イタンノヒメ
夜明けを迎えるはずだった空は血のような赤色をしていた。森が黒い炎で燃えている。どろどろとした黒い厄災は広がり続けていく。
「イブキっ! 光希っ! 起きてっ!」
少女の声に意識を失くしていた二人は目を開ける。紅い瞳の少女は目を覚ました二人を見て、ほっとした顔を見せた。
「……夏美?」
「早く、早く逃げないと」
足の折れた光希と、胸を貫かれて呼吸さえ億劫なイブキ。二人を無理に担ごうとする夏美の姿に光希は微笑みかける。
「イブキを連れて、逃げろ」
「──え?」
蒼炎で夏美の足元を攻撃する。咄嗟に飛び退った夏美を確認し、光希は青龍の炎で夏美と自分の間に壁を作った。泥は円状に張った青龍の炎による結界を侵食していく。脂汗を浮かべて精一杯の強がりをした。
「早くっ!」
「いやぁああーっ!」
夏美の悲痛な叫び声を最後に光希の身体は闇に呑まれる。感覚が消えていく。自分が溶けて消えていくように感じて、底知れない恐怖を覚えた。真っ黒な世界が今の光希の全てだった。目を閉じる。それはもしかしたら、諦めだったかもしれない。
「起きて。目を開けて、相川光希」
懐かしい少女の声が聞こえた。うっすらと重い瞼を開く。暗闇の中、黒髪の少女が目の前で微笑んでいた。
「天宮……?」
「はじめまして。私は天宮紅葉です。」
楓と同じ顔の少女はそう言って優雅にお辞儀をした。
「あなたは誰ですか?」
「私は一番最初の天宮の姫です。それとも神、と言えばいいでしょうか」
「天宮はあなたの器だと聞きました。それなら、これは一体なんですか?」
紅葉は目を伏せる。陰った目元の下で唇が動く。
「天宮の姫の全てです。……ええ、あなたには全てを見る資格がある。説明するよりも見る方がずっと良いでしょう」
ごうと闇の中では吹くはずのない風が光希の身体をすくい上げた。視界が今度は本当に暗転する。光希が消えた後、天宮紅葉は泣き出しそうな顔で唇を噛み締めた。
***
昔、二柱の神は人間を創った。妖を創った。魔物を創った。間違えたのは匙加減。人間だけとても弱かった。だから蹂躙されて、数を減らした。
少女神は人間を憐れに思った。せっかく創ったのに、いなくなるのは勿体ない。だから、下界に降りてみた。まずは人間を知るところから始めよう。そこで村に降りようとしたら、滑って転んで泥まみれになった。人間の身体はたったこれだけで軋むのだと少女神は知った。異邦の地から訪れた彼女は一人の男に名を貰った。
──天宮紅葉、と。
天の宮から降りてきた彼女が倒れていたのは、とても綺麗な紅葉の下だったから。
紅葉は村人たちに愛された。周りは恐ろしい獣だらけでも、ささやかな幸せの中に紅葉は包まれていた。それを見た、もう一柱の神は激怒した。人の身に身体を堕とした彼女を取り戻そうとたくさんの妖と魔物を差し向けた。瞬く間に人間は数を減らした。そうして、紅葉は決めたのだ。夫の言葉も無視をして、争いすべてを止めるために命を使うと。
世界を三つに、種族同士がいがみ合わないように。紅葉の身体はそのための生け贄。
夫と幼い娘に別れを告げて、紅葉は人柱になったのだ。
──そして、それがきっとすべての間違いの始まりだったのだろう。
天宮の姫は分かたれた世界を支える人柱。紅葉の娘もその運命を辿った。愛されて、そうして世界の重みに耐えきれなくなった時に壊れて死んだ。天宮の血を受け継いだ子孫は神の霊が残した力を脈々と伝え、世界を支える姫をあらゆる手を使って守った。
ある姫は、幾重にも結界の張られた神殿の中に閉じ込められた。黒い綺麗な髪も、瞳も、見る人さえいない。明かりだってないのだから、昼も夜も分からない。けれど、これは大事なお役目だから、耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて──壊れた。
「なぜここから出てはいけないの?」
何も知らされなかった姫は問う。それがあなたさまのお役目です、と答えは意味の分からない返事ばかり。
「ねえ、どうして?」
「私は天宮の姫なのでしょう? なぜ出てはいけないのっ!」
金切り声を上げて、結界の壁を引っ掻いた。土で造られた壁に血が滲む。爪が剥がれても指が削れても泣きわめいて壁を引っ掻いた。
「……ねえ、だれか、おしえて」
痛いくらいの静寂の中、姫は息絶えた。
張り出した憎悪の根は少しずつ天宮の姫という存在を歪めていく。
ある姫は結界を破ることに成功した。もはや閉じ込めておくことはできないと判断した人々は、姫を外で飼うことにした。
「憎い、憎い、憎いにくいにくいにくいにくいニクイ」
大人になった姫の身体は、理に従って崩壊を始める。けれど今回はいつもとは違う。なぜなら、崩壊と同時に呪いが流れ出したから。その首を落とし、呪いが広がるのを防いだのは一人の男だった。
「ひとりきりはさみしいわ」
ある姫は空を見上げて呟いた。天宮の家の奥で、ずっと過ごしている。欲しいものは話し相手を除けば何でも手に入る。外は一体どうなっているのだろう。知りたい。願い通り、遠見の異能を手にした姫は外を見ていた。ちょうど戦が終わってひとつの国ができた頃だった。ずっと、外を見ている。それ以外にすることがない。ある日、姫は自分の身体が黒ずんでいくことに気がついた。あちらこちらがあざよりも黒い色に変じていく。
怖い。
外を見て、他の人間を見る。けれど、同じように壊れていく人はどこにもいなかった。
「わたしだけなの……?」
怖いよ、たすけて。
がらりと開かずの扉が開かれる。射し込んだ一条の光に涙がこぼれた。
「たすけ──」
白刃が煌めく。次の瞬間、ごろりと落ちたのは姫の首だった。
いたい、いたい、いたい、いたい。
さらに多くの姫が命を散らし、やがて天宮は気がついた。姫は閉じ込めておくよりも、来たる日まで自由にさせておいた方が長持ちする、と。
「姫様、修練はしなくてよろしいのですか?」
「ええ! だって、わたし強いのよ!」
ある姫は従者に微笑みかけた。従者の少年は笑い返して姫に手を差し出した。姫は従者の手を取って、縁側から飛び降りる。くしゃりと朽葉が音を立てた。
「わたしね、相川、あなたがとっても好きよ!」
「ええっと、ありがとうございます、姫様」
相川と呼ばれた少年は困った顔をしてはにかんだ。
「なんで、どうして、ねえ、わたしを騙していたの……?」
青年になった少年は、大人になった姫に向かって刀を振りかざす。ぼろぼろと大粒の涙をこぼし、動こうともしない姫の首に刃があてがわれた。
「天宮の姫が羽化する前に殺すのが、僕たち相川の役目ですから」
斬。鮮血が青年の顔を濡らしていく。その瞳にはなんの感慨も浮かんでいなかった。天宮の姫も相川もずっと昔から役目に縛られている。逃れることは決してできない。
「相川、私はあなたが嫌い。ここから出ていって」
ある姫は相川の少女を睨みつけた。少女は取ってつけたような笑顔を浮かべて首を振る。
「姫様、そのご命令は承諾しかねます。わたくしにもやらねばならぬ役目がございますゆえ」
「役目って何? 私の命令が聞けないくらい大事なの?」
「ええ」
嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、と口にしていなければ、おかしくなってしまいそうだった。信じてはいけない。好いてはいけない。そう思っていたのに。
「ここはわたくしが」
刀の鯉口を切って、躊躇いなく飛び込んでいく姿に憧れた。男の子のようにひとつにまとめられた黒髪がなびく姿も、返り血を拭う姿も、とても──。
「たとえ何があろうとも、わたくしがあなたをお守りします」
頭を垂れて誓ってくれた彼女を、どうすれば好きにならずにいられたのだろうか。
「ほうら、やっぱり裏切った」
軋む身体を抱きしめて、姫は相川の少女を見上げた。
「……私も馬鹿ね。あなたが裏切ることは分かっていたはずなのに。あなたと友達になりたいと、願ってしまった」
鈍い音がして、彼女の綺麗な刀が姫の胸に突き立つ。彼女が泣いていたのが唯一の救いだった。姫は血塗れの手を伸ばし、少女の頬に触れた。
「でもね、あなたは一度も私に嘘をつかなかったわね」
その姫の能力は嘘を見抜くこと。だから、彼女が一度たりとも自分に対して嘘をつかなかったことを知っている。そう、正直な彼女がとても、好きだった。
「ごめんなさい」
相川の少女は呟く。それから、力の抜けた繊手が頬から滑り落ちた。
ある姫は彼女を道具としてしか見ない人々を憎んだ。
なぜ、自由にしてはいけないの。
なぜ、縛り付けるの。
なぜ、他の人のように生きてはいけないの。
「アハハハハハハハハハハハッ!」
湧き上がる怒りにまかせ、姫は刃を全ての人々に向けた。振りかざす刃は憤怒の色、振るう力は絶望の色。すべてを敵に回し、燃やして焼き尽くして殺し続けて。濁っていく心に知らんぷりをした。業火を連れて、死者の道を歩いた。だから、こんな最期を迎えるのも必然だ。
どすどすと音を立てて、刀、槍、短刀、矢、あらゆる凶器が少女の身体を突き刺して食い破る。
きっとこの生に意味はない。
それなら、何のために──。
とても悔しかった。悔しくて、痛かった。本当は憎いのではなく、悲しかったのだ。どうしてこんなにも世界は虚しいの。
かはっ、血を吐き出して空を見上げた。寂しい灰の空の色。寒いからこれから雪でも降るのだろうか。またひとつ、刀が姫の背を貫く。
心もどこかに置き去りにしてしまった。
……ああ、ここには初めから何も無かったんだ。
空っぽになった姫の身体がどさりと地面に落ちた。
目を閉じるたび、たくさんの記憶が頭の中に流れ込んでくる。眠るのが怖い。自分のものだけでない憎悪が頭と身体を支配する。
「なんで、なんで、うふふ、あはは」
壊れたように嗤う。とっくに心は壊れているから、何も感じない。
「姫様──っ!」
城の最上階から身を躍らせる。相川の初老の男が呆然としたのもつかの間、男は姫に向かって手を伸ばす。その手は着物の裾をかすったっきり、何も掴めないままで終わった。
あんたは普通に生きられるんだろ!?
あんたはいつかあたしを殺すんだろ!?
呆気に取られた顔と絶望に似た表情が愉快でたまらない。嗤いながら重力に引かれて落ちていく。ありったけの怨みを込めて言葉を編んだ。
「ざまあみろ」
ぐしゃりと肉塊が潰れる音が鮮烈に鳴り響いた。
ある姫は逃げ出した。運命から、天宮から。姿隠しの異能で逃げた。何もかも完璧だった。誰にも見つからず、誰にも気づかれず、ひとりきりで走り続ける。男の子の格好をしたこともあった。
「気持ち悪い」
待って。
「近づくな」
ぼくは。
「汚い」
どうして。
護衛として着いた時は、あんなに喜んで感謝してくれたじゃないか。養子にしてくれると言われて、とても嬉しかった。
あいしてる。その言葉は嘘だったのか。
呪いに侵され、黒いアザに覆われていく身体を見て、人々は態度を翻した。今までこんなバケモノを飼っていたと考えるだけでも虫唾が走る、このままバケモノを生かしておくことはできない、と。
地面を這いずる醜い生き物は泣きながら村人たちに手を伸ばした。冷たい視線が痛かった。
「ね、ぇ、たすけて。いたいんだ、このままじゃ──」
「ああ、お望み通り助けてやるよっ!」
鍬が姫の頭を殴りつける。
「なんで」
致命傷だった。血塗れの姫は凄絶な笑みを浮かべ、封じてきた霊力を解き放つ。
コイツラ、ゼンイン、ニクイ──ミナゴロシダ。
タクサン、クルシメテ、コロシテヤル。
鮮血と悲鳴の雨が降った。ひとつの村が生暖かいあかいろの中で息絶え、そうして姫もまた呼吸を止めた。
科学が発展し、霊能力が歴史の影に押し込められたてからも姫の世界は変わらなかった。ただ、どんどん代替わりが早くなっていっただけで。際限なく生み出される怨嗟と慟哭は降り積もる。
朝起きると、身体の重さに目眩がする。今までの記憶からまだ壊れる歳ではないのに、既に侵食と崩壊は始まっていた。痛み殺しの注射を腕に突き刺す。針の跡だらけの腕を隠し、身体の時間を誤魔化す術式をかける。それから念入りに幻術をかけた。天宮の敷地全体に幻術の結界を張る。学校の周りも全部結界を敷いた。
聡いみのるは簡単に気がついてしまう。それはだめだ。何も気づかせてはいけない。従者、婚約者、それは名ばかりの立場だ。そもそも、婚約なぞしたところで姫の命運はその年になるまでに尽きている。相川の役目を知ることはあってはならない。優しいあの人はその重さに潰れてしまうから。
「桜、」
心地の良い風の中、みのるは笑う。桜も笑い返した。
「何?」
「ううん、何でもない。ただ、呼んでみただけ」
こんなにもしあわせなのだから、こわしたくない。
「なにそれ! でも、好きなだけ呼んでくれていいんだよ。みのるからは大歓迎、じゃあ、もう一度、どうぞ。せーの」
「……え、なんか、やだ」
このさきにおわりしかないのだとしても。
「ひどいな、良いじゃない。……私の名前を呼んで、抱きしめてくれても」
口を尖らせてワガママを言ってみる。躊躇いながら伸ばされた腕を引っ張って、ぎゅっと自分から抱きついた。身体強化なしでは物を握ることさえできないから、気づかれないように目いっぱい強化をして。
とっくに壊れ果てていることを誰にも気づかせないし、ぐちゃぐちゃになった心も誰にも触らせない。だから、人は天宮桜を理解できないというのだ。
もしも、今代の姫が桜ほどの才を持たずして生まれたなら、既に代替わりを二回ほど終えていたかもしれない。
目を覚ますたび、心が壊れていく。憎くて憎くてたまらない。痛くて、怖くて、寂しくて、辛くて、恨めしい。思考はもう、黒々とした感情に塗りつぶされていた。
──強い器がいる。強い器なら、この呪いが育ち切るまで留めておける。人の身で駄目なら、人でなければいい。
羽化した呪いは世界を終わらせる。
そして、それがわたしたちの願いだ。
未来を視る。明日の世界を視る。自分のいない世界を視る。桜は眼を開いて、すべての糸を辿ってあらゆる可能性を潰してまわる。希望を殺して、終わりをただひたすらに願う。本当は、未来を願った故に手に入れた異能だったのに。
……ああ、でも。みのるにだけは、別れを言いたい。
みのるの中に自分自身を刻みつけてやる。だって、ここから先へは進めないから。
「……天宮なんかに、生まれなければ良かった。姫君なんかじゃなければ、未来なんて望まなければ、こんな世界じゃなければ良かった……っ!」
青ざめた顔で、聞きたくないと後ずさるみのるに嗤いかける。
「こんな世界なら、私が壊してみせる」
今まで一度も使わなかったみのるへの命令権を行使する。大切なものをこれで本当に失ったような気がした。それでも、裏切られたような顔をするみのるがやっぱり愛しい。
「これは私からみのるに、最初で最後の命令。……私を、殺して。そして、天宮楓を守って」
すかすかの身体を刀が貫く。痛みさえ、死んでいる身体には訪れない。
「桜……、ごめん。僕は君を守りたかったのに……、僕は……」
涙を拭ってやりたかった。なのに、力が入らない。やっとのことで頬に触れて、言葉を遺した。
「……ごめんね」
冷たい雨が降っていた。寒い、寒いと思っていたけれど、もう何も感じなくなった。かじかんで震える指先を雨が叩く。
目を閉じるのも、目を開けるのも怖い。
目を閉じれば怖い夢を見る。けれど、夢じゃない場所も怖い。無能のバケモノなのだから、安らぐ場所がないのも当たり前なのかもしれない。
こんな自分を大事にしてくれる人がいる世界を夢見たこともあった。でも、もう、遅い。そんなものは諦めた。
泣くことも忘れた最後の姫の頬を冷たい雫が滑り落ちる。止めどなく降る空の涙は、彼女の代わりに流すもの。決して、彼女を救うわけじゃない。
「こんな世界なら、ボクはいらない」
こんな世界なら、壊れてしまえ──
最後の姫は人ではない身体を持ち、すべての姫からの祝福を一身に受けた。
姫の中でも、異端。
すり潰された姫たちのおわりの願いを叶えるもの。




