破砕音
空を覆う霊力が濃くなっている。術式展開まで1分を切った。光希は脇腹の痛みで鈍い足を引きずりながら、走っていた。
霊力を使ってはいるものの、速くは走れない。だが、楓が近くでまだ戦っているのに、ここで諦めるわけにはいかない。
絶対に辿り着いてみせる。
せめて近くにさえ行けば、青龍に凌いでもらうこともできるはずだ。
『……間に合わぬぞ』
青龍が言う。
「間に合わせてみせる。絶対に守る」
『お主のその様子では間に合わぬ。姫は諦めるのだ。我とて準備無しであの地を穿つ閃光を防ぐことはできぬ』
合理的で、それが真実なのだとは光希にも分かる。
「ふざけるな。……分かってるさ、そんなこと。それでも、俺は天宮を見捨てることなんかできない。もう二度と、目の前で誰かを死なせたりしない」
光希の合理的ではない答えに、青龍は沈黙する。数秒の間を置いて、青龍は言葉を発した。
『時間が来れば、我は姫がいようがいなかろうが、お主を守る。心して置け』
「分かった」
光希は青龍に貰った猶予を噛み締め、先を急ぐ。
楓は自分の意志でここに残った。おそらく、その時点で生きて帰ることを切り捨てたのだろう。
楓は物分かりが良いのだ。いつだって心の奥は冷静なまま、状況を判断する。そこに自身の感情は入らない。
それ故、己の死さえも、仲間を守るために選べてしまう。簡単に、あっさりと。
天宮楓をそんな風にしてしまったのは、この世界だ。光希にはそれが許せない。
だから、光希は天宮楓を救う。救いたい。
諦めなくていい、生きていてほしい、と伝えたいから。
甲高い金属音が耳に届く。
光希はハッと顔を上げた。解けた長い黒髪をなびかせた楓は、着物に似た黒衣を纏う白髪の少年と刀を合わせている。
まだ遠いが、これなら間に合うかもしれない。希望的な観測が浮かんだ。
楓と少年の手元で、砕けた銀色が舞う。
そして、紅いものが宙に散った。
楓の身体ががくりと力を失くし、楓の胸を貫いた刃は鮮血を滴らせる。
「天宮ーッ!」
考えるよりも先に叫んだ。話をするには遠すぎる距離にいる楓はこちらを見る。返り血で白髪を斑らに染めた少年は血を吐いた楓から刀を抜くと、光希の方を紫色の瞳で見た。
倒れていく楓の口が動く。
何を言っているのか、光希にははっきりと分かる。なぜなら、それは伊織が最期に口にした言葉と同じだから。
ありがとう、は別れの言葉と同じだ。
……それなのにどうして、楓は心から満足そうに笑うのだろうか。
光希の身体を蒼い龍の炎が包む。
真っ白な光が視界を焼き、全てを消し飛ばす。
後には何も残らない。
光希は目を開けた。蒼い炎は既に消えている。辺りはずっと向こうまで平らな更地だった。何もかもが消えたのだ。
「天宮は……、どこだ? 青龍、お前なら居場所が分かるだろ?」
震える声で光希は問う。楓なら何とかして生き残っているのではないか、笑って帰ってきてくれるのではないか、期待だけが膨らんでいく。
『光希よ、此処には何も無い』
「嘘だ」
『お主も分かっておるであろう? あの地を穿った破壊の光に、人は抗うことなどできはしない、と。はっきりと我は言おう。天宮の最後の姫は、もういない』
もういない。
その言葉はどんな言葉よりも深く光希の心を抉った。地面に膝を着く。負った傷の痛みは意識にすら上らない。指から血が滲むのも構わず、土を握りしめた。
「……ぁあ」
掠れた呻き声が溢れる。
また、だ。
また守れなかった。
また目の前で死なせてしまった。
また自分は手遅れだった。
また……。
いつでも、大事なものほど守れない。大事なものほど失くしていく。
もっと自分に力があれば、楓は自分たちを守って死ぬことはなかったはずだ。
もっと、強くなりたい。これ以上大事なものを失わないように。
だが、楓を失った自分が何を守るというのだろう。守りたかったのは、楓だけだ。それなら、もう光希は何の為に強くなれば良いのだろう。
理由を失くす。
……天宮楓のいない世界に、意味なんてなかったのだ。
もう先に進めない。
進む理由も意味も、もう無いのだから。
光希の中でなにかがこわれる音がする。
血と霊力を失いすぎた光希の身体は限界を迎え、ぐらりと揺れる。そこで光希は意識を失くした。
ふわりと初雪が曇った空から舞い降りた。
***
「光希、おはよう」
相川みのるは白いベッドの上で佇む息子に声を掛けた。
「……」
返事はない。虚な瞳は何も映さずにいる。ここにいる光希はただの抜け殻だった。
天宮楓を失ったあの日から、数日。
誰もいない場所で倒れていた光希を涼たちが運び、そのまま病院に運ばれたのだ。次の日に目覚めた光希はもうこの状態だった。
おそらく、光希はあの日、あの場所で自分の心を殺してしまったのだろう。
今の光希は、『命令』に従うだけで人形となんら変わらない。皮肉なことに、それは天宮家が求めた相川の姿でもあった。
みのるは立ち上がり、窓際から灰色の空を見上げる。
「……相川は、兵器は、何も守れないのかな……。ねえ桜、教えてよ……」
冬の空はしんとして、何も返さない。五星が壊れて、空の色は淀んでしまった。
***
ざあざあと雨は降る。重く灰色になった空は、大粒の涙を少女の代わりに流しているようでもあった。
寒い。
白い壁の建物の傍らで座り込んで、僅かばかりに飛び出しているひさしで雨を凌ごうとしている黒髪の少女はピクリと指を動かした。
寒い。
身体を少しでも温めようと、自分を自分で抱きしめる。冷え切った手は身体と同じ温度で、一向に身体は温かくならない。しかし、それでも少女は風邪ひとつ引けないのだ。だから、あの人たちは喜んで少女を外に放り出す。少女はあの人たちにとって、絶対に壊れない玩具でしかない。
哀しい、辛い、苦しい。その感情ももう分からない。
誰か、助けて。
まだそれだけは諦められない。この世界のどこかには、こんな自分でも大事にくれる人がいるんじゃないか、と。
そんな人はいない。
知っている。
諦めろ、と頭の中の自分が囁く。
……うん、諦めるよ。
ずっと待った。高々数年だったけれど、十分だった。
この世界を少女が見限るには、十分だ。
少女の頰を冷たい雫が滑り落ちる。止めどなく降る空の涙は、泣くことも忘れた少女の代わりに流す涙だ。
少女は願った。強く。生まれて初めて抱く強い願い。
こんな世界なら、壊れてしまえ。
……他には何も、望まないから。
7章のエピローグでした。
7章はいかがでしたか?
次から、物語は後半戦に移ります。




