紅蓮を纏う鳥
「お、お嬢様!?」
イザヤの口から出たのは詠唱の最後の一節ではなく、動揺の声だった。ワンピースを翻し、薄薔薇色の髪をした少女はイザヤとカレンの間に向かってゆっくりと歩いてくる。額で水色に透き通る石が月光に揺れた。
「なぜお嬢様がここに……」
「だって、イザヤがいなかったのです」
イザヤを見上げてセルティリカはにこりと笑う。
「イザヤが『ベガ』だって、ワタシは知ってたのです。次期総帥、なのでしょう?」
びくりとイザヤの身体が強張った。それはイザヤにとって、セルティリカに一番知られたくないことだった。
「……いつから、お嬢様はそれを知っていらっしゃったのですか?」
セルティリカの瞳が一瞬宙を彷徨う。そして、はにかんだ控えめな微笑みを浮かべてイザヤを見つめる。
「いつ、というのは具体的には思い出せないのです。ですが、これだけははっきりと覚えているのです。ワタシがイザヤを好きになった時から、なのですよ」
言ってしまってから顔は真っ赤になって、ぷしゅうと湯気が上がった。セルティリカは目をつぶって言いたいことを最後まで口にする。
「……好きになった人をもっと知りたいと思うのは、おかしい、なのでしょうか?」
恐る恐る目を開けたセルティリカは、自分の護衛の青年が目を見開いて固まっている姿を見た。
「べ、別に、この話は聞かなかったことにしてもいいなのです! イザヤはワタシよりもずっとお兄さんで、カッコいいなのですから、その……、ワタシを好きになってほしい、とか、そんなことではないなのです。そ、そうなのです。ワタシがただ、片思いなのを暴露してしまっただけなのです……。だから、その、嫌わないで……」
言葉を重ねれば重ねるほど、言い訳のようになってくる。真っ赤になってショートしたセルティリカの頭には、もうそんなことは考えられない。
「お嬢様、オレの目を見てください」
いつのまにか、イザヤの顔が近くにあった。セルティリカはイザヤから逃げてしまいそうな潤んだ瞳を無理やり大きくする。
「オレはそんなことでお嬢様を嫌いになったりしません。……お嬢様のお気持ち、嬉しかったです。忘れたりなんかしません」
ですが、とイザヤは倒れたままのカレンを見て話を続けた。
「オレは『ベガ』として、裏切り者を生かすことはできません。これは掟です。お嬢様の前で処断することをお許しください」
セルティリカのよりも大きな手がアクアマリンの瞳を覆い隠す。
「それはワタシが許さないのです、イザヤ」
静かに凛とした声でセルティリカは告げた。イザヤの手をそっと解く。流れるように軽い動作にイザヤはなぜか、全く抵抗することができなかった。
「『ベガ』はライフェルノ家の陰。ですから、ワタシの命令は何よりも優先されるはずなのです」
「ですがっ!」
セルティリカは強い光を秘めた目をイザヤを見つめた。イザヤはそれで押し黙る。
「彼女の『ベガ』への忠誠心は本物なのです。イザヤも気付いているはずなのです。ここはワタシたちの国ではありません。処断する必要はないのです。責任はワタシが取るのです。だから、殺さないでくださいなのです」
しばらく沈黙が降りた。カレンは自分の処遇を他人事のように聞いていた。薄れそうな意識を辛うじて繋ぎ止め、耳を澄ます。
「……お嬢様がそうおっしゃるのなら。オレはお嬢様の物です。いつでも優先順位はお嬢様が一番です。お嬢様に責任は取らせませんから」
イザヤが纏う殺気が霧散する。カレンの張り詰めていた緊張の糸と共に意識はそこでふつりと途切れた。
楓に言われたように抗うことを選んで良かった、そう思って。気を失ったカレンの口元は少しだけ笑っていた。
不意にセルティリカは顔を上げ、ぐるりと辺りを見渡す。
「──そこにいるのでしょう、ミツキ?」
あどけない少女の声が闇に落ちる。残響が消え止まない内に、黒い木の陰から光希は音もなく姿を現した。
「どうして分かった?」
イザヤに気づかれるならまだ分かる。だが、対人戦闘に慣れていなさそうなセルティリカが、気配を消した光希の居場所をぴたりと言い当てたことは驚きだった。
「どうして、ですか。だって、ワタシの魔眼は精霊を見る力があるなのですから」
光希は虚な目を細める。
『どうやら本当のようだな。我の姿をあの娘は視ている。その上、あの娘の精霊は……』
珍しく青龍が言い淀む。光希が続きを促そうとする前に、セルティリカは言った。
「聞いたのです。あなたは、アマミヤの姫の護衛だった、と。つまり、あなたはアマミヤの姫を守れなかった」
光希は反応を返さなかった。構わず、セルティリカは話を続ける。綺麗な瞳に映る光がどことなく強くなったような気がした。
「──ワタシと戦ってくださいなのです、ミツキ。そして、ワタシが勝ったら、すべてを教えてほしいのです。カエデがどのような人で、どのように命を落としたのか、まで」
冷たい風が光希の頰を撫でた。月明かりは静かに向かい合うセルティリカと光希、それからイザヤの上に降る。
「俺が勝ったら……?」
光希は口を開いた。
「余計な詮索はしないと約束するのです。ですが、負ける気はしないのですよ」
セルティリカの声は真っ直ぐで自信のこもったものだった。それほど確かな実力をセルティリカは持っているのだろう。
「フィー、出て来るのです」
セルティリカは友人を呼ぶように、優しく呟く。薄薔薇色の髪が溢れ出す霊力によって揺らぎ、舞い上がる。紅蓮の炎がセルティリカの周りの地面を焼いた。
『朱雀……』
青龍が声を漏らす。炎が姿を変え、光希の前に降り立った巨大な鳥は音のない声を上げた。何も聞こえていないはずなのに、頰がビリビリと振動する。光希はあまりの存在感に圧倒され、目を見開いた。
『久しぶりですね、青龍』
光希から半ば勝手に姿を現した青龍に向かって、火の鳥は呼びかける。青龍がフッと笑う気配がした。
『……よもや、お主が異国の少女を主に選ぶとはな』
『ええ、私も、人間を嫌う貴方が主を選んだことに驚いています。……いえ、それは強制的な契約でしょうか?』
光希は二柱の精霊の会話から、セルティリカの従える精霊が青龍と同じ原初の精霊、四神の一柱だと判断する。呆気に取られた顔のセルティリカも、言葉を交わす青龍と朱雀を眺めていた。
『ふん、確かにこの契約自体は強制的な物であったが、我は我が主に満足しておるぞ。さて、お主の主と我が主、いずれが強者であるか、甲乙つけようではないか。無論、光希が勝つがな』
髭を揺らして振り返った青龍は、鼻息を吐いたように見えた。光希は微かに口角を上げる。どうやら青龍は思っていた以上に光希を買っているようだった。
『……。私の主も負けてはいません。その上、私と貴方は等しく四神に連なるもの。なればこそ、私とセルティリカが敗北する理由は存在し得ません』
ムッとしたように朱雀は青龍の宣戦布告に返す。セルティリカは己と契約した精霊と頷き合った。
光希だけに伝わるよう、青龍は意地の悪い笑い声を上げる。
『……朱雀にはお主が術式を扱えることを見抜けなんだ』
『青龍、お前だけで戦えるか?』
光希は問う。青龍が不思議そうに頭を傾げた。
『できるが……、何故だ?』
『卑怯だからだ。あちらは本気の実力勝負を挑みに来ている。それに、できるだけ手札は隠しておくべきだ』
青龍が思案する間、虫の音も聞こえない無音の静けさが夜に漂う。
『まあ、一理はあるな。実力ならば、別段卑怯とは思わんし、すぐにお主がかなりの術者であるのは暴かれるだろうが。しかれども、お主が望むのであれば、我はその望みに答えよう』
低く落ち着いた声で光希は我に帰った。セルティリカと朱雀に目をやって、光希は最後に青龍を見る。
「準備は良いなのですか?」
セルティリカはにこりと微笑んで、凍てつくばかりの冷たい緊張感が空気を走り抜けた。
これからはこのくらいの更新頻度になると思います。よろしくお願いします。




