絶句した紅葉の目尻から涙が伝い落ちた。


「最後の相川が、あなたのような人でよかった」


 震えて聞こえたその言葉には言葉以上の重みがあった。裏切られ続け、殺され続けた姫たちの嘆きを知った今、光希にも意味が分かる。相川もまた役割に縛られ続けた。だから、そのくびきから解き放たれた光希は、彼女たちにとっては救いのような存在なのだろう。


「もう一度訊きます。天宮を救うにはどうすればいいですか?」


「……天宮楓を探しましょう。どんな答えを出すにせよ、彼女を見つけなければ意味がありません」


 光希は頷いて、暗闇へと足を踏み出した。ふっと世界が切り替わる。森の中、鳥型の魔獣が無数に空を舞っていた。辺りは魔獣の気配で埋め尽くされ、どう行っても遭遇することは免れない。その上こちらは手負いときた。限界はすぐにやって来る。


「青龍の力を使いましょう」


 紅葉の声で青龍が実体化した。精霊は契約者以外の命には従わないはずだが。いぶかしんでいるのが伝わってしまったようで、紅葉は光希の方に視線を向けた。


「四神は私が創った守護精霊です。人柱である私と、民を守るために創りました。ですが、ある代の天宮は自身に制御できないものは要らないと四神を消滅に追い込みました。もちろん、姫のあずかり知らぬところで、です。白虎と玄武は消え、青龍と朱雀は力の大半を削がれて散り散りになりました」


 どこまでもいっても天宮家だ。傲慢な一族が塗り重ねた罪と過ちの最後の形がコレだ。


「青龍、焼き払え」


 怒りを込めて光希は命じた。


『うむ』


 低く唸った青龍の口から蒼炎が吐き出される。月光を砕いたような静かな輝きが視界を焼いた。


「どうだ……?」


「──いえ、まだです」


 ぴりぴりとした空気を感じ取り、光希は表情を引き締める。見れば、魔獣は何事も無かったかのように再び周囲を取り囲んでいた。


「……それがあの子の望みですか」


「どういうこと──」


 光希が質問を終える前に魔獣が飛びかかってくる。青龍の炎が全てを焼くが、プラスをゼロにしているだけで状況の進展には繋がらない。光希は悔しさに歯噛みする。


「天宮楓は誰も自分の元に辿り着かせる気はないのでしょう」


「なんで」


「誰も、傷つけたくないから。彼女には外の様子は分からないのです。これでもまだ、破壊衝動を抑えている方なのだと思います。私たちの呪いは世界全てを終わらせるのに一刻もいらないはずですから」


 なんで、と今度は口の中で呟いた。どこまで行っても楓は他人のことしか考えない。楓自身は勘定の外に置いて、見ている世界が幸せであればそれで良いと思ってしまう。それが光希には許せない。楓をそうした世界が恨めしい。


「突破する方法は?」


 紅葉は唇を吊り上げる。彼女の先程までの雰囲気とは少し違う不敵な笑み。


「朱雀、おいでなさい」


 火の粉が降った。いつの間にか紅葉の腕に止まった朱雀は、頭を紅葉に擦り寄せる。


「こら、再会を喜んでいる時間はありませんよ。あなたと青龍にはこの層を突破してもらわないといけませんから」


『分かりました。道を開きます。青龍、やれますね?』


『うむ、我を何だと思っておるのか』


『かまちょ龍』


『ぐっ……』


 このまま青龍と朱雀に会話を続けさせても、不毛な会話しか生まれない。そう判断して光希は口を挟んだ。


「青龍、朱雀、頼んだ。天宮の所へ道を開いてほしい」


『無論だ。我はお主の精霊だ。刹那ではあれど、お主と時を過ごせたことを我は誇りに思うぞ』


『私はセルティリカを守れませんでしたが、……あなたのお役に立てるなら。どうか、私たちの姫君を救ってください』


 掠れた声で、ああ、と頷いた。ずっと、姫の守護精霊である二柱も、姫の救われる日を待っていたのだ。傍で守ってやれないことを悔いながら。


「相川光希、私はここから先へは行かれません。私がいられるのは過去の中だけです。ですから、どうか……、いえ、私の望みは言わないでおきましょう」


 泣きそうな顔で紅葉は微笑んだ。その身体は端の方から光の粒子へと変わっていく。彼女には時間も力も残っていなかったのだと、初めて気がついた。


「ここでなら、少しだけ無理ができますね……」


 温かい光が光希の身体を包み込む。傷が癒え、折れていた足から痛みと違和感が消えた。とさ、と曇った音がして一振の刀が落ちた。その方向に顔を向けたけれど、既に最初の姫の姿はなく、森の木々が揺れているだけだった。光希は自分の愛刀、『清瀧』を拾い握りしめる。


「青龍、朱雀、行こう」


 二柱の精霊が動いた。白い光が森という張りぼて(テクスチャ)そのものを切り裂く。地面を蹴り、光希は思考をも置き去りにして真っすぐに光の中へ飛び込んだ。


 がらりと景色が切り替わる。地面に足をつけたと思ったら、ばしゃりと液体が飛び散る音がした。慣れ親しんだ鉄錆の匂いに眉をひそめ、光希は視線を先へと向ける。


「──!」


 天宮楓の顔をした少女が倒れている。

彼女は見開いたままの瞳に絶望を浮かべていた。


 天宮楓の顔をした少女が倒れている。

彼女はぽかんと口をわずかに開けて、何が起きているのか分からないという顔をしていた。


 天宮楓の顔をした少女が倒れている。

彼女は憤怒に顔をゆがめて、何かを叫んだ口の形のままで沈黙していた。


 天宮楓の顔をした少女の首が落ちている。

彼女は血の涙を目尻から流し眠るように死んでいた。


 天宮楓の顔をした少女は座り込んだままの格好で死んでいる。彼女の背中からはたくさんの刃物の柄が生えていた。


 血塗られた世界は、数多の姫君の死体で飾られていた。どの方向に視線を向けてもあるのは死体、死体、死体、死体。天宮の姫に生まれつくということは、相川に殺されるまでの生涯をこの風景とともに過ごすことだ。ざあざあと壊れたラジオのように聞こえる音は、慟哭と嘆きと泣き声が混ざり合ったシロモノ。こんなものと過ごして、どうすれば狂わずにいられるのか、光希にはわからなかった。


 いつの間にか、来た方向を見失い、混乱と不安が打ち寄せて来る。だが、ここではまだ止まれない。だから光希は目を凝らす。


 りーん、と微かに鈴が鳴るような音が遠くで聞こえた。必死に雑音を脳内から追い出して、もう一度耳を澄ます。りーん、りーん。淡い光の粒を振りまきながら、青い蝶は光希の前をふわりと通り過ぎていく。


「天宮……」


 青い蝶を追いかける。なぜかは分からないけれど、蝶が楓への道を知っている気がして。




 ***




 楓は顔を上げた。雨はまだ降っているが、知らない風が吹くのを感じた。ゆっくりと立ち上がったその手には、鞘に入った刀が握られている。


「天宮──っ!」


 同じように刀を持った少年が叫びながら落ちてくる。黒髪に切れ長の目で、整った顔の少年だ。だが、楓にはそんな人を見た覚えは一つもない。


「お前は誰だ! なぜここに来た!」


 刀を抜いて鞘を捨て、問いを投げた。少年は一瞬傷ついた顔を見せる。わけが分からなくて、でもなぜか楓の胸は鈍い痛みを訴えるのだ。生じた戸惑いを隠すために、楓は地面に着地した少年を睨む。


「俺は、相川光希だ。お前を助けるためにここに来た」


「……相川か、そうか。ボクを殺しに来たんだな」


 楓の中の姫君たちが叫ぶ。

 相川の言葉を信じてはいけない、相川が憎い、相川を──殺せ、と。

 楓の身体は即座にその願いを叶えるために動いた。


 口を開こうとする相川に、声が発される前に距離を詰めて斬りかかる。重い斬撃を相川の刀が受け止めた。ほう、と楓は感嘆する。刀を抜いてもいなかったあの体勢からこれを受けるか。流石だ。楓の瞳が金色を帯びる。霊力を使わずして相川の領域を凌駕するため、妖としての力を引き出す。変化へんげをした楓に銀狼の耳と尾が生えた。五感が研ぎ澄まされて、目に映る相川の動きが遅くなっていく。楓は踏み込んだ。一瞬で懐へ間合いを詰めると、下から刀を一閃させる。


 取った──


 確かに楓の刀は相川の身体を捉えたはずなのに、手応えが軽すぎる。嫌な感覚がした。即座にその場から飛び退った直後、相川の刀が地面をえぐった。泥が跳ねて、青みがかった刀の輝きは鈍る。


「幻術か……、小賢しい真似をっ!」


「──っ!」


 腕から血を流した相川の姿を捕捉して、楓は刀を振るう速度を上げる。術式が厄介ならば、術式を組む時間を奪えばいい。ひとつに結えられた長い黒髪が鋭く動くが、それでも楓自身の動きからは一拍も二拍も遅れている。荒々しく刀を走らせ、相川の対応しうる速さを抜く。そして、やがて甲高い金属音が雨音を切り裂いた。相川の刀がくるくると弧を描いて遠くの地面に深々と突き刺さる。


 肩で息をして地面に足を着いた相川に、楓は凍てついた視線を向けた。刀の切っ先をすっと彼の首元に据える。冷たい雨に打たれ続けてずぶ濡れになった楓は、唇を歪めて笑った。


「相川、天宮の姫に殺されるのはどんな気分だ?」


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