進み始めた時間は前途多難
あの夜、セルティリカとイザヤに全てを話してしまってから、光希の心はのしかかっていた重りがなくなったように軽かった。
「──それで、全部話したんだね」
涼はうんうんと首を動かして、とつとつと光希が語った話に頷く。夕姫は原っぱに足を投げ出して笑った。控えめな太陽の光が雲の隙間から降り注ぐ。サワサワと柔らかい透き通った風が吹き抜けていった。
「やっと光希が戻ってきてくれて、嬉しいよ! このままあのままだったら、どうしようって思って、ずっと気がかりだったから」
「すまない、ずっと。俺も、そろそろ前に進まないといけない、そう思った」
光希は空を仰いだ。雲は多いが、その先に広がる青い空が光を取り戻した瞳に映っていた。
「セルティーたちには感謝しないといけないな」
「ん、いい子いい子」
夕馬の言葉に仁美も嬉しそうにコクコクと頷いた。
今日は珍しく全員で集まれた日曜日。いつも光希や涼は前線に駆り出され、夕姫たちは元青波学園で戦闘技術を磨く日々で、全員がこうして集まって息抜きができる時間はほとんど存在しない。
ここはその元青波学園の敷地だった。ハゲた地面には短い草が生えている。あの日から3ヶ月経ってしまったのだと自覚せずにはいられなかった。そう、もうすぐ春がやってくる。天宮楓のいない春が。
「いつまで、こんな生活が続くんだろう」
夕姫の憂鬱な呟きが落ちた。
毎日のように繰り返される戦闘、質素になっていく食事、徐々に生まれつつある階級社会。
「……階級制度が導入されるみたいだよ。指揮系統をはっきりさせるためだ、とか。ランク制度だけじゃ飽き足らないみたいだね」
言いにくそうに涼は入手した情報を告げる。その瞬間、ピリッとした空気が走った。
「予想はしてたけど……、もっと不平等が広がっちゃうね。食糧生産だって減ってきて、霊能力者に優先的に配分されてるし」
「俺たちには関係ないって割り切ることもできねーし。これじゃ、戦えない人間を見捨てるって言ってるようなもんだぜ」
笹本の双子は不満を示す。今の世界、霊能力者優位は根を下ろしつつある。かつては霊能力者の方が隠れて暮らしていたと考えると、逆転した立場が奇妙に思える。
光希は自分の黒いコートの端をつまんだ。軍服、といった方が良さそうな戦闘服。既にランクが刻まれているにも関わらず、これに今度は階級章が加わるらしい。
「天宮は一体何を考えてるんだろうな……」
壊れた世界をどうするというのだろう。他の種族を殺し尽くすためだとしても、天宮楓はもういない。その願いを叶えられる存在はいなくなったというのに。
光希は自分がその時のための予備だとは知らないのだった。
「わたしには、わからないの。天宮家が、何をしようと、してるのか。……でも、みんなが、悲しむのは、いやだな」
仁美の割れ物みたいに透き通った声が響いた。夕馬がハッとして顔を上げる。仁美は眉を微かに下げて微笑んだ。
「気分転換にでも、ちょっと街を歩こうよ。なんか、ずっと座ってると落ち込んじゃいそう」
そう言いながら涼は服に着いた乾いた草を払い、立ち上がった。黒いコートの裾が灰色の風になびく。夕姫が間髪入れずに立ち上がる。今度は短い黒いスカートが勢いよく揺れた。
「うん! 行こ! ほらほら、光希も行くよ!」
ああ、と短く答えて立ち上がる。次いで、軽装の夕馬が仁美を引っ張り上げた。
「雲が出てきたね……。雨が降らないといいんだけど」
「そうだね、僕たちが一緒にいられる時間は随分と減っちゃったし」
「俺と涼は、あまり青波学園に顔が出せないからな」
「いいなー、夕馬はいつも仁美ちゃんと一緒じゃん!」
「いいだろー」
そして、コクコクと首を上下運動させる仁美。
そんな会話をしながら、曇り空の下を五人で歩いた。いつからか、姿を見せなくなった木葉と、離れていった夏美と、もう二度と会うことのない楓。それが光希たちが失ったものの数。
「いいから寄越せェッ! 分かってんのか?オマエらが生きていけるのも、オレらが戦ってるからなんだぞ? あ? なんだって? 渡す筋合いはないってか?」
不意の怒鳴り声が光希たちの会話をぶつりとぶった切った。ついでに、良くなってきた空気も。
光希は声の方に視線を向けた。黒い服の男たちが数人、地面に倒れた女を踏みつけにして怒声を浴びせかけている。女の深い紺色をした上質なスーツを見たところ、カツアゲしようとしているのは金品の類いだろうか。とうとう男たちは女の革の鞄を取り上げた。
「撃っていい?」
低く呟く夕馬の手には既に魔弾銃が握られていた。夕姫が頷く。
「ビリビリの刑で」
「オッケーッ!」
夕馬の指が動いた。撃ち出された霊力は光球となり、カツアゲ現場にてカツアゲ犯の頭上で弾ける。駆け寄っていくと、ぱりぱりという放電の音が鼓膜を震わせた。
だいぶ手加減された一撃だ。霊能力者なら、容易に捌くことができる範囲だが、注意を女から離してこちらに向けるという意味では最適解。
「ああ? なんだオマエら?」
彼らにはあちらは着崩して見る影もなかったが、同じ服装の光希たちを睨みつける。光希と涼は支給品のコートに身を包み、銃を背負った夕馬はコートなしの軽装であり、夕姫と仁美は女子用の戦闘服だった。
「それ、返してあげて。……弱いものいじめ、だめ……絶対」
仁美はぼそりと口にする。静かな言葉は、男たちを激昂させるには十分だった。仁美に向かって術式を放とうとした、金髪男の動きが不自然に止まる。
「な、なんだッ!? 付与術式か!?」
仁美らコクリと頷いた。別の男が仁美を狙おうとするが、動くよりよっぽど前に夕馬のビリビリの刑 (マシマシ)で崩れ落ちる。
「お前たちも霊能力者なら、生きていくのに必要な物以上を受け取っているはずだ。能力を持たない人間に求めることはないと思うが」
その声に男たちは、怒りに満ちた顔で光希の方を見た。だが、その怒りでさえ光希の顔を認識した途端に掻き消える。
「……相川、光希……!?」
青ざめながら光希の隣を目にした男は涼を見て、青を通り越して白くなる。
「神林!?」
「光希、僕たち有名みたいだねー」
呑気に笑う涼に光希もニヤッと笑って返す。
「だな。どうだ? 俺たちにシメられたいか?」
白い紙のようになった男たちは女の鞄を取り落とし、我先にと逃亡を始めた。夕馬のビリビリで気絶した男を引きずって。
「ひどい奴らだね。でも、こういう人が増えてるのかもしれないと思うと……」
消えゆくカツアゲ男たちの背中にあっかんべーをしてから夕姫はそう言った。
「そうだね。でも、ともかく、この人は助けられたわけだし、良かったんじゃないかな」
青ざめていた女の鞄を涼は拾い、キラキラとした微笑を浮かべて返す。女はほんの一瞬ボッと顔を赤らめて、深くお辞儀をした。
「ありがとうございます。助かり、ました。何かお礼がしたいのですが、何かありますか? 何でも良いですから」
「礼ならいらない。あなたも、簡単に何でもする、と言わない方がいい。またああいった奴らに目をつけられるぞ」
光希の淡々とした忠告に女は目を見開く。しばらく固まってから、頰を紅潮させて細い声で言う。
「……ご心配、ありがとうございます」
踵を返した背中に涼が声をかける。
「気をつけてくださいね」
長い髪が嬉しそうにフワリと揺れた。光希はふっと息を吐き出す。
「先の事、神林という名を聞いたのじゃが、お主か?」
「──っ!?」
しわがれた声が下から聞こえた。驚きで心臓が口から出そうになった夕姫は、ガクガク震えて涼の袖を掴む。涼の手がするりと夕姫の手を包み込んだ。
涼のすぐ目の前には、背中の曲がった老人が杖をついて立っている。その目は細められ、瞳の色も判別できない。シワで覆われた顔と、小柄な身体は痩せていた。一人だけ違う時代からやって来たかのような着物姿に、目を疑う。
その上、この距離まで近づかれるまで全く気が付かなかった。まるで存在自体から意識を逸らさせられていたかのようだ。ひやりとした感覚に、涼は夕姫の手を握る手に力を入れた。
「はい、僕は神林涼です。あなたは……?」
「儂は、神林家に用があっての、案内して欲しいのじゃよ。汝等も共に、な」
涼の質問をかわし、老人は口元をニヤッと吊り上げる。静電気のような小さな緊張感は老人のお茶目な言葉でなし崩しに溶けていった。
「だってほら、儂、ヨボヨボじゃろ? 先刻のような輩に目をつけられたらかなわん。見たところ、腕が立つようではないか。連れて行ってくれるくらい良いじゃろー?」
光希は思わず老人をまじまじと見つめた。しっかりした足腰、自分たちに悟られないで近づく技量。相当の実力者であることは火を見るよりも明らかだ。限りなくヨボヨボではないような……。
光希たちは顔を見合わせて、それから震えの止まった夕姫が言った。
「えっと、私たちで良ければ、案内します!」
──そうして明らかに護衛過剰で、非常に怪しいご老人を、神林本家に送り届けることになったのだった。




