限界
ぺたぺたと、少女は夜の廊下を歩いている。整えることを忘れられた髪は彼女の青白い顔を隠していた。それだけでも生気のない姿は不気味だが、より一層不穏な雰囲気を醸し出していたのは彼女の手に握られた一振りの刀だった。
「……」
一番端の部屋で足を止める。ドアノブに触れた少女は首を傾げた。鍵が掛かっていない。鍵を静かに破壊する術式をもう組んでしまっていたから、術式から意識を離して霧散させる。無造作にドアノブを回し、部屋に踏み入った。開いていた扉に対して覚えた違和感を無視して。何にもない部屋の中で奥の方に白いカーテンが見えた。カーテンには内側に置かれたベッドの影が映っている。ニィ……と少女の唇に笑みが刻まれた。
少女の握る刀の刃に燐光が灯る。よく切れるように霊力を研ぎ澄まし、精錬して、収束させる。目の前で死んだように眠っている少女の首をひと薙ぎで落とせるように。
そして、少女は刀を振り下ろした。
「──夕姫っ」
ぱりん、と結界が砕ける音がした。そのまま刀は何かに刺さって動きを止めた。刀を液体が伝い落ち、夕姫の手を濡らしていく。ぎり、と上で痛みを噛み殺そうとして漏れた歯軋りが降ってきた。
「……なんで、とめたの?」
夕姫が顔を上げる。虚な瞳は涼の目を見ているはずなのに、まるで涼なんて見えていないように遠くへと向けられていた。
「なんで、とめたの? 夕馬と仁美は、楓に殺された。だから、楓は死んだ方がいい」
「夕姫」
涼は刀から腕を引き抜く。深く刻まれた傷から流れる血に顔を一瞬しかめた。適当にシャツを破いて申し訳程度の止血を施す。
「夕姫」
もう一度名前を呼ぶと、夕姫は人形じみた動作で首を傾げた。髪がその口元を覆い隠し、虚な瞳だけが嫌に暗闇で光って見えた。
「……なんで、とめたの? 涼は、なんで、楓を庇うの? 楓が、ほんとうは、好きなんでしょ?」
切れ切れに話す夕姫の口から微かな笑い声がもれる。壊れたおもちゃのようなひび割れた響きが部屋の空白に吸い込まれていく。
「──違う。僕が本当に好きなのは、夕姫だけだよ」
夕姫の唇が歪んだ。
「嘘つき。なら、どうして、楓を守ったの?」
「……だって、僕は」
ぽたりと夕姫の鼻先に何かが落ちた。温かくて少ししょっぱい液体は夕姫の頬をも濡らしていく。
「君を、失いたくないから。楓を殺したら、きっと僕の好きな夕姫は永遠に消えてなくなるから、僕は……。楓のためじゃない。僕はもっとずるいし汚い。もし、楓を殺すことで夕姫が幸せになるのなら、喜んでそれを許したと思う」
いやだよ。
涼は掠れた声で呟く。
変わらないで、そのままでいて。
もう、何も失いたくない。
目を見開く夕姫の目の前で、涼は泣いていた。決して涼が見せなかった姿に揺さぶられ、焦点が合っていなかった夕姫の瞳は現実を見てしまう。
「りょう、わたしは……」
からんと虚な音を立てて刀が夕姫の手から離れる。
「私は、私は、涼を」
夕姫は真っ赤に染まった涼の腕と地面に滴る鮮血に慄いて一歩後ろに下がった。
「あ……、あ、あぁ──」
夕姫は目をぎゅっと瞑って、涼に背中を向けると部屋から飛び出していく。結界さえ満足に張れない限界の身体を引きずりながら、涼は慌ててその後を追った。
「夕姫っ!」
駆け出すと、歩いて来た光希にぶつかりそうになった。
「涼、どうした!?」
「大丈夫。全部大丈夫だから、光希は楓の側にいてあげて」
何か言いたそうにしている光希を振り切り、涼はマンションの外付け階段を登り始めた。かんこんかんと鉄製の階段を駆け登る音が上から聞こえている。肩で息をしながら屋上にたどり着くと、不意に身体から力が抜けた。無防備に冷え切ったコンクリートに叩きつけられ、意識が飛びかける。
「ゆ、うき……」
誰か走ってくる振動でコンクリートが震える。
「涼っ」
ぼろぼろと大粒の涙が降った。温かいものに抱きしめられる感覚に強張っていた指先から力が抜ける。
「ごめん、ごめん、ごめん、なさい。絶対やっちゃいけないことをやろうとしちゃった……。私は、涼を傷つけて──」
「だいじょうぶ、だから。泣かないで」
安心させるには程遠い、掠れすぎた声が出た。立てなくなるほど、疲れていたことにはじめて気がついた。
「ごめん、私──」
唇を奪って、一緒に言葉をも奪う。久しぶりの口づけは、塩辛くて鉄錆の味がした。永遠にも一瞬にも思える沈黙が心を締め付ける。
「……ありがとう、止めてくれて。楓を殺していたら。私は……、涼の言った通りに壊れてた。ううん、もうほとんど壊れてた、から。でもそしたら、きっと涼の前で笑えなくなっちゃうから」
気にしていないという意を込めて首を横に振りたかったが、もう本当に身体が一ミリも動かない。抱きしめたいと思うのに、何もできない自分が涼はとてももどかしかった。
「よかった。君がいてくれて。こんな、僕の側にいてくれて」
夕姫は眉を下げて微笑んだ。
「何言ってるの。涼は最高だよ。私のししょーだし、強いし、かっこいいし」
「なんか照れるなぁ。盛ってるよね?」
「残念。それが私から見た涼だし、弱いところも全部丸ごと好きなのです」
おどけて夕姫が笑うと、涼もつられて笑ってしまう。
「肩を、貸してほしいな。一人じゃ歩けそうにないから」
「うん」
頷いた夕姫は傷ついた腕とは反対の腕にそっと手を添えた。
***
「何があったんだ……?」
光希はカーテンの隣の血溜まりで足を止めた。ちらりとカーテンの向こうを覗けば、フウとイブキはまだ眠っている。しんしんと骨の髄まで冷えてしまいそうなほどの寒さが窓から流れ出していた。
「歯車は狂って、欠けていく。守りたいものは手からすり抜ける。転がっているのは絶望ばかり。それなら、いっそ、光を見ることをやめてしまえば良い」
唄うような艶やかな声が聞こえた。背後に立たれていたことに気が付かなかった、という動揺を隠して、光希は平然とした顔を作って振り返る。しかし、その努力も無駄になった。
「木葉」
ぬばたまの髪がつり目がちな少女の耳から一房滑り落ちる。美しい少女は目を細めて微笑んだ。
「久しぶりね、光希。知らない間にたくさん減ったわね」
「──っ!」
激情に駆られて斬りつけてしまいそうになる。拳を握って衝動を抑えつけ、牽制するように質問を投げつける。
「何しに来た?」
「姫君を迎えに。陣内から取り返してくれたことには感謝するわ。けれど、報告が遅かったから、ご当主様から直々にお迎えに上がるよう仰せつかったわ」
初めから全て知った上で泳がされていたのか。苛立ちが募る。天宮家にも、その動きに気づけない自分にも。
「退きなさい。無駄よ。既にここは天宮の手によって包囲されているわ。手負いのあなたたちには姫は守りきれない」
荷が勝ちすぎてるのよ、と木葉は嘲り笑いをした。
「──」
木葉が話している間に組み上げた術式を発動させようとしたその時、木葉の姿が蜃気楼のように揺らいだ。光希が動揺を律する一瞬よりも早く、木葉の顔が視界いっぱいに大きくなる。鼻先さえ触れてしまいそうなくらい近くで木葉は微笑む。被害を減らすために術式の展開位置をピンポイントに絞ったことが裏目に出た。座標がずれた術式は発動させられない。次の動きを決める前に、もう光希の身体は床に叩きつけられていた。
べしゃりといったのが光希の血なのか、それとも初めからここにあったものなのか……。そんなことはどうでもいい。楓をもう二度と失いたくない。何をしてでも守ろう、と思った。
けれど、暗闇の中で伸ばした手は無慈悲に空を切った。




