知らない少女の後ろ姿
どろりとした闇の中からふっと意識が覚醒する。しかし、目を覚ますのが億劫で、何よりも目を覚ましたくない。目を開けてしまえば、現実から逃げられなくなる。短刀で受けた傷がずきりと痛んだ。
天宮。
その名前が浮かんだ瞬間、光希は無理矢理目を覚ますことにした。駄目なら取り戻せばいい。何が楓にとって良いことなのかはまだ分からないが、前に進みたいと思った。このまま寝ていても何も変わらないのだから。
「光希!?」
側で涼がらしくない素っ頓狂な声を上げた。ぼんやりと光希は幾分か疲れた顔をしている涼を見上げる。
「悪い、心配かけたな」
「良かった、本当に。……光希までいなくなったらどうしようって、思ってた」
その言葉に光希は意識を失くす直前、生気のない目を見開いたまま血溜まりに沈んだ仁美と夕馬の姿を見たことを思い出した。
「……夕姫は、大丈夫なのか?」
涼はいつも通りなのに、どこか泣きそうな顔をして俯いた。
「二人には特別な繋がりがあったから、断ち切れた時に強いショックを受けたみたい。あれ以来夕姫はほとんど何も食べてない。やつれていく一方だよ」
淡々と説明しているのは感情を抑えようとしているからなのだと光希にはすぐに理解できた。
「光希は、大丈夫なの? その、楓が……」
「どう、なんだろうな。自分でも分からない」
しんと落ちた沈黙が重たかった。
「少し、出て来る」
引き止めようとする涼を振り切って光希はコートを羽織った。包帯はまだ取れていないが、少し歩くくらいなら問題はないだろう。
何度か楓も光希も放り込まれることになったこの病院の屋上には人影はなかった。少し逡巡してから、光希は口を開いた。
「青龍、お前は今の状況をどう思う?」
『妙だ、とあえて言っておこうか。天宮はほとんど動かず、陣内は闇雲に霊能力者の殺戮をしている』
「天宮は何かを待っている──?」
『ああ、そうだろうな。何を、とは言えぬが』
「なら、陣内は?」
『陣内は誰かに動かされている、と我は思う。あのようにお主ら人間を殺すほど愚かではないはず。……だが、姫とその弟は半妖ゆえはっきりとは解らぬ」
「弟? 天宮に兄妹なんていたのか?」
自然と口調が強くなる。
『うむ。あの様子だとそうだな。姫の方が人に近く、弟の方が妖に近いようではあるが。半妖は、妖の中では特に忌むべき存在ゆえ、捨て駒扱いされてもおかしくはない』
ぎりと知らず知らずのうちに歯を食いしばっていた。また、そうなのか。どこでも貧乏くじを引いてきて、命を懸けてしまうのはあの少女の性だというのか。ふざけんなこんにゃろーと叫びたくなった。
『我とてお主と心は同じ。そう姫に強いた世界を我は恨む。──だが、姫自身はどう思うとるのだろうな? 一人の娘にだけこうも残酷なこの世界を』
光希の意を汲んだように青龍はそう言った。ふわりふわりと白い冷たい風花が降る。伸ばした指先の上でじわりと溶けていなくなる。季節は巡り、冬が来た。何度確かめても天宮楓のいない冬が。
光希はぼんやりと遠くを見つめた。雪の中、誰かが屋根の上を軽やかに駆けていく。
「誰──」
考えるよりも先に身体が動いていた。手すりを飛び越え、光希は虚空へと身体を躍らせる。
『馬鹿かお主!? まだ傷治っとらんだろ!?』
「悪い、青龍」
『反省しろ、この馬鹿者っ!』
プンスカ怒る青龍を無視して、光希は屋根に足を着けるや否や走り出した。追うと即座にその人の移動速度がかなり速いことに気付く。が、このくらいなら身体強化で詰められる。必要最小限の霊力を注ぎ、光希は無心に前を走る少女の後ろ姿を追いかけた。黒い長い髪が揺れ、時折跳ねる。
「消えた……!?」
忽然と少女が消え、光希の思考が一瞬止まった。
『下だ。紺青のこおとを着ておるのが姫であろう』
こおと、という単語が言えたことが何気に自慢らしく、青龍は自信満々に言い放つ。
「コートを覚えたのか、すごいな、お前。すごいすごい」
『お主、語彙力なさすぎではなかろうか。我を褒め称える言葉の種類が少なすぎるぞ』
ぶつくさ拗ねる青龍の言葉は光希には聞こえていなかった。ただ無言のまま屋根から飛び降り、驚いて腰を抜かしかけたおばちゃんを支えるとすぐに走り出す。(おばちゃんが頬を染めてこの体験を日記にしたためたのはまた別の話だ)
丁字路で光希は足を止め、消えた少女の姿を探す。ぐるりと辺りを見渡せば、すぐ近くのスーパーマーケットに消えていく姿が目に入った。なぜ、そこ。疑問に思いつつ、光希はその後を追った。紺青のコートの少女は普通にカゴを持って、真っ直ぐカップ麺の陳列棚に向かっていく。ドカドカとありったけ詰め込んだ少女はレジに一目散に突撃する。が、突然会計になってレジに表示された数字と財布の間で視線をオロオロと行き来させ始める。
「三十円、足りないみたいだな」
光希は少女が置いた金の上に三十円を載せた。少女はそこで初めて驚いた顔を見せた。小さく笑って光希は少女の手を引いて店を出る。出たと同時に少女はその手を振り払った。
「わたしに何の用だ。……三十円は返さないからな。さっきのがわたしの全財産だからな」
取り立てには実力行使も辞さない構え。真剣な顔でカップ麺を抱き締める少女の姿に光希は思わず噴き出した。
「む、なぜ笑う。わたしは食糧を守っているだけだ。腹が減っては戦はできぬ、と誰かが言ってたし──お前は、あの時の?」
光希が頷くと、フウは何とも言えない表情を見せた。
「生きていたのか……」
確認するかのようにこぼれた呟きに光希はぴくりと眉を動かす。
「それなら余計に、なぜわたしを追った? わたしはアマミヤではないのに」
「別に、なんでも良いだろ、そんな理由。俺がお前を知りたかった、だけなんだから」
虚を突かれたとばかりにフウは目を見開く。
「……わたしには、なにもない。過去も記憶も。もしかしたら、お前の探していたアマミヤもわたしの失くした記憶のどこかで見つかるのかもしれないが、残念ながら今のわたしは空っぽだ。お前にとって益のあるものは何一つ持ち合わせていない。それでも?」
頷くことに躊躇いはなかった。
「俺の知らないお前を知りたい」
ふっとフウの表情が和らいだように思えた。
「で、どうするんだ? わたしは今、お前が丸腰だから殺さずにいるが」
一度でも術の兆候を見せたら即座に斬り捨てる、とフウは鋭利な刃物のような目をしてそう言った。
「なら、少しくらい質問させろ。お前はどうして霊能力者を殺すんだ?」
しんしんと降り積もる雪の中、フウに問いかける。フウは小さく笑う。
「そう命じられたからだ。そうすれば、父上に会わせてくれると聞いたから」
「そんな確証どこにも──」
光希を遮り、フウが言う。
「──ない。分かってるんだ、わたしにも。けれど、わたしの中に何もないのは、こわい。少しでもわたしのことが知りたいんだ。フユも、イブキも何も言わないから、わたしは自分で見つけるしかない」
なんでこんなことをお前に言ってるんだろうな、と自嘲の笑みを浮かべたフウの顔はいつかの楓と同じだった。
「なら、お前はそのために殺し続けると?」
フウの顔が翳る。少し痛いくらいに刹那、雪が強くなった。
「──他にどうしていいか、わからない。半妖だから、使えないと判断されれば棄てられる。わたしは、自分の証を立て続けなければならない。存在価値を示さなければならない」
けれど、ほんとうは……。
光希にはフウが何か違う答えを言いたがっているように見えた。自分の願望が見せる幻かもしれないが、真実であってほしいと思う。
光希がフウに手を伸ばそうとしたその時、フウの名を呼ぶ声が空から降った。少年が白に足跡を刻む前にフウが口を開く。
「────」
光希は何も言わずに頷いた。




