満身創痍
光希は刀の存在を確かめるようにもう一度強く柄を握った。雪は昨日から降り続いている。白い息を吐きながら、立派な校舎の跡地に急造された武骨な白壁の建物を見た。冬の夕方はもう薄暗い。それは雪を降らせる灰色の雲のせいでもあるとは思うのだが、それだけではないようにも思える。ずっと灰色のままの世界を見ている光希には、さして気になることでもないが。銀の蝶がひらひらと光希の白くなった肩にとまる。
「見えたよ。そろそろだ。変だね、最高戦力で挑む、なんて言ったのに、ここにいるのは僕と光希の二人だけ……」
涼の声は蝶から光希にだけ聞こえていた。光希は長く息をついた。相変わらず白い息は呑気に宙で躍って消える。夏美も、楓も、夕馬も、仁美もいない。そしてボロボロの夕姫は連れて来れるわけがなかった。
「それから、人質はこの宿舎の人間全員。上等だ」
片頬を吊り上げ、光希は笑う。笑えるくらい後がない。天宮家に援護を求めることは考えなかった。天宮家に奪われれば、あの二人がどうなるか。天宮家は信用できない。光希が守ろうとしたものを壊すのはいつもあの家だ。そして、また光希を縛るのもあの家だった。
「うん。でも、無理しないで。──あ、そういえば、あの二人はしばらく天宮家を探ってたみたいだね」
「突然どうした?」
「だったら、あの二人と僕たちは今の所、敵が同じってことじゃないかな?」
「つまり、共同戦線が張れるって?」
銀の蝶が震え、霊力の透き通った粒子が散った。
「そう!」
「確かに、天宮──いや、フウは証を立てなければ棄てられる、と言っていた。なら、陣内もあいつらの本当の仲間ではない……、可能性もある」
「だったら、なおさら二人を倒さなきゃだね。それで初めて、僕らにとっても活路が開ける」
光希は顔を上げた。木の後ろにしゃがんで様子を窺っていたが、遠くに見える地面の端が黄昏の中で紅く染まっている。雪が白い分余計に鮮血のような色に見えた。
「三、二、一、光希っ! 行って!」
「了解!」
雪の中に二人の人影が降り立つ。涼のカウントダウンと同時に敷いていた術式が発動、そして光希は駆け出した。
「フウっ!」
イブキが叫ぶ。フウは刀を抜き、後ろ手で光希の攻撃をいなした。が、すぐに後ろへ飛び退って距離を取る。
「術式か……、厄介だな。イブキは術者を、わたしはコイツを抑える!」
「わかった──!」
イブキが跳んで光希の前から姿が消える。フウは光希に向かって刀の切っ先を伸ばした。
「おまえともう一度刃を交えることができて、とても嬉しい」
そう言って、不敵に少女は微笑んだ。その表情に光希は心臓を鷲掴みにされたような気分になった。雪に振られて白くなった黒髪も、満月ような金色の瞳も、綺麗な無駄のない立ち姿も、やっぱり彼女は丸ごと楓だ。不敵な笑みは記憶と寸分も違わない。
「ああ、俺もだ。ずっと待っていた──」
甲高い金属音が戦闘開始を高らかに奏でる。瞳は金色だが、前よりも刀が軽い。涼の付与術式はつつがなく作動しているから、後は光希がフウを倒すだけだ。
『青龍! 加減はいらない、一気に畳み掛けるぞ!』
『うむ、我も腕が鳴るというわけだ』
蒼炎が光希の身体から燃え上がる。もしも月を砕いて燃やしたのなら、きっとこんな澄んだ蒼の炎が生まれるのだろう。ごうと静かに渦巻く巨大な力の奔流はやがて、気高い龍の姿へと形を変えた。
龍がフウへと飛翔する。その傍らで術式を編んだ光希は叫んだ。
「《羽刃斬り》!」
雪の中に白い羽が混ざる。降りしきる雪の中、白い羽と雪の区別はつかない。だが、フウは青龍の身体の下を走り抜け、ただ己の直感ひとつだけで羽を回避していく。
「なっ!?」
「わたしを、舐めるなっ──!」
フウが吼えた。術式で身体能力に制限がかかってもなお、フウが振るう白刃は鋭かった。光希は距離を取るためにバックステップを踏む。ずきりと痛みが身体を走る。じきにまだ治りきっていない傷が開いてしまう。それを危惧したから術式でフウの足止めを図ったが、フウはそれよりも上手だった。光希は下唇を噛んだ。そして、光希ほ弱点に気づかないフウではない。光希に隙を見たフウは光希の懐へと刀を突き出す。
ぱたぱたと血が雪を染める。急所からはなんとか逸らしたが、激痛に顔が引き攣った。
「──捕まえた」
光希は無理矢理にやりと笑う。フウを真似て、不敵に笑ってみせた。フウの目が大きくなる。
「──!」
フウが刀から反射的に手を離すよりも早く、青龍の炎が光希ごとフウを焼く。フウは苦しそうに喉を押さえ、空中を引っ掻くように手を動かした。光希は手刀を軽くフウの首後ろに叩き込む。炎に呑まれても倒れることを拒否していたフウの身体が傾いだ。手を伸ばして抱き止めようとしたが、身体が言うことを聞かなかった。光希も雪の中に倒れ込む。冷たさは今はとても心地よかった。
その頃、イブキと涼の戦闘はまだ続いていた。
「光希、付与術式を」
刀を振るい、高等技術だと言われる術式の同時展開を幾重も重ねる。真冬であるにも関わらず、その負担の大きさに涼の額には玉のような汗が浮いていた。放った銀の蝶が言霊を伝えて散ったのが遠くで感じられる。だが、ほとんど間を置かずに一気に身体にかかっていた負荷が軽くなった。
「おいで」
紫電を纏った獣と透き通った女の姿が涼の隣に現れる。
「精霊使い……か」
イブキの姿が消えた。が、涼の瞳は静かなままイブキを探すことはしなかった。ただ、告げる。
「──捕らえろ」
大きな猫のような風貌の獣が声なき咆哮を上げた。ばちっと紫電が弾け、涼の背後を突こうとしていたイブキの上に落ちる。転がるように寸前でイブキは避けたものの、黒髪が逆立った。一瞬止まったその隙に、女の吐息に載った冷気がイブキの足を凍結する。
「……っ」
下から凍りついて、やがて手も動かなくなる。イブキは遠のいていく意識の中で深い溜息をついた。白い息は雪の中に紛れて消えていく。そして涼のかじかんだ手から刀が滑り落ちた。




