願いの果て
楓は刀を握る手に力を込めた。夕姫たちの気配はあっという間に遠ざかり、この荒れ果てた地に立っているのは楓とあの黒い人影のみ。
その人は、前に遊園地で出会ったあの少年のような、そして百足女といた鬼の少女のような、そんな雰囲気を纏っている。さらに、楓が苦戦していた魔獣をたった一閃で倒してのけた。
楓が実力に劣るのは明白な事実だった。
ぶるりと身体が震える。恐怖からのではなく、これは武者震いだ。全力を出し切って、それでも届かない相手。アレだけは絶対に夕姫たちの場所まで辿り着かせてはいけない。その時点で全てが終わる。楓の本能はそう告げていた。
伝い落ちる冷たい汗を感じながら、楓は決意を胸に刻む。
ここだけは絶対に通さない。
たとえ、ここが最期の場所になるとしても。
楓は刀の鞘を捨てた。からん、と軽い音が響く。そしてそれが戦いの開始を告げる合図になった。
黒い着物のような不思議な服装をした影の姿は霞む。楓は刀を構え、感覚を最大限に研ぎ澄ます。頭上から気配を感じたと同時に楓の刀は跳ね上がり、振り下ろされる刃を受け止めた。
「ぐっ……」
攻撃の重さが楓の膝を震わせる。歯を食いしばり、無理やり振るう。布で顔を隠した相手は軽やかに距離を一旦離すと、再び間髪入れずに走り出す。
楓は攻撃を受けるばかりでは勝機が無いと判断し、真っ直ぐ敵に向かって駆け出した。耳元で冷たい風が唸り、ポニーテールがたなびく。
「はあああっ!」
叫び声と共に刀を一閃させた。それは敵の首元に巻かれた黒いスカーフの端を断つ。ほぼ同時に放たれた攻撃は楓の髪の毛を一房、さらっていった。
「お前は何者だっ!」
刀を振るう手は一切止めることなく問いかける。
「……」
黒い敵は何も答えず、淡々とした動作のまま楓を追い詰めていく。楓の頰から赤い血が散った。首を捻っていなかったら、血管を、いや、首自体を持っていかれていたかもしれない。
それでも、生きて帰ることを完全に諦めたわけではない。光希とした約束を守る為に……。
楓の瞳は金色を帯びる。世界から色が消えていく。時間はゆっくりと流れ始め、感覚はさらに鋭敏になる。
金色の瞳をした黒髪の少女はフッと息を吐いた。意識は既に戦闘に特化し、身体の能力は上がる。これが、楓の全身全霊、全力だ。
楓の纏う空気の変化を感じ取り、黒い人は日本刀を構え直す。無駄の一切ない流麗な立ち姿にはもちろん隙などどこにもない。
もう一度、楓は息を吸って吐いた。
金色の瞳は真っ直ぐに倒すべき相手を見つめる。黒布で隠された先の瞳と目が合ったような気がした。
相手の音のない踏み込みで、間合いが一気に縮まる。楓は足を動かさずに迎え撃つ。
ぎぃん、と金属同士がぶつかり合い、火花が散った。
楓は足を引き、滑り込むようにして相手の首を狙う。
手加減などできない。狙うのは、相手を殺すことのみだ。
ギリギリで敵は頭をずらして斬撃を避けた。だが、代わりに顔を隠していた布が風に乗って飛ぶ。
白髪が揺れた。紫色の美しい瞳が楓の金色の瞳を覗き込んだ。
――鬼。
楓の本能は彼の正体を鬼だと告げる。紫眼はあの時の鬼の少女と同じ……。
端正な顔立ちをした少年は、顔が暴かれたことにも無表情で戦闘を続けた。
血が散る。
今度は楓の腕だ。鋭い痛みを無視し、楓はさらに前へと踏み込む。ゼロ距離から刀を突き出すが、白髪紫眼の少年は刀を手放して回避する。刀まだ宙にある内にその手は柄を掴み、楓の懐に潜り込んだ。
「っ!」
少年の心臓に向かう刀の軌道を力任せに捻じ曲げ、鍔で刃を逸らす。が、放たれる蹴りを防御する術を楓は持たなかった。
「ぐぁっ!」
地面に叩きつけられ、肺から息が抜ける。だが、まだ終わるわけにはいかない。
あと少し。あと少しなのだ。
夕姫たちが術式を完成させるまで、あと少し。楓が倒れて良いのはその後だ。
力を失いかけた足を叱咤する。震えながら、それでも立ち上がる。
紫眼が意外だとばかりに微かに見開かれた。楓は刀を掴み、斬りかかる。
人の認識を超える速さでの戦いが始まった。刃を交えていることを伝えているのは、空気を揺らす衝撃と荒々しい金属音。
「お前の目的は何だっ! なぜボクらを狙う! なぜ、人間を殺すっ!?」
叫ぶ。少年は後ろに跳んで距離を離した。
「僕の目的は、天宮楓」
感情の薄い声で少年は呟く。
「天宮楓を殺すことのみ。その他の人間に興味はない」
驚きが楓の顔を彩った。しかし、それは一瞬のこと。その言葉に楓は安堵の息を吐き出した。
楓の中で、生きて帰るという選択肢が切り捨てられる。ならば、ここで楓が選ぶのは、この鬼の少年を道連れにすることだけだ。
とうに覚悟はできている。
今度こそ、楓の金色の目は凪いで静かになった。震える足に力を入れる。そして、強く強く地面を蹴った。
「ああああっ!」
激しい衝撃が楓と少年を襲う。ほんの僅かに少年の身体が下に押し込まれる。楓は力を抜き、後ろに跳ぶ。下から襲ってきた斬撃をそれで避けると上段から刀を振り下ろす。2人は離れて、また刃を交える。楓の髪を結えていた紐が千切れた。長い髪が広がる。
身体のあちこちはもう傷だらけだ。少年の黒い服も破け、白い頬に一瞬血が伝い、傷は消える。
何かがおかしい。
少年の傷が消えるのを見て楓は思った。
楓の傷は一切治っていない。
疑問を頭から追い出す。そんなことはどうでもいい。動けるなら、戦えるなら、それで良い。
ふと、少年の眼を見た。ぼう、と紫眼が怪しい光を放つ。楓の身体が感覚を失くした。瞬きするほどの短い時間だった。だが、同時にそれは致命的な時間になる。
少年の刃が真っ直ぐとこちらに向かってくる。楓は寸前で刀を間に合わせ、受け止める。
とどめを刺しに来ているのだ。ここで、楓が力負けすれば終わり。
静止しているように見える2人の刀は凄まじい力でぶつかり合う。
ピシッ、と終わりの音は楓の刀から響いた。
楓は目を見開く。赤みがかった楓の霊剣は砕け散る。
「がっ……!」
砕けた刀を越え、少年の握る刃が楓の胸を貫いた。目を合わせた少年の瞳は恐ろしいほど静かだった。
完全に刀は楓の胸を貫通している。間違いなく、この傷は致命傷だ。
ああ、やっと気がついた。
天宮楓が強くなりたかった本当の理由。それは誰かに認めてもらう為などではない。
ただ、誰かを守って死にたかった故に求めた強さだったのだ。
楓には何の力もない。天宮の名を持つ『無能』それが楓だ。代わりにバケモノのような身体があって、誰も側にいようとはしてくれなかった。
何をしても、何を頑張っても、誰かが自分を認めてくれることなどあり得ない。初めから、気づいていた。
それでも、楓は自分を騙した。まだ、希望はある、きっと誰かが認めてくれるはずだ、と。その期待もいつか裏切られて、楓には何も残らなかった。
だから望んだ。
何もできない自分だから。
何の意味も為せない自分だから。
せめて、誰かを守って死んで、誰かに憶えていて欲しかった。
昔、自分を救ってくれた人がいたなあ、とそれくらいの記憶で良かったから。
ああ、でも――。
壊れたボロボロの校舎の跡地に思う。
青波学園に入ってから、変わった。友達ができて、護衛なんて御免だが、護衛も2人できた。『無能』の自分を認めてもらえた。
何よりも、自分が変わった。光希に会って、憧れて。自分には無いものを持つ光希は誰よりも何よりも眩しかった。
もう独りじゃないと、教えてもらったから。
その居場所を守りたい。楓が帰る場所で無くても、幸せを知った初めての場所を。
そう、バケモノの『無能』には身の丈以上の幸せをもらった。生きる意味を知った。うん、天宮楓は幸せだ。
だからこそ、この命はここで棄てる価値がある。
――初めから、それが望みだったじゃないか。
なのにどうして、少しだけ嫌なのだろう。
口から血を吐き出す。刀が胸から引き抜かれる。感覚が消えつつある身体が地面に向かって崩れていく。
「天宮ーっ!」
聞こえるはずの無い声を聴いた。
少し、思い出す。
約束をしたな、と。
怪我をしないで無事に帰ってくる、だっただろうか。
ごめん、約束は守れそうにないや。
心の中で謝る。微かな後悔が胸を刺した。
あの言葉の続きを聞きたかった。
叶うことなら、もう少し側に居たかった。
もしも、光希が側にいるのなら、なんて言おうか。
ただ一言、
……ありがとう、と。
楓の意識は途切れ、沈黙が訪れる。直後、閃光が全てを吹き飛ばした。




