色は匂へど散りぬるを
はあ、はあ、はあ──。
白い息は煙のようにたなびいた。点々と血が雪の中を続いている。着物を着た黒髪の少女は、肩を押さえ足を引きずりながら先へ進む。どこにたどり着くかは関係ない。
ただ生きたくて。みんな、死んでしまったけれど、それでも生きろと言われたから、死にたくなくて。
でも、もうだめだ。
少女の身体から力が抜けた。上下感覚がなくなって、雪と共に空中へ放り投げられる。崖だったのか、と朧気に思った。身体の中まで凍っていくような気分だった。覆いかぶさった雪の中、息が詰まる。動かなくなりつつある指先を無理矢理に動かし、もがくようにして雪を掻く。白い耳と頭を出したところで手が持ち上がらなくなった。
目を閉じると、さっき見た光景が蘇ってきた。串刺しにされた母の姿、九つの尾をひとつずつ切り落とされて、首を晒された父。少女を庇って多くの敵をひとりで食い止めようとした兄の叫び声。すべてから、逃げてここまで来た。ヤツらは、篠田を根絶やしにする気だ。だから、兄の想いを無駄にしないためにも、もっと先へ進まなければならないのに……。
「生きたいのかい?」
少女は長いまつ毛を震わせる。まつ毛に積もっていた雪がほろほろと落ちた。黒い影が見える。
「あなたは、だれ?」
「うーん、僕かあ。名前はないし……、そうだ、じゃあ、名無しの神とでも名乗ろうか」
「かみさま?」
きっとその神は気まぐれに死にかけの妖狐に声を掛けたのだ。救う気はない。ただ、眺めるだけのつもりで。
「助けて欲しい?」
「うん」
黒い少年は微笑んだ。
「君はその対価に何を払える?」
少女は口を閉じた。雪に身体半分埋まったまま考える。血を失い、凍傷どころか静かに死にかけている身体では何もできない。妖としてもあまり強くないから、何かをしてあげることもできない。小さな手で拳を握り、少女は考えに考えて口を開く。
「……あなたに、なまえをあげます」
ほう、と少年の黒い瞳が興味の色を湛えた。いちおう神だから、大抵のことは何とかなるし、手に入る。下位存在の力など必要ないし、命なんてもっと要らない。なんの足しにもなりはしない。けれど、名前。名前を神である少年に与えようとした者は初めてだ。
「聞こう」
「ハルト──それがあなたのなまえ、です。どうですか?」
少女は毅然として言った。これは大事な大事な名前だ。大好きな、兄の名前。少女──イロハを逃がすために命を落とした優しい兄がいた、 その証だった。
「……なるほど、それが君の兄の名なんだね。うん、いいね。気に入った。それじゃあ、僕はこれからハルトと名乗ることにするよ」
よかった、そう思ったら瞼の重みに耐えきれなくなった。
目を覚ますと、そこは洞窟の中だった。ぱちぱちとたき火が爆ぜて、時折明るく瞬く。少年はつまらなさそうな顔をして、棒で火をつついた。イロハは自分の身体が九尾の姿に戻っていることに気がついて、慌てて変化をした。
「君さ、もうちょっとマトモに変化できないの?」
イロハは耳を伏せる。九つの尾の上に無理矢理座って、いかにも上手く変化できていますアピールを一生懸命する。ハルトの顔が奇妙に歪んだ。
「……あははっ! 君面白いね」
「あ、あの。わたしのなまえはイロハです。篠田イロハ」
口を挟んでいいものか分からなかったが、今を逃せば名乗る機会が失われると思った。ハルトの切れ長の目が細くなる。イロハは恐怖と驚きが半分ずつ混じりあった顔をして固まる他なかった。
「篠田の名は捨てた方がいい。陣内を気にするのなら」
「……そうですね。ではわたしは、ななしになるわけですか」
「イロハ、僕はそう呼ぶことにするよ。篠田ではない、ただのイロハとして」
「わかりました」
少しだけほっとした。兄の名もあげてしまったイロハには何も残らないと思っていたから。イロハは淡く微笑んだ。
「──イロハ」
ハルトにそう呼ばれるのが嬉しい。決して歳を取らない神の隣では、妖の中でも長寿で、成長の遅い九尾が刻む時間さえ早すぎる。イロハは少しずつ歳を取っていく。下手くそだった変化も上手くなって、誤魔化すことも上手くなった。
ずっとずっとずっと、変わらない姿の少年の後をついて歩く。あなたのことが、すきだから。
けれど美しく装っても、ハルトがイロハを見ることはない。ハルトは長いこと片割れの神を探し続けている。人間に堕ちたという、神を。ただひとりの理解者をハルトは求めていた。
……とっくにハルト自身、神としての力を失っているのに。
永劫にも思える時を彷徨う孤独をイロハが理解できるわけがない。理解する必要すら、イロハには見いだせない。側にいたい、尽くしたい、振り向いてくれなくてもいい。
わたしの命はあなたのものだ。
世界の崩壊、かつて天宮最初の姫──神が分けた世界が砕けて混じりあった時、ハルトは静かに泣いた。探していた力の残滓を見たのだという。
「見つけた……」
最後の天宮の姫の中に、彼女がいる。
そのことを知った時、イロハの中に訪れたのは安堵だった。ハルトの悲願が叶う瞬間をこの目に納めることができそうだから。
──イロハの時間はもうほとんど残っていない。
***
涼は白い獣に刀の切っ先を向けた。夕姫は既に動いている。意思疎通に目配せはいらない。涼には夕姫の考えていることが分かるし、夕姫にも涼の考えていることが分かっている。
「『凍氷冷華』」
夕姫は抜刀しながら呟く。赤い氷が木葉に向かって鋭く突き立った。ふわりと跳んだ九尾狐は軽やかに氷の上に降りて、尾を揺らす。
「甘いわ」
紫電の矢がパリパリと音を立てて、涼と夕姫を照準。放たれた。氷が砕け散り、きらきらと血色の空に舞う。
「行け──っ!」
涼の側にいつの間にか佇んでいた鹿の形の精霊は駆け出す。肩に留まっていたヨルもまた、鋭く鳴いて翼を広げた。鹿の形をした水の精霊は水面に波紋を落とし、水の檻を創る。
「夕姫っ!」
「うん!『雷火』っ!」
檻は雷を伴い、強い光を発する。視界が眩んだ。しかし、涼がその手を止めることはない。光の中へ飛び込み、刀を振り切る。鮮血が顔を汚す嫌な感覚がした。
「……なぜ、座標は偽装していたのに」
夕姫が恐る恐る目を開けてみると、先程までより二まわり小さくなった木葉の姿が目に入ってきた。白く美しい毛並みは血で汚れ、黒ずんでいる。引きずるように左の前足を動かす木葉は、ゆっくりと息を吐いた。
「幻術でも、ヨルの目は誤魔化せないよ」
「さすが、ね。強くなったわね」
木葉の目が細められた。微笑んでいる、と言えばいいのだろうか。だが、不思議と不快感は覚えなかった。
「──でも、私もまだ負けるわけにはいかない」
ばちばちと空気が帯電して火花を散らす。木葉の毛が逆立った。夕姫の身体の中心を紫電が貫く寸前で、涼が夕姫の身体を突き飛ばす。
「ぐぁあああ──ッ!」
「涼っ!?」
煙を上げて、涼の身体が焦げる。崩れ落ちるのを地面に刀を突き刺して堪えた。ちかちかと視界が明滅している。夕姫が跳ぶのがぼんやりと歪んで見えた。
「……夕姫! だめだっ!」
ずしゃ、と重い音が生々しく響く。力を失くし、糸の切れた操り人形のように夕姫は振り捨てられる。涼の刀を中心に風が起こった。渦巻く風は風の刃、そしてやがて白い羽を運ぶ。
「『羽刃斬り』!」
白い羽が白い狐の身体を掠める度に鮮血が噴き出す。木葉は何の抵抗もしなかった。違和感を感じ、さらに攻撃の手を強めようとしたが、涼の霊力が尽きて風がほどける。
「……私の負けね」
息も絶え絶えに血の海に沈んだ獣は呟いた。涼は木葉を警戒しながら、夕姫の方へと身体を刀で支えながら向かう。
「夕姫、夕姫。起きて」
「りょう、ごめんね。わたし、力になれなくて」
今だけ、琴吹の力が欲しいと思った。人の精神に働きかけて治癒能力を引き上げる。それさえできれば、夕姫の傷も涼自身の傷も癒せたはずなのに。景色が傾いた。いや、傾いたのは涼の方だ。瞼が重い。
涼は夕姫の側で目を閉じた。
木葉──イロハは微かに目を開ける。涼と夕姫は深手を負い、意識を失くしていた。放っておけば、命の灯火は掻き消えるだろう。だから、ハルトとの約束を破ったことにはならない。
けれど。あの瞬間、決して引かない覚悟を二人の瞳に見た瞬間、二人になら負けてもいいと思った。
隣でずっと見てきた。どんどん成長していく彼らが眩しくて。ハルトへの想いは変わらなくとも、それはイロハにとっては大切なものだった。
天宮楓という矛盾に満ちた少女、相川光希という理想に裏切られ続けた少年、荒木夏美というただ一途にひとりを想い続けた少女。ここにはいない、共に時を刻んだ彼らもまた、イロハの一部を形作っている。仲間と思ったことはない、とかつて言ったこともある。だが、今になってやっと気づいた。それが嘘だったということに。
──もちろん本気で殺しにいったとも。衰えた身体の全力を尽くしたつもりだ。けれど、雛はやがて成鳥になる。強くなって、生え揃った翼を広げる。老いた狐の手の届かない場所へ。
……彼らと過ごす日々はとても。
ああ、なんて、楽しかったのだろう。
くすりと笑ってイロハは永遠に目を閉ざす。最期なら、霊翔けることができるかもしれない。遠い望みに囚われたままの孤独な少年の元に。




